第一章 硝子の色、痛みの記憶
指先が触れた刹那、脳髄が白く焼けた。
「がっ……あ……!」
俺、レオン・ヴァランスの喉から空気が漏れる。
視界がノイズ混じりの赤に染まる。
鉄錆の匂いと、腐った花の甘い香りが同時に鼻腔を突き抜けた。
「おい、レオン! しっかりしろ! また『トリップ』かよ!」
背中に乱暴な衝撃。
相棒の傭兵、ガリックの太い腕が俺の襟首を掴み上げている。
「……離せ、筋肉ダルマ。首が締まる」
「減らず口が叩けるなら上等だ。ったく、お前と組むと心臓に悪い」
ガリックが安堵と悪態をないまぜにして吐き捨てる。
俺は荒い呼吸を整え、壁から手を離した。
指先がまだ痺れている。
壁画――そう呼ぶにはあまりに異質だった。
石材の継ぎ目は分子レベルで癒着し、描かれた幾何学模様は、俺たちの視線に合わせて微かに脈動している。
オーバーテクノロジー。
今の文明では再現不可能な、遥か太古の遺物。
「『調律の時代』……。やっぱり、ここは当たりだ」
「ああ? 調律だか旋律だか知らねえが、金目のモンはあるんだろうな」
ガリックがランタンを掲げ、油断なく周囲を警戒する。
その無骨な横顔を見て、俺は少しだけ息を吐いた。
こいつのこの俗物的な反応が、過敏な俺の精神を現実に繋ぎ止めてくれる。
「あるさ。だが、気をつけろ」
俺は壁の奥、闇に沈む回廊を指差す。
「この先、空気が歪んでる。……泣き声がするんだ」
「泣き声? ネズミの聞き間違いだろ」
「いや。……もっと、絶望的な音だ」
俺たちは崩れかけた回廊を進む。
足元には、塵一つ落ちていない。
数千年の時を経ているはずなのに、昨日掃除されたかのような清潔さが、逆に気味悪さを助長していた。
その時、俺のブーツが何かを蹴った。
硬質な音。
「なんだ、これ?」
ガリックが拾い上げる。
掌に乗るほどの、透明な六角柱の結晶体。
内部で金色の光が渦を巻いている。
「おいレオン、これ宝石か? 高く売れそうだぞ!」
ガリックが無邪気に笑い、俺にその石を放ってよこした。
俺がそれを受け止めた、その瞬間。
「――ッ!?」
掌の皮膚が結晶と癒着するような感覚。
金色の光が、俺の網膜を内側から焼き尽くした。
第二章 歪む世界、消える自分
「……素晴らしい日だ」
誰かの声が聞こえる。
俺の視界は、眩いばかりの黄金色に満たされていた。
白亜の広場。
美しい衣を纏った数千の人々が、整然と並んでいる。
誰もが穏やかに微笑み、誰もが満ち足りていた。
飢えも、病も、争いもない世界。
「さあ、時間だ。完全なる調和のために」
壇上の男が、クリスタルの杯を掲げる。
それにならい、広場の人々も一斉に小瓶を口元へ運んだ。
待て。
やめろ。
俺は叫ぼうとするが、声が出ない。俺はただの観測者だ。
母親が、幼い娘の口に小瓶の液体を流し込む。
娘はニコニコと笑いながら、「ありがとう」と告げた。
次の瞬間、娘の喉が焼けただれ、血泡を吹いて倒れる。
それでも、母親は微笑んだまま、自らも毒を煽った。
バタバタと、人が倒れていく。
広場が死体で埋め尽くされていく。
だが、悲鳴はない。
あるのは、狂気じみた静寂と、恍惚とした笑顔だけ。
幸福の絶頂で自ら幕を引くことこそが、至上の美徳であるかのように。
「……はぁっ!!」
肺が痙攣し、俺は現実に弾き飛ばされた。
「おい、どうした! レオン!」
ガリックが俺の肩を揺さぶっている。
俺の手から転がり落ちた結晶が、床でチカチカと明滅していた。
「見た……ガリック、あいつら、笑いながら死んで……!」
俺は震える指で結晶を指差す。
吐き気が止まらない。あれが、この遺跡の正体だ。
「何の話だ?」
ガリックの声が、氷のように冷たい。
彼を見上げる。
その瞳には、心配の色ではなく、純粋な『困惑』だけがあった。
「何って……さっきの結晶だ。あれに『調律の時代』の最期が……」
「結晶? お前、さっきから何もない空中に手を伸ばして、一人で叫んでただけだぞ」
俺は息を呑んだ。
床を見る。
先ほどまで転がっていたはずの結晶が、消えている。
いや、違う。
ガリックの認識から『消された』のだ。
「……来たか」
俺は自分の手を見る。
指先が、背景の壁に溶け込むように透け始めていた。
「誰だ!」
ガリックが鋭い反応で剣を抜き、背後を薙ぐ。
金属音。
何もない空間で、剣が止められた。
空気が陽炎のように揺らぎ、灰色のローブを纏った人影が滲み出る。
顔はない。
フードの奥には、ブラックホールのような虚無が渦巻いていた。
『歴史の編纂者(レコーダー)』。
「レオン・ヴァランス」
鼓膜ではなく、脳幹に直接響く無機質な音声。
「個体識別完了。異常接触を確認。……貴様は、『見て』しまったな」
「お前たちが……消したのか? あの光景を」
俺は透け始めた足で踏ん張る。
こいつらは世界のバグ取り係だ。
不都合な真実を知った俺を、エラーとして処理しに来た。
「肯定する。あの記憶は、現生人類には猛毒となる」
編纂者が片手を上げる。
それだけで、ガリックの体が糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
「ガリックッ!」
「気絶させただけだ。……だが、貴様は違う。真実に触れすぎた」
編纂者の一歩に合わせて、遺跡の壁がデジタルノイズのように明滅する。
「消去プロセスを開始する。抵抗は無意味だ」
「ふざけるな……! あんな狂った死に方が、幸福な歴史なわけがあるか!」
俺は叫ぶ。
だが、編纂者は動じない。
むしろ、その虚無の奥から、哀れみにも似た冷徹な波動が放たれた。
「理解力不足。ならば見せよう。我々がなぜ、あの黄金時代を『終わらせた』のかを」
第三章 未来への嘘
世界が反転した。
重力が消え、俺たちは宇宙空間に放り出されていた。
「寒い……」
絶対零度の宇宙。
だが、俺の目を釘付けにしたのは、星々の輝きではない。
眼だ。
全天を埋め尽くす、無数の、機械的な『眼』。
「『調律の時代』が放つ過剰な幸福エネルギーは、宇宙規模のノイズとなって彼らを呼び寄せた」
編纂者の指差す先で、一つの惑星が砕け散った。
悲鳴を上げる間もない。
巨大なレンズのような眼が瞬いた瞬間、星そのものが分解され、エネルギーとして吸収されていく。
「捕食者……」
「そうだ。人類が100%の幸福に到達した瞬間、彼らは収穫に来る。だから我々は、歴史を剪定した」
映像が切り替わる。
泥にまみれ、血を流し、パンの欠片を奪い合う、薄汚れた戦場の光景。
俺たちが生きる、クソみたいな現実だ。
「争い、憎しみ、悲しみ。それらが発する『負の感情』こそが、捕食者の目からこの星を隠す『迷彩(カモフラージュ)』となる」
俺は愕然と膝をついた。
平和な時代を奪ったのは、悪意ではなかった。
人類を生かすための、血の滲むような損切り。
「我々は時を遡り、人類が幸福になりすぎないよう、適度な不幸と争いを供給し続けてきた。それがこの世界の『正史』だ」
編纂者が俺の前に立つ。
その手には、白紙の帳面と、一本のペン。
「レオン・ヴァランス。貴様という特異点は、ここで修正されねばならない。
だが、貴様には適性がある。
真実を知り、それでもなお、この不完全な世界を愛せるか?」
目の前に、選択肢が突きつけられる。
このまま真実を叫んで消滅するか。
それとも、編纂者の一員となり、人類を守るための『嘘』を書き続けるか。
俺は横たわるガリックを見た。
口を開けて、だらしなく気絶している相棒。
酒癖が悪く、金に汚く、歌が下手くそで、すぐに俺の背中を叩く、愛すべき馬鹿。
もし俺が真実を暴けば、世界は再び『調律の時代』を目指すだろう。
そして、あの捕食者に食い尽くされる。
ガリックの、あの下品な笑い声ごと。
「……ははっ」
乾いた笑いが漏れた。
悔しいが、迷う余地なんてなかった。
「俺は、嘘つきが大嫌いだったんだ」
俺は震える手で、ペンを掴み取る。
その瞬間、俺の肉体が急速に量子化し、光の粒となって崩れ始めた。
「だが、あいつが……ガリックが明日も馬鹿な冗談を言えるなら、泥を被るのも悪くない」
俺の手から、温度が失われていく。
『レオン・ヴァランス』という存在が、世界の記憶領域から削除されていく感覚。
ガリックの脳内からも、俺と過ごした日々が消えていく。
「契約成立だ」
編纂者の声が、初めて微かな敬意を帯びた。
俺は白紙のページにペンを走らせる。
『二人の冒険者が遺跡に入り、一人は何も見つけずに帰還した』。
ただそれだけの、退屈で平和な一行を。
俺の体は完全に消滅し、意識だけがこの世界の裏側へと溶け込んでいく。
薄れゆく視界の端で、ガリックが目を覚ますのが見えた。
彼は不思議そうに首を傾げ、誰もいない隣の空間を一度だけ見つめた。
そして、肩をすくめて歩き出す。
「何もねえのかよ、シケた遺跡だぜ」
その悪態が、俺への最後の手向けだった。
さようなら、相棒。
このクソったれで、最高に美しい世界で、どうか幸せに生きてくれ。
俺はその願いを『嘘』に混ぜて、永遠に歴史を紡ぎ続ける。