第一章 空白の砂時計
錆びた鉄のような雨の匂いが、肺の奥までこびりついている。
私は冷めたコーヒーを喉に流し込み、視界の隅でチカチカと明滅する「それ」を睨みつけた。
向かいの席、寄り添う男女。
男の頭上に浮かぶ『680』という数字。
女の頭上に浮かぶ『720』という数字。
愛の深度を示す、絶対的な数値。
網膜に焼き付いたそのネオンサインが、私には吐き気がするほど醜悪に見える。
「君のためなら死ねるよ」
かつて、私にそう囁いた男の頭上には『15』と浮かんでいた。
「愛してるわ、アリス」
金を無心に来た母の頭上は『5』だった。
数値は嘘をつかない。
だから私は、人の言葉を信じない。この目は、甘い愛の言葉を瞬時にグロテスクな嘘へと変換する呪いそのものだ。
「アリスさん、顔色が悪いですよ」
マスターが心配そうに水を置いてくれる。
彼の頭上を見る。
『0』。
私への愛は、無。
それが正常だ。他人は私に関心を持たない。
だが、その『0』は静止している。ただの記号だ。
それでいい。傷つくことさえない。
カラン、と乾いたベルが鳴った。
湿った風が吹き込む。
背の高い男が入ってきた瞬間、店内の空気が凍りついたように重くなった。
濡れた黒髪。古びた革のコート。
彼が顔を上げ、私を視認したその刹那。
私の心臓が、早鐘を打った。
彼の頭上に浮かぶ数字。
それは『0』だった。
だが、マスターのそれとは明らかに違う。
その『0』は、焼け切れる直前の電球のように激しく明滅し、輪郭が歪み、どす黒い煙のようなノイズを撒き散らしていた。
視界が揺らぐ。
数値を見ているだけで、眼球を針で刺されたような激痛が走る。
なんだ、あれは。
あんな「ゼロ」は見たことがない。
男は迷わず私のテーブルへと歩み寄る。
足音が、私の鼓動のリズムと完全に重なっていた。
「ここ、いいかな」
許可を待たずに、彼は目の前に座る。
至近距離で見る彼の瞳は、暗い海の底のような色をしていた。
そして頭上の『0』は、ジジ、ジジジと不穏な音を立てて痙攣している。
「……あなたは?」
声が震えた。
胸ポケットに入れていた祖母の形見――死んだように動かない石英の砂時計が、カチリと熱を帯びた気がした。
「レオだ」
彼は短く名乗ると、テーブルの上に無造作に手を置いた。
その指先が、微かに震えている。
「ずっと、探していた」
その言葉が鼓膜を叩いた瞬間、私の脳髄を白雷が貫いた。
第二章 フラッシュバック
「ぐっ……!」
私は頭を抱えてうずくまった。
痛い。
脳の奥にある「開かずの間」を、こじ開けられるような暴力的な痛み。
「アリス、思い出せ」
レオの声は、命令ではなく、祈りのようだった。
コーヒーの香りが消える。
代わりに鼻腔を満たしたのは、強烈な潮の匂いと、雨のアスファルトの匂い。
――視界が反転する。
『冷たいな』
誰かの声。
雨が私の頬を叩いている。肌を刺すような冷たさ。
けれど、繋いだ右手だけが、火傷しそうなほど熱い。
ザザァ、ザザァ……。
波の音が聞こえる。
私の指にはめられた銀のリングが、体温を吸って脈打っているような感覚。
『約束だ。俺たちは、何度生まれ変わっても』
目の前にいる男の顔が見えない。
逆光の中で、彼が私を抱きしめる。
濡れたウールのコートの感触。
硬い胸板の鼓動。ドクン、ドクンと、私の命と共鳴する音。
圧倒的な幸福。
世界が黄金色に染まるような、魂の震え。
けれど次の瞬間、世界がガラスのように砕け散る音。
『……すまない、アリス。君の器が、耐えきれない』
引き裂かれる感覚。
私の心から、一番大切な何かが、ごっそりと抉り取られていく喪失感。
「はぁッ、はぁ……ッ!」
私は喫茶店のテーブルで、酸欠の魚のように喘いでいた。
冷や汗が止まらない。
涙が勝手に溢れて、視界を滲ませる。
今の、感触は。
あの温もりは、何?
目の前のレオを見る。
彼の頭上の『0』が、いまや黒い炎のように揺らめき、空間そのものを焦がしているように見えた。
「今の……記憶……」
「俺たちが失った、未来の残骸だ」
レオが身を乗り出す。
彼が近づくと、頭上の『0』がさらに狂ったように回転し、私の視神経を焼き尽くそうとする。
「俺を見るな、アリス。数字を見るな。俺の目を見ろ」
「なんで……あなたが私の記憶に……」
ポケットの中の砂時計が、熱くて持っていられないほどになっている。
取り出してテーブルに置くと、透明だったガラスの中に、灰色の嵐が渦巻いていた。
止まっていた砂が、逆流している。
「俺は、君の記憶を封じた」
レオの顔が苦渋に歪む。
「君を守るために、俺という存在を君の世界から消し去ったんだ」
第三章 理(ことわり)を超えて
「守る……? 記憶を消すことが?」
混乱で思考が追いつかない。
けれど、体は覚えている。
彼の手の温度を。匂いを。その存在が、かつて私の世界の全てだったことを。
「君のその目は、相手からの愛を数値として受け取る。だが、受け取れる量には限界があるだろう?」
「ええ……」
「かつて俺たちは愛し合った。だが、それが間違いだった」
レオが拳を握りしめる。
「俺たちの間で育った愛は、あまりに巨大になりすぎた。人の身が抱えられる器の容量を、遥かに超えてしまったんだ」
器の崩壊。
そうか、あの時の頭が割れるような痛みは。
「君の精神が砕け散る寸前だった。だから俺は『時の砂』を使って、時間を巻き戻し、理(ことわり)を捻じ曲げた。君の中から、俺に関する一切のデータを削除したんだ」
私の心に空いた、巨大な穴。
誰からも愛されないという孤独感。
それは、彼がいた場所が空白になっていたからなのか。
「その代償として、君は俺を忘れた。俺は、君に忘れられる世界で生きることを選んだ」
「そんな……」
私は彼を見つめる。
涙で滲んだ視界の中で、彼の頭上の数字は相変わらず『0』を示している。
激しく、今にも爆発しそうな『0』を。
「じゃあ、この数字は何なの!?」
私は叫んだ。
「過去に愛し合っていたとしても、今、あなたの頭上の数字はゼロよ! 私への想いは空っぽじゃない!」
「アリス、よく見ろ」
レオがテーブル越しに手を伸ばし、私の頬に触れた。
熱い。
記憶の中と同じ、魂を焦がすような熱。
「その目は、正しく機能している」
「嘘よ! 愛しているなら、数値が出るはずでしょう!?」
「桁が違うんだ」
彼の親指が、私の涙を拭う。
「この世界の理(ルール)で測れるのは、有限の愛だけだ。だが、俺が君に向ける想いは、そんなちっぽけな枠には収まらない」
彼の頭上の『0』が、キィンと高い音を立てて亀裂を走らせる。
「計器が一周して、ゼロに戻っているんじゃない。……壊れているんだよ。最初から」
その言葉と共に、彼の手の温もりが私の中に流れ込んでくる。
言葉よりも雄弁な、奔流のような感情。
愛おしさ。
切なさ。
何億年分もの、渇望。
それは決して「無」などではない。
私の小さな物差しでは計測不可能な、規格外のエネルギー。
「計測……不能……」
私の唇から、その言葉がこぼれ落ちた。
第四章 虹色の砂
「やっと、気づいてくれたか」
レオが微笑む。
その瞬間、テーブルの上の砂時計が眩い光を放った。
灰色の嵐だった砂が、鮮やかな色彩を帯びて輝き始める。
さらさらと、音を立てて砂が落ちていく。
過去から未来へ。
止まっていた時が、再び動き出す。
「あっ……」
私の中に、鮮明な映像がなだれ込んでくる。
――夕暮れの海岸で交わしたキス。
――喧嘩をして背中合わせで眠った夜の寂しさ。
――しわくちゃの手になっても一緒にいようと誓った、銀のリングの感触。
それらは単なる映像ではない。
匂い、温度、痛み、その全てを伴った「体験」として、私の空白を埋めていく。
怖い?
いいえ。
もう、精神が崩壊するなんて思わない。
今の私には、わかるから。
この巨大な愛を受け止めるには、器なんて必要ない。
ただ、私も同じだけの強さで、彼を愛し返せばいいのだと。
「レオ……」
私は彼の手を握り返した。
「ごめんね。ずっと、一人にさせて」
「待つのは慣れている。……嘘だ、死ぬほど長かった」
レオが初めて、弱音を吐くように笑った。
その笑顔を見た瞬間、私の視界で決定的な変化が起きた。
最終章 無限の色彩
ピキリ。
レオの頭上にあった、あの禍々しい『0』の数字に、大きな亀裂が入った。
まるで孵化する卵のように。
殻が砕け、その内側から溢れ出したのは、数字ではなかった。
光だ。
ルビーのような赤、サファイアのような青、朝焼けの金、深海の碧。
この世のあらゆる美しさを煮詰めたような、極彩色の光の奔流。
それはオーロラのように揺らめきながら、レオの全身を包み込み、薄暗い喫茶店を聖堂のように照らし出した。
「……きれい」
私の呪いだった「数値を見る目」が、今、世界で一番美しいものを見ている。
愛は、数字じゃない。
色だ。
温度だ。
そして、無限に広がる光そのものだ。
「見えたか、アリス。これが、俺の心だ」
「うん……眩しすぎるくらい」
私は涙を拭うのも忘れ、その光景に見惚れていた。
もう、ここには「0」も「100」もない。
ただ、無限の色彩があるだけ。
テーブルの上の砂時計の中で、虹色の砂が円を描いて循環し始めた。
落ちては戻り、永遠に輝き続ける光の永久機関。
それが、私たちの新しい未来の形。
レオが立ち上がり、私に手を差し伸べる。
「行こう」
多くを語る必要はなかった。
行き先なんてどこでもいい。
この手の温もりが、私の帰る場所なのだから。
私は立ち上がり、その手をしっかりと掴んだ。
「ええ」
二人が店の外へ出ると、雨は上がっていた。
雲の切れ間から差し込む夕日が、濡れたアスファルトを鏡のように輝かせている。
私はもう、通り過ぎる人々の頭上を見なかった。
隣にいるレオの横顔と、彼が放つ無限の色彩だけで、私の世界は満たされていたから。
強く握り返された手の痛みが、何よりも愛おしかった。