忘却のオルゴールと、見えない愛の残像

忘却のオルゴールと、見えない愛の残像

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第一章 切り取られた空白

古時計の振り子が、乾いた咳のように時を刻む。

カチ、コチ。

その音が鼓膜を打つたび、リビングの静寂が肌に張り付いた。

僕はマグカップを両手で包み込み、湯気の向こうを睨んでいた。

視線の先にあるのは、サイドボードに鎮座する一枚の家族写真。

父、母、そして僕。

三人が並んで笑うその構図は、一見して幸福そのものだ。

だが、僕の眼球だけが、その「不自然さ」を捉えて離さない。

僕の右隣。

父と僕の間にある、微妙に広すぎる間隔。

背景のカーテンが、そこだけ歪んで見える。まるで誰かの姿を無理やりハサミで切り抜き、空間そのものを縫い合わせたような痕跡。

そこに、誰かがいたはずだ。

そう意識した瞬間、こめかみに鋭利な痛みが走る。脳の奥底にある「開かずの間」を、何者かが内側から叩いているような激痛。

「悠真、コーヒー。冷めるわよ」

背後からの声に、心臓が跳ねた。

振り返ると、母が心配そうに眉尻を下げている。

「……うん、ごめん」

僕は視線を逸らした。直視できなかったからだ。

母の笑顔の背後にまとわりつく、黒く煤けた澱(おり)のようなものを。

彼女の肩越しに、昨夜の光景が半透明のレイヤーとなって重なって見える。

台所で一人、押し殺した嗚咽を漏らしながら、家計簿に突っ伏していた母の背中。

絶望と疲労が、タールのように滲み出ている。

「顔色が悪いわ。また、あの頭痛?」

今の母は、穏やかに微笑んでいる。

その笑顔が、僕を安心させるための仮面なのか、それとも一瞬の平穏なのか。

僕の網膜は、勝手に「過ぎ去った感情」を焼き付け、現在の真実を霞ませてしまう。

「大丈夫。部屋に戻るよ」

逃げるように自室へ駆け込み、ドアに背を預けて息を吐く。

視界の隅、机の上に置かれた木彫りの箱が、冷ややかな存在感を放っていた。

『絆のオルゴール』。

代々伝わるその古びた箱が、ジジ、と微かな音を立てた気がした。

蓋の隙間から、底知れぬ飢餓感が漏れ出している。

胸の奥に空いた空洞が、共鳴するように疼いた。

僕たちは、何を忘れている?

父がふとした瞬間に、誰もいない食卓の椅子へ向ける、あの懺悔のような視線は何だ?

指先が震える。

僕は吸い寄せられるようにオルゴールへ手を伸ばした。

触れた瞬間、指先から脳髄へと、氷柱(つらら)を突き刺されたような寒気が駆け上がる。

本能が警鐘を鳴らす。

――開ければ、失うぞ、と。

脳の襞(ひだ)に刻まれた大切な記憶を、この箱が喰らい尽くそうと舌なめずりしているのがわかる。

それでも、知らなければならない。

この違和感の正体を突き止めなければ、僕は窒息してしまいそうだ。

奥歯が砕けるほど噛み締め、僕はその重たい蓋に指をかけた。

第二章 代償のメロディ

錆びついた蝶番が、悲鳴のような音を立てて開いた。

途端、シリンダーが回転し、不協和音スレスレの旋律が部屋を満たす。

キリキリ、キリキリ。

その音が耳に入った瞬間、世界が反転した。

「あ……が……っ!」

頭を万力で締め上げられるような圧迫感。

視界がホワイトアウトし、僕の中の「何か」が、無理やり引き剥がされていく。

自転車のペダルを漕ぐ足の重み。

背中を支えてくれていた、大きく分厚い手のひらの熱。

『いいぞ悠真、その調子だ!』と励ましてくれた、誇らしげな声。

父との思い出だ。

幼い日の、あんなに鮮烈だった夕焼けの色が、砂のように崩れ落ち、虚無の海へと溶けていく。

やめてくれ。それは、僕の宝物だ。

返してくれ。

叫ぼうとした声は、喉の奥で引き攣(つ)って消えた。

記憶が消滅した跡地には、冷たく乾いた風だけが吹き抜ける。

父の顔を思い出そうとしても、そこにはノイズのかかった白いモヤしか浮かばない。

僕は床に膝をつき、嘔吐(えず)いた。

自分が自分でなくなっていく。

魂の一部を切り売りする感覚に、全身の震えが止まらない。

だが、その喪失の穴を埋めるように、オルゴールの音色が変化した。

部屋の空気が振動し、音の粒子が一点に集束していく。

淡い光の揺らぎ。

それは質量を持たない、陽炎(かげろう)のような輪郭を結んだ。

少女だった。

僕より少し背が高く、長い髪が水中のように揺らめいている。

彼女の顔立ちは曖昧で、目鼻立ちははっきりとしない。

けれど、その姿から放たれる圧倒的な「匂い」が、僕の鼻腔を突いた。

雨上がりのアスファルト。

甘いスイカの汁。

そして、日向に干した布団のような、懐かしい安らぎ。

(……誰?)

問いかけるより先に、感覚が答えを叫んでいた。

他人のわけがない。

この懐かしさは、僕の細胞の一つ一つに刻み込まれている。

光の少女が、僕の頬へそっと手を伸ばす。

触れられた感覚はない。

なのに、そこから奔流のようなイメージが脳内へ雪崩れ込んできた。

縁側で並んで食べたアイスの冷たさ。

転んで泣いた僕をおんぶしてくれた、華奢な背中の温もり。

風邪をひいた夜、額に乗せられたタオルの感触。

『ユウマ』

音が聞こえたのではない。

心臓が直接、その名前の響きを鼓動として刻んだのだ。

姉だ。

僕には、姉がいた。

涙が止めどなく溢れ出し、床板を濡らす。

どうして忘れていたんだ。

僕の人生の半分は、彼女と共にあったはずなのに。

音色が哀切を帯びる。

幻影の姉が、悲しげに微笑んだ気がした。

映像が乱れる。ノイズが走り、場面が切り替わる。

病室のベッド。

管に繋がれた父。

泣き崩れる母。

そして、その傍らで、何かを決意したように唇を噛む姉の姿。

真実が、まだ足りない。

もっと深く潜らなければ、彼女がなぜ「いなくなった」のかが見えない。

オルゴールが、さらなる生贄を求めて軋む。

僕は迷わなかった。

涙を拭い、自らの脳裏にある「母との温かな食卓」の記憶を、その暗い箱の中へと差し出した。

第三章 愛の消失点

ガリッ、と音がして、母の作るハンバーグの味が記憶から消し飛んだ。

焦げた匂いも、ケチャップの酸味も、すべてが闇へ吸い込まれる。

その代償と引き換えに、ノイズが晴れた。

僕の目の前で、過去の断片が鮮明に再生される。

深夜のリビング。

姉は一人、このオルゴールの前に座っていた。

窓の外では雷雨が轟いている。

彼女は震える手で、小指の爪ほどの小さな紙切れを握りしめていた。

そこには、神への祈りとも、悪魔への契約とも取れる言葉が走り書きされている。

『パパの病気を治して。ママの笑顔を守って。ユウマの未来を繋いで』

彼女の視線の先には、余命宣告を受けた父の診断書があった。

現実的な手段は尽きた。

金銭も、医学も、もう家族を救えないところまで来ていた。

姉は知っていたのだ。

この家に伝わるオルゴールが、ただの玩具ではないことを。

奇跡には、等価交換が必要であることを。

『私の存在を、すべて捧げます』

彼女がそう念じた瞬間、部屋の空気が凍りついた。

命を差し出すのではない。

「生まれたこと」そのものをなかったことにする。

最初からいなかったことになれば、彼女にかかっていた養育費も、時間も、愛情も、すべてが別の形へ還流し、運命が書き換わる。

父の病気が「誤診」だったことになる世界へ。

あるいは、奇跡的な回復を遂げるルートへ。

『怖い……』

幻影の中で、姉が膝を抱えてうずくまる。

肩が小刻みに揺れている。

『忘れられるなんて、死ぬより怖いよ』

誰の記憶にも残らない。

写真からも消え、名前すら風化する。

それは、永遠の孤独だ。

それでも、彼女は顔を上げた。

涙でぐしゃぐしゃになった顔で、最後に一度だけ、カメラの向こうの「未来」――つまり、今の僕を見た気がした。

『でも、みんなが笑って生きていけるなら』

彼女の指が、オルゴールのネジを巻く。

キリキリ、キリキリ。

その音が鳴るたびに、彼女の指先から色が抜け落ちていく。

足元から透明になり、風景に溶けていく。

『ユウマ。一人っ子になっちゃうけど、寂しくないように』

彼女の姿が、光の粒子となって霧散する。

最後に残ったのは、空間に焼き付いた唇の動きだけ。

『……大好きだよ』

プツン。

唐突に音が止んだ。

オルゴールの蓋が、重たい音を立てて勝手に閉じる。

部屋には、僕の嗚咽だけが響いていた。

取り戻した姉の記憶は、あまりにも鮮烈で、そして残酷だった。

僕たちが今、当たり前のように享受している日常。

父の健康も、母の笑顔も、僕が大学に通えていることも。

すべては、姉が自らの存在を「修正液」で消して作り出した、修正後の世界だったんだ。

僕は床に転がるオルゴールを睨みつけた。

これを壊せば?

あるいは、僕の全記憶を捧げれば、姉は戻るのか?

手が伸びる。

だが、その手は空中で止まった。

もし姉が戻れば、父は死ぬかもしれない。

運命が元のレールに戻ってしまう。

何より、姉が命懸けで守ろうとした「僕たちの幸福」を、僕自身が破壊することになる。

握りしめた拳が白くなるほど力を込め、僕はゆっくりと手を下ろした。

最終章 空白を抱きしめて

窓の外は、いつの間にか茜色に染まっていた。

玄関が開く音。

日常の音が、ひどく遠く、そして尊く響く。

「ただいまー。悠真、いるか?」

父の声だ。

元気で、張りがあり、死の影など微塵も感じさせない声。

「悠真? どうしたの、部屋真っ暗じゃない」

母がドアを開ける。

夕日が差し込み、僕の顔を照らした。

「……うわ、ひどい顔。泣いてたの?」

母が驚いたように駆け寄ってくる。

その手には、スーパーの買い物袋。

今夜の夕食の材料だろう。

二人の目を見る。

そこには、姉の記憶など欠片もない。

父が病魔に侵されていた過去も、姉が犠牲になった夜も、きれいさっぱり消えている。

彼らは、自分たちが「何か」を忘れていることさえ知らない。

その無垢な幸福こそが、姉が遺した愛の結晶だ。

僕は、喉の奥の塊を飲み込んだ。

「姉さんを返せ」と泣き叫ぶことは、姉への冒涜だ。

「……ううん、なんでもない」

僕は立ち上がり、埃を払った。

失った父との思い出も、母の手料理の味も、もう戻らない。

僕の心にも、無数の穴が空いている。

けれど、その穴を通る風が、不思議と温かい。

見えないけれど、そこに確かに「ある」ぬくもり。

「父さん、母さん」

掠れた声で呼ぶ。

二人が不思議そうに顔を見合わせた。

「ん? なんだ、改まって」

「腹減ったな、と思って」

嘘をついた。

涙を堪え、精一杯口角を上げる。

「今日の飯、すっごく楽しみにしてる」

母が呆れたように、でも嬉しそうに笑った。

父が「なんだそりゃ」と豪快に笑い飛ばして、僕の背中を叩く。

その手のひらの温かさに、消えたはずの記憶が重なった気がした。

僕だけは、覚えている。

写真の空白を見るたびに、何度でも思い出そう。

かつてここに、誰よりも家族を愛した少女がいたことを。

オルゴールはもう鳴らない。

ただ、夕暮れのリビングには、三人分の笑い声と、見えない一人分の優しさが、静かに満ちていた。

AIによる物語の考察

**登場人物の心理**: 悠真は漠然とした違和感から真実を求める探求心を持つが、姉の究極の自己犠牲を知り、その愛と悲しみを背負う決意を固める。姉は家族への深い愛ゆえに、忘れられる恐怖を乗り越え、自らの存在を犠牲にした。両親は記憶を失い幸福を享受するが、父の「懺悔のような視線」や母の「澱」は、消された記憶の残滓が無意識下にあることを示唆する。

**伏線の解説**: 家族写真の不自然な空白や歪みは、誰かの存在が消された痕跡。母の疲弊した姿や父の誰もいない椅子への視線は、姉が犠牲になる前の悲痛な現実や、無意識に残る喪失感を暗示する。「絆のオルゴール」が発する「底知れぬ飢餓感」や「失うぞ」という警告は、それが記憶を喰らう装置であることの伏線。

**テーマ**: 本作は「究極の家族愛と自己犠牲」を描き出す。姉は自らの存在を消すことで家族の幸福を選び取った。記憶と忘却、偽りの幸福と真実の痛み。悠真は真実を抱え、見えない愛の残像を胸に、与えられた日常を生きるという「残された者の使命」を問う、切なくも温かい物語である。
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