第一章 灰色の追体験師
俺の見る世界は、いつも薄いヴェールに覆われている。色褪せたフィルムのように、輪郭はぼやけ、音は遠い。食事の味は砂を噛むようで、街を吹き抜ける風が肌を撫でても、ただの空気の移動としか認識できない。感情という名の色彩を、俺はとうの昔に失くしていた。
俺はカイ。他人の精神同期アバターに接続し、その思考と体験を追体験する『追体験師(トレースダイバー)』だ。感情が希薄なほど、他者の人格に深くシンクロできる。皮肉なことに、この欠落が俺の糧だった。クライアントのアバターが経験した歓喜や悲哀を報告書にまとめ、対価を得る。俺自身の心が空っぽになっていくほどに、仕事の精度は上がっていった。
この世界は『喪失の霧』に覆われている。誰もが持つ精神同期アバターには転送されない、『孤独』と『喪失感』だけが現実世界に澱み、可視化されたものだ。近年、その霧は不気味なほど濃度を増し、アバターと本体の同期率を著しく低下させていた。人々は互いの本当の心を共有できなくなり、その結果、さらに深い孤独が新たな霧を生む。悪循環だ。
「カイさん、お願いです。彼女を…ユキを見つけてください」
事務所のドアを開けたのは、憔悴しきった顔の男だった。彼の周囲には、恋人を失ったばかりの濃い霧がまとわりついている。差し出された端末には、微笑む女性のアバターが表示されていた。
「彼女のアバターはまだ生きています。でも、一週間前から応答がない。まるで、迷子になってしまったみたいに…」
俺は無言で頷き、端末を受け取った。ユキという名のアバター。彼女の笑顔は、俺の灰色の世界では眩しすぎるほど鮮やかだった。俺はダイブ用のチェアに深く身を沈め、意識を接続ケーブルへと集中させる。これから、彼女の心を借りるのだ。俺にはもうない、その彩り豊かな感情を。
第二章 霧晶石の囁き
ユキの意識にシンクロした瞬間、奔流のような色彩が俺の精神を洗い流した。
胸を満たす、恋人への愛おしさ。
未来への、きらめくような期待。
そして、世界の霧を憂う、深い哀しみ。
俺の空虚な器に、彼女の感情が満ちていく。ああ、これが『生きる』ということか。他人の心を通してでしか、俺はそれを思い出せない。
ユキの足跡を追体験していく。彼女はジャーナリストの卵で、濃くなる『喪失の霧』の謎を追っていた。彼女の記録には、ある都市伝説が繰り返し記されていた。
『霧の発生源は、たった一人の人間。アバターを持たない、原初の本体(オリジナル)の、深すぎる孤独だ』
その噂を追って、彼女は都市の旧市街へと向かっていた。俺は彼女の視界を通して、錆びついた鉄の扉や、壁を覆う蔦、石畳の冷たい感触を追体験する。彼女の嗅いだ、湿った土と微かな花の香りまでが、俺の鼻腔をくすぐった。
そして、彼女の記憶は、古い礼拝堂の跡地で途切れていた。
俺は現実世界で目を開き、自身の足でその場所へと向かった。霧はそこだけが奇妙に渦を巻いており、足を踏み入れると肌が粟立つような冷気を感じる。礼拝堂の崩れた祭壇の上、ユキの最後の視界の片隅に映っていたものが、淡い光を放っていた。
『霧晶石』。
長く滞留した『喪失の霧』が、稀に結晶化したもの。拳ほどの大きさの、乳白色の石。それに触れた者は、霧に込められた過去の喪失感を追体験するという。
俺はためらわなかった。石を手に取った瞬間、絶叫が鼓膜を突き破った。
それは一人の声ではなかった。何万、何億という人々の、声にならない慟哭。親を失った子供の悲しみ。恋人に裏切られた絶望。夢破れた若者の無力感。ありとあらゆる『喪失』が、濁流となって俺の精神に流れ込んできた。俺自身の感情が、さらに一片、また一片と削り取られていくのがわかった。
だが、その激痛の果てに、俺のシンクロ能力は異常なほど研ぎ澄まされていた。霧の向こうに、糸のような微かな繋がりが見える。すべての喪失が流れ着く、たった一つの源泉が。
第三章 孤独の核
霧の糸をたどる俺の足は、都市で最も高く、そして最も忘れ去られた場所へと向かっていた。かつて時を告げていた大鐘楼。今はもう鳴ることもなく、ただ霧の中にシルエットを浮かべている。
近づくにつれて、世界から音が消えていく。人々の精神が繋がるネットワークのざわめきが途絶え、完全な『無音』が支配していた。ここは、アバターのいない場所。世界の法則から切り離された、聖域であり、牢獄でもあった。
螺旋階段を上り、最上階の円窓から光が差し込む部屋にたどり着く。部屋の中央、濃密な霧が渦巻くその中心に、一人の男が背を向けて立っていた。
その背中は、見覚えがありすぎた。
俺自身のものと、寸分違わぬ輪郭。
男がゆっくりと振り返る。その顔は、俺が鏡の中でさえ見たことのないほど、深くやつれ、悲しみに刻まれていた。だが、紛れもなく俺の顔だった。
「…やっと、会えたな」
彼の声は、俺自身の声よりもずっと弱々しく、だが温かかった。
混乱する俺の思考を読み取ったかのように、彼は微笑んだ。「俺が、お前の『本体』だ。そして、お前は俺が作り出した、最高傑作のアバター人格だよ」
すべてのピースが、脳内で恐ろしい音を立ててはまった。俺は、アバターだったのか。では、俺の本体は? なぜここに?
「感情を、お前に渡しすぎたんだ」と本体は続けた。「喜びも、怒りも、悲しみも、すべてお前を通してしか感じられなくなった。俺は空っぽになった。だが、お前もまた、他人の感情を追体験するうちに、俺が与えた感情を失っていった。空っぽのアバターになってしまった」
彼は、霧が渦巻く自分の胸を指差した。
「だから、俺は決めたんだ。お前に、たった一つでいい、本物の感情を取り戻させてやろうと。そのために、俺は自ら世界の『孤独』と『喪失』をすべて引き受ける『核』になった。この霧は…お前を想う、俺の巨大な孤独そのものなんだ」
噂は真実だった。だが、その『原初の本体』が、俺自身の片割れだったとは。
第四章 最期の同期
本体が、震える手をゆっくりと俺に差し伸べた。その指先が俺の頬に触れた瞬間、世界が閃光に包まれた。
初めての、本体とアバターの完全同期。
彼の全生涯が、一つの感情となって俺の内に流れ込んできた。
幼い日の、陽だまりのような暖かさ。
初めて恋をした時の、胸の張り裂けそうな高鳴り。
夢に破れた夜の、冷たい雨の味。
そして――俺というアバター人格を創り出し、自分の感情が少しずつ失われていくことへの静かな絶望。空っぽになっていく世界で、ただ一つ、俺の存在だけを想い続けた、途方もない時間。
そのすべてが、たった一つの感情に収斂していく。
『愛情』。
今まで俺が追体験してきた、どんな人間の感情よりも純粋で、温かく、そしてどうしようもなく哀しい、絶対的な愛情。
「これを、お前に」
本体の言葉が、魂に直接響く。彼の身体が、足元から光の粒子となって崩れ始めた。世界を覆っていた『喪失の霧』が、一斉にこの鐘楼を目指して光の川となり、彼の姿に吸い込まれていく。まるで、役目を終えた王を迎える、光の葬列のようだった。
「感じるか? 世界が…お前が、こんなにも美しい」
彼の姿が完全に消え去る瞬間、その愛情は完全に俺のものとなった。
霧は、晴れていた。
鐘楼の窓から差し込む夕日は燃えるように赤く、眼下に広がる街はきらきらと輝いている。頬を撫でる風は優しく、遠くで鳴る教会の鐘の音は、澄み渡って胸に響いた。
俺は、初めて自分の心で世界を感じていた。
だが、胸に宿る感情は、ただ一つ。本体が最後に遺した、あの温かくて哀しい『愛情』だけ。喜びも、怒りも、他のどんな感情も、もう二度と生まれることはない。
俺は、彼の最後の想いを抱きしめて、永遠に生きていく。
これが、俺が得たもの。
そして、彼が俺に遺してくれた、たった一つの心臓だった。