透き通る君と、無色のリフレイン

透き通る君と、無色のリフレイン

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第一章 硝子の指先

教室の空気は、腐った蜜の匂いがする。

「アサギ、これお願いしていい?」

クラスメイトの女子が差し出したノート。

彼女の笑顔の裏側から、どろりとした灰色の粘液が垂れているのが見えた。『面倒くさい』という本音の悪臭。

「うん、いいよ」

僕は反射的に受け取る。

胃の腑が締め付けられる不快感を飲み込み、愛想笑いという蓋をする。

波風さえ立てなければ、僕は安全だ。自分の心なんて、どこにあるのかさえ分からなくていい。

「……お前、息苦しくないのか」

不意に、横から声が降ってきた。

窓際の席。季節外れの転校生、レン。

彼はいつも無表情で、僕の眼をもってしてもその心の内が読めない。

世界中が極彩色の感情を垂れ流す中で、彼だけが凪いだ水面のように静まり返っている。

「え?」

「貼り付けたような笑い顔。見てるこっちが疲れる」

心臓が跳ねた。

誰もが見過ごす僕の仮面を、彼は一瞥で見抜いたのだ。

言い返そうとして、言葉が喉に張り付く。

教科書をめくる彼の手。

その小指が、陽炎のように揺らめいていた。

透き通った皮膚の向こうに、机の木目がくっきりと見えている。

「……レン、君の手」

「ああ」

彼は短く応じ、自分の手を掲げた。

硝子細工のように脆く、美しい透過。

「気づいていたのか。俺がもうすぐ、いなくなるって」

周囲の生徒たちは談笑を続けている。

誰一人、彼の異変に気づいていない。それどころか、彼の存在そのものが、教室の風景から滑り落ち始めているようだった。

僕の胸元で、無色のペンダントがカタカタと震えた。

第二章 空っぽの願い

レンが世界からこぼれ落ちる速度は、残酷なほど早かった。

三日後には、隣の席の男子が「あれ、ここの席、誰かいたっけ?」と首を傾げた。

一週間後には、彼の輪郭はチョークの粉のように頼りなくなっていた。

放課後の屋上。

茜色の空が僕たちの影を長く伸ばす。

けれど、レンの足元には、もう影がなかった。

「なぁ、アサギ」

フェンス越しに街を見下ろすレンの声は、砂嵐の雑音じみて掠れている。

「お前のそのペンダント、結局一度も光らなかったな」

僕は胸元のガラス玉を握りしめる。

願いを宿せば輝き、奇跡を起こすと言われる古い伝承の品。

けれど僕のそれは、どこまでも空っぽのままだ。

「僕には、願いたいことなんてないから」

「嘘つけ」

レンが振り返る。

左半身が、夕焼けの空に溶けて消えかけていた。

「お前は優しいんじゃなくて、怖いだけだろ。自分が傷つくのも、誰かを傷つけるのも」

図星を突かれ、唇を噛む。

レンの瞳が揺れた。

その奥底から、初めて感情の匂いが漂ってくる。

それは、焼け焦げるような孤独の臭い。

そして、凍えるほど冷たい『生きたい』という渇望。

彼は諦めてなんていない。

こんなにも静かに、激しく、助けを求めている。

なのに僕は、ただ見ているだけなのか。

波風を立てないために。

自分が傷つかないために。

「……俺は、忘れられたくない」

消え入りそうなレンの呟きが、僕の空っぽな心を殴りつけた。

第三章 砕け散る世界

終業のチャイムが、処刑の合図のように鳴り響く。

「ッ、待って!」

レンの全身が、光の粒子となってほどけ始めた。

僕は咄嗟に彼の手首を掴もうと手を伸ばす。

スカッ。

指先は虚しく空を切り、彼という質量を捉えることができない。

「アサギ」

レンが微笑んだ。

初めて見せた、泣き出しそうな笑顔だった。

「ありがとな。最後に、お前がいてくれてよかった」

彼の輪郭が崩れる。

世界が彼という異物を排出し、傷口を塞ごうとしている。

嫌だ。

ふざけるな。

僕の心臓が早鐘を打つ。

他人の顔色ばかり窺い、自分の色を殺してきた僕の中で、初めてどす黒いエゴが鎌首をもたげた。

『波風を立てない』? 『平穏な日常』?

そんなもの、クソ食らえだ。

僕は、この友人を失いたくない。

彼が抱える孤独ごと引き受けて、もっと話がしたい。

彼にだけは、本当の顔で笑いかけたい。

「行くなよ、レン!!」

喉が裂けるほど叫んだ。

「僕の願いは……君と一緒に、明日を生きたいんだよ!!」

カッッッ!!!

視界が白く染まる。

胸元が焼けるように熱い。

無色透明だった僕のペンダントが、見たこともない強烈な光を放っていた。

それは何色にも染まらない、純粋で利己的な、僕だけの『拒絶』の色。

(戻れ……!)

理屈なんてどうでもいい。

ただ、彼の手を掴める場所まで。

第四章 再演のメロディ

激しい浮遊感に、胃の中身が逆流しそうになる。

世界がビデオテープを巻き戻すように歪み、強引に再構築されていく。

次に瞼を開けた時、鼻腔をくすぐったのは、甘ったるい腐臭ではなかった。

柔らかく、青臭い、春の匂い。

「……え?」

桜が舞っている。

身につけている制服は、糊が効いていて少し硬い。

校門に掲げられた『入学式』の看板。

周囲には、まだ顔の幼い、見知らぬ生徒たち。

ここは、二年前だ。

僕とレンが出会う、ずっと前の春。

心臓が激しく脈打つ。

どうしてこの瞬間なのか、誰に教わらなくても分かった。

あの時、僕はレンが転校してくるまで、彼を知らなかった。

彼が一人で抱えていた孤独に、気づくことさえできなかった。

でも、今なら。

ここからなら、すべてを変えられる。

ペンダントは砕け散り、胸には微かな熱だけが残っている。

僕は涙を拭い、顔を上げた。

ざわめきの中、校門の隅で一人、不安げに周囲を窺う影を見つけた。

まだ透明になっていない、確かな重みを持ったレン。

周囲の生徒たちは、彼を素通りしていく。

かつての僕も、そうだった。

僕は大きく息を吸い込む。

他人の機嫌を取るための仮面は、もう捨てた。

足を踏み出す。

一歩、また一歩。

やがてそれは疾走に変わる。

「ねえ、君!」

レンが驚いたように顔を上げる。

その瞳の奥にある寂しさを、僕はもう見逃さない。

「俺はアサギ。君と友達になりたいんだ」

計算も、打算もない。

僕という人間が、初めて自分の意志で選び取った、最初の一手。

レンが、ぽかんとして僕を見つめ、それから少しだけぎこちなく口元を緩めた。

「……急に、なんだよ。俺は、レンだ」

風が吹き抜け、桜の花びらが二人の肩に降り注ぐ。

無色だった僕の世界に、鮮やかな色が溢れ出した。

AIによる物語の考察

**深掘り解説文**

アサギは他者の本音に敏感ゆえ自己を偽り、波風立てない生き方を貫く。しかし、消えゆく転校生レンの内に秘めた「生きたい」という渇望と孤独に触れ、初めて本心からの「波風を立てる」決意をする。レンは表向き無表情だが、アサギの仮面を見抜く洞察力も持つ。

伏線として、レンの「硝子の指先」や「影の消失」、周囲が彼の異変に気づかない描写は、彼が世界から排出される過程を示唆。アサギの「無色のペンダント」は彼の空虚な心の象徴だが、友を失いたくない強い願いで「純粋で利己的な拒絶」の色に輝き、時を巻き戻す奇跡を起こす。

物語は、同調圧力の中で自己を喪失した主人公が、友の危機を通じて真の自己と向き合い、主体的に未来を掴み取る成長を描く。波風を恐れる臆病さから脱却し、自分の心で選び取った「願い」こそが、世界を変える力を持ち、無色の世界に鮮やかな色を与えてくれることを問いかける。
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