忘却の霧と、灰色のオルゴール

忘却の霧と、灰色のオルゴール

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第一章 灰色の残響

肺が重い。

吸い込む空気が、泥のように喉にまとわりつく。

視界を塞ぐのは、乳白色の「忘却の霧」。

空も、地面も、建物の輪郭さえも、この霧が溶かしてしまった。

世界は死んだ魚の眼のような、濁った灰色に沈んでいる。

レオン・アークライトは、革手袋を噛み締め、滲む脂汗を拭った。

「……ここも、終わっている」

眼前に広がるのは、かつて時計塔だった瓦礫の山。

「時間」という概念ごと崩れ去ったように、色彩が剥落している。

レオンは息を殺し、瓦礫の破片へそっと指を伸ばす。

触れた、刹那。

脳髄を万力で締め上げられるような衝撃。

――キィィィン!

視神経が焼ける。

灰色の風景が弾け飛び、強烈な「記憶」が網膜に焼き付く。

『行かないで! お願いッ!』

女の絶叫。

引きちぎられる袖の感触。

爪の間に入り込む皮膚片。

去っていく男の背中に対し、心臓が沸騰するほどの未練、執着、愛憎。

「が、ぁ……っ!」

レオンは弾かれたように手を引き、泥濘(ぬかるみ)に膝をついた。

胃袋が裏返るような嘔吐感。

他人の感情が、汚水のように精神へ逆流してくる。

「残滓視(エコーサイト)」。

呪いにも似た、レオンの能力。

呼吸が整わない。

心臓が早鐘を打つ。

震える手で懐を探り、硬く冷たい金属を握りしめた。

「色を失ったオルゴール」。

鉛のように重い。

だが、今の強烈な「悲痛」を喰らったかのように、錆びついた筐体が微かに脈動した。

チ、チチ……カチリ。

乾いた音が鳴る。

継ぎ目から、蛍火のような淡い光が漏れ出した。

その光条は、霧の深淵――北の方角を指し示している。

「……まだ、足りないのか」

レオンは血の味がする唾を吐き捨て、オルゴールの曇った表面を親指で拭った。

感情が消え失せ、人間がただの肉塊へと成り果てていくこの世界で、こいつだけが「色」を覚えている。

光の先にあるのは、北の廃墟。

答えは、そこにある。

レオンは軋む膝を叱咤し、濃霧の中へと踏み出した。

第二章 賢者の涙

北への旅路は、緩やかな自殺に等しかった。

霧が濃くなるにつれ、現実は融解していく。

レオンの行く手を阻むのは、「霧の影」。

かつて人間だったモノの成れの果てだ。

ズルリ、と音がする。

霧の奥から、不定形の黒い影が飛びかかってきた。

顔はない。

ただ、大きく裂けた空洞のような口が、ヒヒ、ヒヒヒと乾いた笑い声を上げている。

「退けッ!」

レオンは腰のナイフを抜き放ち、影の核を刺し貫く。

手応えはない。

腐った果実を潰したような感触と共に、影は霧散した。

後に残ったのは、虚無だけだ。

連日の襲撃で、神経はささくれ立っていた。

だが、足は止められない。

数日前、廃村ですれ違った少女の姿が、脳裏にこびりついている。

彼女は崩れた壁に背を預け、虚空を見つめていた。

目はガラス玉のように光を失い、呼吸をしているのかさえ定かではない。

だが、その小さな手は、何かを強く握りしめていた。

押し花だ。

枯れてはいるが、奇跡的にわずかな「青」を残した、一輪の野花。

声をかけても反応はなかった。

けれど、彼女がその花を守ろうとしていた意志だけは、痛いほど伝わった。

この世界に残された、最後の美しさ。

それを守りたいと願った、切実な祈り。

「……あんな思いは、もうさせない」

レオンは奥歯を噛み締める。

正義感じゃない。

ただ、あの青い花を、灰色のまま枯らせたくないというエゴだ。

それでも、進む理由にはなる。

「始まりの聖堂」。

霧の震源地にたどり着いた時、レオンの感覚は限界を超えていた。

足を踏み入れるたび、地面から無数の怨嗟が這い上がってくる。

空気が振動している。

ここは、過去の「飽和」があまりに濃い。

祭壇の最奥。

空間が歪み、レオンの「残滓視」が強制的に発動する。

過去の光景が、暴力的な解像度で脳内に投影された。

そこに言葉はない。

あるのは、極彩色の地獄だ。

視界いっぱいに広がる、目のくらむような光。

その下で、人々が笑っていた。

恍惚の表情で、隣人の首を絞めている。

『愛している! 愛している!』

『ああ、最高だ、これが幸福か!』

男が女の腹にナイフを突き立て、女はそのナイフを至上の喜びとして受け入れ、男の頬を舐める。

痛覚が麻痺している。

脳内麻薬がドロドロに分泌され、恐怖も痛みもすべて「快楽」に変換されている。

焼ける肉の匂い。

撒き散らされた臓器の鮮やかな赤、ピンク、紫。

極限まで高まった「幸福」が、倫理の堤防を決壊させていた。

世界中が、笑いながら殺しあう狂宴。

その中心に、一人の老人が立っていた。

伝説の賢者。

彼は笑っていない。

全身を痙攣させ、喉から血が出るほどの慟哭を上げている。

老人は震える手で杖を振り上げ、天空に輝く「幸福の源」――巨大な光の球体を打ち据えた。

パリーンッ!

世界が割れる音がした。

光は砕け、霧となって世界を覆い隠していく。

鮮やかすぎた色彩が、急速に灰色へと塗りつぶされていく。

狂った笑い声が消え、静寂が訪れる。

老人は崩れ落ち、血の涙を流して地面を掻きむしった。

感情を奪ったのではない。

そうするしか、この地獄を止める術がなかったのだ。

レオンは荒い息を吐き、現実へと引き戻された。

汗で衣服が張り付いている。

鼻の奥に、幻覚の血の匂いがこびりついて離れない。

手の中のオルゴールが、焼き鏝(ごて)のように熱くなっていた。

第三章 調和の道

『選ベ』

頭蓋骨の内側に、直接響く声。

オルゴールに残された、賢者の意志の欠片。

『永遠ノ凪カ、破滅ノ色彩カ』

極端すぎる二択。

感情を捨てて灰色のまま生きるか。

それとも、あの狂った快楽の地獄を呼び戻すか。

レオンは、指の骨が軋むほどオルゴールを握りしめた。

金属の角が皮膚を裂き、赤い血が滲む。

ズキズキとした痛みが、意識を鮮明にする。

「……どっちも、御免だ」

脳裏をよぎるのは、あの少女が握りしめていた青い押し花。

そして、かつての世界で、ささやかに笑い合っていた人々の記憶。

完璧な幸福なんていらない。

けれど、無感動な死もいらない。

「凪の中で腐るのも、熱狂で焼き焦げるのも、僕は嫌だ」

レオンはオルゴールの蓋を弾いた。

複雑怪奇な歯車が露わになる。

中心には、賢者が砕いた「光」を受け止めるための、空っぽの核(コア)。

「僕が、濾過装置(フィルター)になる」

覚悟を決め、レオンは「残滓視」の制御を解いた。

聖堂に封印されていた「究極の感情」の残響。

それらを視界に捉え、自らの神経系を回路として、オルゴールへと接続する。

直後。

「が、ぁあああああッ!!!」

脊髄に溶けた鉄を流し込まれたような激痛。

血管という血管の中を、泥と砂利が駆け巡る。

快楽、絶望、嫉妬、友愛、殺意。

何億人分の感情の奔流が、レオンの個我を押し流そうとする。

脳が沸騰する。

内臓が裏返るような吐き気と、失禁しそうなほどの法悦が同時に襲う。

眼球から血が噴き出す。

爪が剥がれるのも構わず、レオンはオルゴールにしがみついた。

逃げるな。

飲み込め。

清濁を、光と影を、全て混ぜ合わせろ。

「混ざり、合えぇぇぇッ!」

喉が裂けるほどの咆哮。

レオンの身体を触媒にして、相反する感情がオルゴールの中で衝突し、火花を散らす。

キィィィィン……ゴォォォォ……!

オルゴールが、聞いたこともない重低音を奏で始めた。

それは美しい旋律ではない。

不協和音を含んだ、しかし力強い、生命のノイズ。

光が弾けた。

白一色ではない。

赤、青、鈍色(にびいろ)、黄金。

無数の色がマーブル状に混ざり合い、濁流となって天井を突き破る。

霧が、晴れていく。

まぶしすぎる太陽ではない。

雲の隙間から、淡く、優しい陽光が降り注ぎ始めた。

終章 灰色の先へ

風が、凪いでいる。

レオンは瓦礫の上に大の字に倒れていた。

全身の筋肉が断裂したように痛む。

指先一本動かすのも億劫だ。

だが、目は開いている。

ぼやけた視界の先に、空が見えた。

かつてのような、狂った極彩色の空ではない。

少し薄汚れているが、確かに「青」を感じられる空だ。

「……ははっ」

乾いた笑いが漏れる。

こめかみがズキリと痛んだ。

遠くの街で、誰かが失恋して泣いている。

その隣で、誰かがスープの温かさに安堵している。

そんな些細な感情の波が、さざ波のようにレオンの中に流れ込んでくる。

痛い。

けれど、不快ではない。

手の中のオルゴールは、静かに回り続けている。

その音色は風に乗り、世界中へと「適度な色」を運び続けるだろう。

代償として、レオンはこの先、世界中の感情のノイズを受け止め続けなければならない。

人々が二度と狂気に陥らないよう、彼自身が感情の防波堤となり、濁りを濾過し続けるのだ。

重すぎる十字架だ。

それでも。

レオンは上体を起こし、足元に目を落とした。

瓦礫の隙間。

コンクリートを割って、一輪の花が咲いている。

あの少女が持っていたのと同じ、小さな野花。

その花弁は、鮮やかな黄色に色づいていた。

「……悪くない」

レオンは立ち上がり、コートの埃を払った。

手袋を外し、素手で風の冷たさを確かめる。

彼はオルゴールを奏でながら、色の戻り始めた世界へと歩き出した。

その背中は孤独だが、足取りは確かだった。

もう、迷いはない。

AIによる物語の考察

レオンの心理:レオンは能力「残滓視」に苦しみ、過去の狂的な幸福と現在の無感動な世界のどちらも拒否します。彼の動機は、廃村の少女が持つ「青い押し花」に象徴される微細な美しさへの個人的な執着。完璧な幸福も無感動な死も選ばず、痛みと喜びが共存する「調和」を求めるエゴが、彼を自己犠牲へと導きます。

伏線の解説:タイトルの「忘却の霧」「灰色のオルゴール」は、世界の現状と解決の鍵を暗示します。感情を喰らい脈動するオルゴールは、終盤の「感情の濾過装置」としての役割を予見させます。また、廃村の少女の「青い押し花」は、レオンが求める「適度な美しさ」の象徴であり、彼の決断に深く影響を与える伏線です。

テーマ:物語は賢者の問い「永遠の凪か、破滅の色彩か」を通し、極端な感情の危険性と、その中間にある「調和」の価値を深く問いかけます。人間らしい複雑な感情(喜びも悲しみも)を受け止め、濾過し続けることで、荒廃した世界に真の希望を見出す哲学的テーマが描かれています。
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