第一章 錆びついた空の下で***錆の匂いが鼻を突く。
目を開けると、そこは無限の歯車が噛み合う、鋼鉄の大地だった。
空には太陽の代わりに、巨大な振り子が揺れている。
「……ここは」
喉から出た声は、驚くほど張りがあった。
慌てて自分の手を見る。
ない。
昨日まで俺の指を覆っていた、醜い老人班も、関節の節くれも。
震え続けていた指先は、全盛期の職人のそれに戻っている。
「やっと目が覚めたのね、修理屋さん」
頭上から、鈴を転がしたような声が降ってきた。
見上げると、ガラクタの山の上に少女が座っている。
透き通るような銀髪。瞳は硝子細工。
けれど、その左腕は肘から先が欠損し、剥き出しの配線が火花を散らしていた。
「君は……」
「私はエル。この世界の案内人」
少女は軽やかに飛び降りると、俺の目の前にボロボロの懐中時計を突き出した。
「直して。これが動かないと、私の時間は永遠に止まったままなの」
その時計の裏蓋には、見覚えのあるイニシャルが刻まれていた。
『S & M』
俺と、三年前に亡くした妻のものだ。
第二章 凍りついた秒針***「俺はソウジロウ。時計技師だ」
「知ってるわ。あなたが『直せる人』だってことも」
エルの案内で、俺たちはこの世界の中心にある『大時計塔』を目指した。
道中、彼女は楽しそうに歌う。
その旋律は、妻が台所でよく口ずさんでいた鼻歌と同じだった。
「なあ、エル」
「なあに?」
「この世界は、誰が作ったんだ?」
彼女は足を止め、寂しげに笑った。
「ここは『捨てられた時間』の墓場。誰かが後悔して、進むのを拒んだ時間が流れ着く場所よ」
心臓が早鐘を打つ。
妻が息を引き取ったあの日。
俺は工房にこもり、客の注文品を仕上げていた。
『あと少しで終わる』
その慢心が、最期の言葉を交わす機会を奪った。
俺は、自分の時間をあの日で止めてしまったのだ。
大時計塔の最上階。
そこには、部屋を埋め尽くすほどの巨大なメインスプリングがあった。
だが、それは赤黒い結晶に覆われ、完全に凍りついている。
「これが、あなたの後悔」
エルが呟く。
「これを動かせば、世界は再び時を刻み始める。でもね、ソウジロウ」
彼女は俺の頬に、冷たい硝子の指を添えた。
「時が動けば、この世界は消える。私も消える。あなたは、独りぼっちの現実に帰るのよ」
第三章 銀色の別れ***工具袋は、なぜか腰にあった。
慣れ親しんだドライバーを握る。
若返った肉体は、思考より早く動いた。
赤黒い結晶を削り、錆を落とし、歪んだ歯車を調整する。
油の匂い。
金属が擦れる音。
それは俺が妻を放置して没頭し、そして最も愛した時間だった。
「……本当にいいの?」
エルの声が震えている。
「ここで暮らせば、あなたは若いままでいられる。私もずっと、あの子の代わりをしてあげられるのに」
俺の手が止まる。
エルは、妻の記憶から生まれた幻影なのかもしれない。
ここには苦痛も、老いも、孤独もない。
だが。
「代わりじゃ、駄目なんだ」
俺は最後のネジを回した。
「あいつは、俺が時計を直して客が喜ぶ顔を見るのが好きだった。『あなたの手は魔法使いみたい』って、笑うんだ」
カチリ。
小さな音が響き、巨大なスプリングが唸りを上げて回転を始めた。
ゴーン、ゴーンと、鐘の音が世界を揺らす。
エルの体が、足元から光の粒子になって崩れ始めた。
「……頑固な職人さん」
彼女は泣き笑いのような表情で、俺に抱きついた。
「行ってらっしゃい、あなた。晩御飯、冷めちゃうわよ」
その声は、完全に妻のものだった。
最終章 動き出す朝***「……ん」
消毒液の匂い。
重たい瞼を開けると、見慣れた天井があった。
「ソウジロウさん! 気がつきましたか!?」
看護師が駆け寄ってくる。
俺は、しわくちゃでシミだらけの自分の手を持ち上げた。
若さは消え失せ、節々は痛む。
「……夢、か」
サイドテーブルを見る。
そこには、修理を終えた客の時計と、妻の写真が飾られていた。
写真の中の彼女は、昨日の夜よりも少しだけ、優しく笑っている気がした。
窓の外から、朝日が差し込む。
「腹が、減ったな」
俺はベッドから身を起こした。
止まっていた時間が、ゆっくりと、けれど確かに動き出していた。