不確実性の庭

不確実性の庭

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第一章 ノイズと方程式

室温十八度。湿度四〇パーセント。

サーバーラックの冷却ファンが唸りを上げ、無菌室のような静寂を支配している。

アダム・クロスは、デスクの上の万年筆を指先で弾いた。

ペン先が定規の目盛りから〇・五ミリずれている。

許せなかった。

彼はピンセットをつまみ上げ、それを正しい位置に戻す。

ここには感情も、天候も、不確定な運もない。

あるのはモニターを流れる「0」と「1」の瀑布だけ。

完璧に制御された、予測可能な世界。

「……あう」

その聖域が、湿った音で汚された。

アダムは眉間の血管を浮き上がらせ、モニターから視線を引き剥がした。

視線の先。毛足の長いラグの上で、予測不能な有機物が蠢いている。

リリー。生後十一ヶ月。

遠縁の事故死によって転がり込んできた、確率論のバグ。

彼女の口元から涎(よだれ)が垂れ、ラグに染みを作っていく。

アダムは反射的に除菌スプレーに手を伸ばしかけ、舌打ちをして止めた。

「静かにしろ。あと三十秒で市場が開く」

リリーは無垢な瞳でアダムを見つめ、また「あう」と声を漏らす。

その手には、塗装の剥げかけた木の塊が握られていた。

『知恵の積み木』。

亡き父が遺した、ガラクタだ。

赤、青、黄色。

幾何学模様と奇妙な記号が彫り込まれた立方体。

カチッ。

リリーが積み木を重ねる。

カチッ。

乾いた音が、アダムの鼓膜を不快な周波数で叩く。

彼はノイズキャンセリングのヘッドホンに手をかけた。

だが、その手が空中で止まる。

積み木の配列。

赤の立方体の上に、青の三角柱。

その横に、黒い円柱が三つ。

アダムの視線が、モニターの右端にあるチャートへ吸い寄せられた。

原油先物の変動グラフ。

その波形が、床の上の積み木の形状と、不気味なほど完全に一致していた。

(……偶然だ)

そう思った瞬間。

リリーが小さな指で、黒い円柱を一つ、弾き飛ばした。

ズキン。

側頭部に、熱した針を突き刺されたような激痛が走る。

「ぐっ……」

視界が歪む。

モニターの数字が溶け出し、網膜の裏側に、あるはずのない「映像」が焼き付く。

焦げ付いた回路の臭い。

怒号。

フロアを埋め尽くす売注文の紙吹雪。

真っ赤に染まり、点滅する電光掲示板。

かつて世界経済を凍りつかせたブラックマンデー。

その瞬間の絶望が、鮮烈な「痛み」となって脳髄をレイプする。

「……まさか」

アダムは脂汗の滲む額を押さえ、床の赤ん坊を凝視した。

リリーはキャッキャと笑いながら、残った積み木を握りしめている。

痛みが引くと同時に、今度は数式が脳裏に浮かんだ。

亡き父の筆跡。

市場の歪みを記述した、禁断の関数。

アダムの喉が渇く。

心拍数が跳ね上がり、スマートウォッチが警告音を鳴らした。

これはただの玩具じゃない。

そしてこの赤ん坊は、ただの「ノイズ」ではない。

高度な演算装置(アルゴリズム)ですら感知できない市場の「気配」を、その小さな脳が受信しているのだとしたら?

「お前……何が見えている?」

リリーは答えない。

ただ、小さな指で次の積み木を手に取った。

そのブロックには、アダムが最も忌み嫌う『Ω』――終わりの文字が刻まれていた。

第二章 崩壊のシグナル

「おい、アダム。顔色が悪いぞ。救急車を呼ぶか?」

スピーカーから響く男の声。

かつての同僚で情報屋のギアスだ。

「必要ない。今すぐ『北半球物流』の株を空売りしろ。持てる枠の全てだ」

アダムの声は震えていた。

彼はリリーを膝に乗せ、キーボードに向かっていた。

指先が冷たい。

血流が末端から失われていく感覚。

「は? その銘柄は絶好調だぞ。政府の補助金も決まったばかりだ。空売りなんて自殺行為だ」

「いいから売れ」

アダムはリリーの小さな手を包み込んだ。

温かい。

驚くほど柔らかく、そして湿っている。

さっき、リリーが積み上げた塔。

青、青、赤、そして黒。

その不安定な塔が崩れる寸前の角度。

それが、モニター上の『北半球物流』の株価上昇カーブと完全に重なった。

アダムの脳裏に、イメージが奔流となって押し寄せる。

泥水に沈む巨大倉庫。

寸断されるハイウェイ。

さらにその奥で、ほくそ笑む巨大資本の影。

人為的に引き起こされる物流クライシス。

「この世界は、誰かのシナリオ通りに動いている」

アダムはリリーの頭頂部に鼻を近づけた。ミルクと、微かな汗の匂い。

「赤ん坊の無意識だけが、そのシナリオの『行間』を読める」

「お前、とうとうイカれたか?」

「黙って見ていろ」

アダムの指がキーボードを叩く。

父の積み木に隠されたコードと、リリーの脈拍、体温の変動を同期させる。

市場の裏側に潜む「悪意」の輪郭が、モニター上に赤い線となって浮かび上がった。

特定の大国が仕掛けた、富の強制収奪プログラム。

一見、好景気に見せかけながら、裏で実体経済を空洞化させる時限爆弾。

「うえぇぇぇん!」

突然、リリーが火がついたように泣き出した。

アダムの心臓が早鐘を打つ。

「……来る」

リリーの泣き声が最高潮に達した瞬間。

メインモニターのグラフが、直角に折れ曲がった。

部屋中の警報アラートが一斉に鳴り響く。

ニュース速報のウィンドウがポップアップする。

『北半球物流、巨額の粉飾決算発覚。主要ハブ倉庫で大規模なシステム障害』

「なっ……!?」

スピーカーの向こうで、ギアスが息を呑む音がした。

「おい、アダム! 見ろ! お前の資産が……!」

画面上の数字が、狂ったスロットマシンのように回転する。

秒速で数百万ドル。

アダムの個人資産が、天文学的な速度で膨れ上がっていく。

勝った。

読み通りだ。

このままいけば、僕はウォール街の神になれる。

だが、アダムの手はガタガタと震えて止まらなかった。

リリーの泣き声が、鼓膜ではなく心臓を直接揺さぶる。

痛い。

彼女の涙が、アダムのシャツに熱い染みを作っていく。

この利益は、誰かの悲鳴だ。

世界中の年金が、貯蓄が、この暴落で灰になる。

リリーが感じているのは、その未来の痛みなのか。

「ギアス」

「ああ、笑いが止まらねえ! どこで利確する? 今なら一生遊んで暮らせるぞ!」

「全額だ」

「……は?」

アダムはリリーを強く抱きしめた。

壊れやすく、不確実な、命の重み。

「0」と「1」の間にある、割り切れない温もり。

「この利益を全て突っ込んで、買い支える。反対売買だ」

「正気か!? ナイフが落ちてくる真下だぞ! そんなことをすれば、お前の利益は消し飛ぶ! いや、借金まみれになって破滅だ!」

「計算は終わった」

アダムは、涙で濡れたリリーの頬を、自分の指で拭った。

冷徹な投資家の仮面が、剥がれ落ちていく。

自分を殺せば、市場(システム)は救われる。

この子が生きる未来の経済を守れる。

「ギアス。これが、僕の最初で最後の、非合理な投資だ」

アダムは震える人差し指を、『Enter』キーの上に置いた。

リリーが泣き止み、じっとその指を見つめる。

カチッ。

その軽い打鍵音が、アダム・クロスという投資家の、死の宣告だった。

第三章 不確実性の庭

あれから三年。

土の匂いがする。

雨上がりの湿った空気と、完熟したトマトの甘酸っぱい香り。

アダムは鍬(くわ)を地面に突き立て、額の汗を泥だらけの手の甲で拭った。

かつて一秒で数億を動かした指先は、今はささくれ立ち、爪の間には黒い土が詰まっている。

あの日、彼は全てを失った。

暴落を食い止めるための無謀な買い支え。

市場は守られたが、アダムの資産は塵となり、違法なアルゴリズム使用の疑いで捜査の手が入った。

証拠不十分で不起訴にはなったが、ウォール街からは永久追放。

世間は彼を「システムを混乱させた狂人」と呼び、ネット上には今も罵詈雑言が残っている。

友人も去った。

名誉も、金も、聖域だったあの部屋も失った。

だが、不思議と胸のつかえは取れていた。

「パパ!」

背後から、弾むような声。

振り返ると、四歳になったリリーが駆けてくる。

膝小僧には擦り傷。手には泥だらけのニンジン。

「見て! おっきいの取れた!」

リリーの屈託のない笑顔。

そこに、かつての「予知」の影はない。

あの事件の直後、リリーは積み木への興味を失った。

彼女はもう、世界の痛みを映す鏡ではない。

ただの、元気な女の子だ。

「ああ……すごいな、リリー」

アダムは膝をつき、リリーの目線の高さに合わせる。

かつての彼なら、泥だらけの野菜など不衛生だと顔をしかめただろう。

不揃いな形を、規格外のエラー品だと切り捨てただろう。

だが今は、その歪なニンジンの形が愛おしい。

この農園――『不確実性の庭』には、絶対的な正解はない。

天気予報は外れる。

害虫は発生する。

作物は計算通りには育たない。

毎日が、予測不能なリスクの連続だ。

けれど、ここには「命」の手応えがある。

アダムはリリーの頭を撫でた。

細い髪の感触。

掌を通して伝わる体温。

モニター越しではない、確かな生の実感。

「パパ、今日のごはんはこれ?」

「そうだな。スープにしようか。泥をしっかり落とさないとな」

リリーは嬉しそうに頷くと、井戸の方へ走っていった。

その小さな背中を見守りながら、アダムはポケットの中の感触を確かめた。

一つだけ残しておいた、あの『知恵の積み木』。

塗装が剥げかけた、ただの木の塊。

アダムはそれを握りしめ、そして、畑の隅に掘った穴へ放り込んだ。

土を被せる。

過去の亡霊も、未来の予知も、もう必要ない。

「……パパ! はやくー!」

リリーが遠くから呼んだ。

アダムは立ち上がり、大きく息を吸い込んだ。

肺いっぱいに満ちる、湿った土と緑の匂い。

かつての無菌室より、ずっと良い香りだ。

彼は顔を上げた。

日焼けした頬が、夕陽に照らされて輝く。

「今行くよ」

アダムは一歩を踏み出した。

予測不能で、非合理的で、だからこそ美しい、明日という未来へ向かって。

AIによる物語の考察

アダム・クロスは、完璧な合理性を追求する冷徹な投資家から、リリーと市場の「痛み」を通じ、非合理な共感と自己犠牲を選ぶ人間へと変貌する。彼の「非合理な投資」は、金銭的利益を超え、ウォール街のシステムへの反逆と、未来への深い愛の表明であった。

物語に潜む伏線は、父が遺した「知恵の積み木」が市場の深層を記述する「禁断の関数」に通じるツールであること。アダムを襲ったブラックマンデーの「痛み」は、彼がシステムに抱く怒りと、根底にあった人間的感情の表れ。終焉を意味する『Ω』の積み木は、投資家アダムの死と、人間アダムの再生を暗示する。

本作は、冷徹な合理性の中で人間性を見失いかけたアダムが、リリーという「ノイズ」によって、予測不能な生命の尊さに目覚める物語だ。真の豊かさとは、制御された成功ではなく、不確実性を受け入れ、未来への責任を果たす「非合理」な選択の中にこそある、という哲学的なテーマを深く問いかける。
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