第一章 琥珀色の悪夢
鉄の錆びた臭いがした。
「――ぐ、ッ」
天音律(あまね りつ)の視界が、瞬きひとつで赤く塗りつぶされる。
廊下の白い壁に額を押し当てる。ひやりとしたタイルの冷たさだけが、沸騰しかけた脳漿を辛うじて冷やしていた。
耳鳴りが、誰かの断末魔のように響く。
そのノイズの向こう側で、映像が弾けた。
ひび割れた窓ガラス。
舞い上がる粉塵。
肉の焦げる嫌な臭い。
そして、瓦礫の山頂で、クリスタルのように砕け散る少女の姿。
飛び散る破片が、スローモーションで律の網膜を灼く。
「……はあ、はあ……」
律は胃からせり上がる酸っぱいものを飲み下し、顔を上げた。
赤色が退き、いつもの放課後の廊下が戻ってくる。
しかし、指先の震えは止まらない。
『メメント・モリス』。
死の予兆を、五感すべてで強制的に体験させられる呪い。
「見て、あの二人」
「息、ぴったり……怖いぐらい」
誰かの囁き声に、律は顔を背けた。
廊下の向こうから、男女のペアが歩いてくる。
銀髪の少女、セリス。そしてそのパートナー。
二人の歩調は、メトロノームで制御されているかのように完全に一致していた。
瞬きのタイミング、呼吸のリズム、視線の移動速度。
すべてがシンクロしている。
まるで、二つの肉体を一つの意志が操っているような、美しい不気味さ。
周囲の生徒たちは、羨望の眼差しを向けながらも、本能的な恐怖で道を開けていく。
この学園において、精神感応の深度――『共鳴』こそが正義だ。
だが、彼らのそれは、個の消失に近い。
律は息を潜め、空気のように通り過ぎようとした。
関わってはいけない。
僕の存在はノイズだ。彼らの完璧な世界に、亀裂を入れてしまう。
「あ」
すれ違いざま、微かな衣擦れの音がした。
ふわりと、甘いジャスミンの香りが鼻腔をくすぐる。
律の足元に、何かが転がった。
革張りの文庫本だ。
拾い上げようと屈んだ瞬間、白く細い指が律の手に触れた。
指先から電流のような熱が走り、心臓が早鐘を打つ。
「ごめんなさい」
顔を上げると、セリスがいた。
完璧なパートナーが先を歩く中、彼女だけが立ち止まり、律を見つめている。
その瞳は、凍てつく湖のように澄んでいたが、どこか迷子のような心細さを宿していた。
「……いや」
律は本を渡そうとして、彼女の胸元で揺れるペンダントに目を奪われた。
『共鳴の砂時計』。
生徒たちの精神状態を可視化するデバイス。
琥珀色の砂が、ガラスの中で固まっている。
一粒も、落ちていない。
「綺麗でしょう?」
セリスは律の視線に気づき、弱々しく微笑んだ。
本を受け取りながら、彼女は自分の胸元を愛おしそうに撫でる。
「時間が止まったみたいに、満たされているの。これが、完全な共鳴……」
違う。
律は奥歯を噛み締め、口の中に鉄の味が広がるのを感じた。
それは永遠じゃない。
『停止』だ。
命の灯火が、窒息寸前で固まっているだけだ。
さっきの幻視がフラッシュバックする。
砕け散る彼女。その破片の一つ一つが、助けを求めて叫んでいた。
「……苦しくないのか」
思わず、声が出た。
セリスの瞳が揺れた。
完璧な能面の奥で、少女の素顔が一瞬だけ覗く。
「……え?」
「いや、何でもない」
律は逃げるように歩き出した。
背中に突き刺さる彼女の視線が、火傷のように熱かった。
第二章 システムのエラー
深夜の校舎は、巨大な生き物の腹の中にいるようだった。
換気ダクトが唸る低周波音が、骨に響く。
律は、立ち入り禁止区域の重い鉄扉を押し開けた。
地下深くにある『アーカイブ』。
カビと埃、そして古い電気回路が焦げたような臭いが充満している。
足を踏み入れるたび、靴音が虚しく反響する。
律は、懐から自分の砂時計を取り出した。
灰色の砂が、サラサラと乾いた音を立てて落ち続けている。
誰とも共鳴できず、ただ時間を浪費するだけの、孤独の証。
「ここに来れば、何かわかると思ったけどな」
部屋の中央に鎮座するのは、巨大な水晶の塊だった。
青白い光が、不整脈のように明滅している。
その光が強くなるたび、律のこめかみに鋭い痛みが走った。
――痛い。寒い。助けて。
幻聴ではない。
水晶の中から、無数の声が直接脳内に流れ込んでくる。
過去に『完全共鳴』を果たし、自我を溶かされてシステムの一部となった生徒たちの成れの果て。
この学園の動力源は、生徒の感情エネルギーだ。
行き過ぎた共鳴は個を消し去り、純粋な燃料としてこの水晶に喰われる。
そして今、水晶は新たな贄(にえ)を求めていた。
最も純度が高く、最も強大なエネルギー。
セリス。
『警告。感情供給源ノ枯渇ヲ検知』
無機質な機械音声と共に、律の目の前でシミュレーション映像が展開される。
パターンA:セリスの同化。
彼女が砕け散り、システムは安定する。
学園は平和な日常を続ける。
パターンB:同化の阻止。
強制的な切断はシステムを暴走させ、動力炉が臨界点を突破する。
業火が校舎を包み、千人の生徒が悲鳴と共に灰になる。
「……ふざけるな」
律は壁を殴りつけた。
拳の皮が剥け、血が滲む。痛みで涙目になりながら、律は嗤った。
彼女を見殺しにするか。
彼女を救って、世界を燃やすか。
究極のトロッコ問題。
だが、律の脳裏に焼き付いているのは、千人の顔ではない。
今日の放課後、一瞬だけ触れた指先の熱さ。
迷子のような、あの瞳。
「僕は、正義の味方じゃない」
律は血の滲んだ手で、灰色の砂時計を握りしめた。
ガラスがきしむ音が、静寂を切り裂く。
世界なんてどうでもいい。
ただ、あの手が冷たくなるのを、黙って見ていたくないだけだ。
第三章 第三の選択
「ぐ、うぅ……ッ!」
律は、明滅する水晶体に両手を突き刺した。
火に油を注いだかのような激痛が走る。
指先から炭化していくような感覚。神経が焼き切れ、視界が白濁する。
『警告。異物ノ侵入。排除シマス』
脳を直接かき回されるような圧力が、律の自我を押し潰しにかかる。
膝が折れそうになるのを、咆哮と共に堪えた。
「排除……できるかよッ!」
律は、自身の能力『メメント・モリス』を全開にした。
未来を見る力? 違う。
これは、無数の可能性を演算し、因果の糸を手繰り寄せる力だ。
演算しろ。
彼女も、世界も、両方救うルートを。
(そんなもの、ない)
理性が囁く。
エネルギー保存の法則。何かの犠牲なしに、崩壊は止まらない。
セリスの代わりになる、膨大な質量を持った「感情」が必要だ。
「あるじゃないか……ここに」
律は、自分の胸を叩いた。
長年抱えてきた孤独。
誰にも理解されなかった絶望。
そして今、この瞬間に燃え上がっている、一人の少女を生かしたいという強烈なエゴ。
それら全てを、燃料としてくべる。
「僕を、喰え……!」
律は意識を研ぎ澄ませ、自分という存在の輪郭を解いた。
肉体のリミッターが外れる音が聞こえる。
灰色の砂時計が砕け散った。
舞い上がった砂が、青白い光の渦に混ざり込み、黄金色へと変質していく。
『エラー。規格外ノ感情ヲ検知。システムヲ再構築――』
機械音声が、律の叫びに飲み込まれていく。
皮膚が光の粒子となって剥がれ落ちていく。
痛みはもうない。あるのは、溶けていくような浮遊感だけ。
律は、意識の残滓で手を伸ばした。
虚空の向こうにいる、セリスの手を掴むために。
「止まるな、流れるんだ」
律の意志が、学園中の砂時計に干渉する。
凝固した時間を叩き割る。
停滞ではなく、変化を。
永遠ではなく、瞬間を。
(セリス、君は生きて)
最後の思考が溶けた瞬間、地下室は目も眩むような光に包まれた。
琥珀色の奔流が、学園の地下から天へと突き抜けていった。
終章 共鳴のその先へ
「――っ!」
セリスは、弾かれたように顔を上げた。
教室の窓から、春の風が吹き込んでいる。
カーテンが大きく膨らみ、光の粒がダンスを踊っていた。
「セリス、どうしたの?」
「あ……」
隣の席のパートナーが心配そうに覗き込んでくる。
その声は優しかったが、以前のような不気味なほどの同調はない。
心地よい距離感。
セリスは、無意識に頬を伝った涙を指で拭った。
なぜ泣いているのか、わからない。
ただ、胸の奥が締め付けられるように切ない。
ふと、胸元を見る。
ペンダントの中の砂が、サラサラと音を立てて流れていた。
上から下へ。
止めどなく、生き生きと。
「……動いてる」
セリスは砂時計を強く握りしめた。
ガラス越しに、温かい熱が伝わってくる。
それはまるで、誰かが最後に残した体温のようだった。
「誰か……いたはずなのに」
思い出そうとしても、名前が出てこない。
顔も、声も、霧の向こうだ。
けれど、指先に残る感触だけが鮮明に覚えている。
冷たい廊下で、一度だけ触れ合った手の熱さを。
「ありがとう」
セリスは誰もいない青空に向かって、小さく呟いた。
風が、彼女の銀髪を優しく撫でて通り過ぎていく。
その風の中に、微かな錆の臭いと、懐かしい気配が混じっていた気がして。
彼女はいつまでも、空を見上げていた。
琥珀色の砂は、もう二度と止まることはない。
彼が命を賭して回した歯車は、新しい時を刻み続けているのだから。
『』