砂色の琥珀、あるいは忘却の監獄

砂色の琥珀、あるいは忘却の監獄

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第一章 空白の残響

脳漿を、氷のピックで掻き回されるような感触。

天海 響(あまみ ひびき)は奥歯を噛み締め、こみ上げる胃液を飲み下した。

「……おい、天海。また『不発』か」

刑事の梶原が吐き出す紫煙が、黴臭いワンルームに淀む。

その声には、響の能力に対する期待と、化け物を見るような嫌悪が同居していた。

響は瞼を持ち上げる。

眼前のパイプ椅子。そこに座る青年は、呼吸こそしていたが、人間ではなかった。

開いたままの瞳孔。

乾いた角膜の上を、一匹のショウジョウバエが這っている。

それでも、青年は瞬き一つしない。

反応がない、のではない。

反応するための回路――記憶と感情――が、根こそぎ抉り取られているのだ。

響は手袋を噛み外すと、青年の首筋に素手を這わせた。

あたたかい。だが、中身は空洞だ。

本来なら指先から雪崩れ込んでくるはずの『残留思念』が、ここには一滴もない。

あるのは、真空の宇宙に放り出されたような、絶対零度の虚無だけ。

「……空っぽです。魂ごと、持っていかれてる」

「チッ、骨折り損か」

梶原が靴底で床を鳴らす。

響はふらつく足で、部屋の隅へ向かった。

証拠品袋の中で、鈍く光る石がある。

濁った蜂蜜のような、粘着質な光沢。

『砂色の琥珀』。

その中心で、何かが胎動するように渦巻いている。

響の鼓動が跳ねた。

石が呼んでいる。

他人の感情ではない。響自身の、古傷の奥底に癒着した『何か』が、悲鳴を上げている。

「天海、よせ。手順が違う」

制止しようと伸びてきた梶原の手を、響は無造作に払いのけた。

袋越しに触れた瞬間、指先が焼け付くほどの熱を感じる。

視界が、砂嵐に塗り潰された。

第二章 蘇る亡霊

鼻腔を突くのは、肉と廃材が焼ける脂っこい臭気。

肌が爆ぜる音。

そして、鼓膜を食い破るような絶叫。

『ヒビキ! 僕がやったの? ねえ、僕のせいなの!?』

響の喉が引き攣った。

酸素が吸えない。

この声を知っている。

忘却の彼方に沈め、二度と浮上しないよう蓋をしたはずの、あの日。

(レン……ッ!)

七年前。火災事故で死んだ幼馴染。

なぜ、死者の慟哭がこの石から流れ込んでくる。

気づけば、響はマンションの床に膝をついていた。

全身が冷や汗で濡れている。

荒い息のまま、虚ろな目の青年を見上げた。

右目の下。涙の痕のような黒子。

見間違えるはずがない。

成長し、骨格は変わっても、その配置だけは当時のままだ。

「嘘だ……」

胃の腑から、熱いものがせり上がってくる。

そこに座っていたのは、死んだはずのレンだった。

「天海! 顔色が真っ青だぞ、何を見た」

梶原が肩を揺さぶるが、響の耳には水底の泡音のようにしか響かない。

響は這うようにして青年の足元に縋り付いた。

「レン、なあ、レン! 僕だ、響だ!」

返事はない。

首が、糸の切れた人形のようにガクリと揺れるだけ。

彼もまた、記憶を奪われた『抜け殻』だった。

響は再び琥珀を鷲掴みにした。

掌の皮膚が焦げても構わない。

この石の中に、友の魂が幽閉されている。

「吐き出せ……お前は、何なんだ!」

第三章 優しい共犯者

琥珀へのダイブは、硝子の破片を素足で踏み抜く痛みを伴った。

暴れ狂う記憶の奔流。

そこにあったのは、犯人の顔ではない。

あの日、炎に包まれた生家の映像だ。

泣き叫ぶ幼いレン。

足元に転がるオイルライター。

自らの火遊びが家族を焼き殺したという事実が、少年の精神を圧死させようとしていた。

『やめて、見たくない、見たくない!』

レンの悲鳴が、響の神経を直接ヤスリで削る。

その時、視界の端に誰かが映り込んだ。

幼い日の、響自身だ。

『僕が消してあげる』

幼い響の手が、レンの額にかざされる。

『読み取る』だけではない。

感情を『引き抜き、固める』力。

『こんな記憶、いらないよね。僕が全部、石にしてあげる』

琥珀が生まれた瞬間だった。

レンを壊そうとしていた罪悪感、絶望、そして炎の熱さ。

それら全てを、響はレンの脳から引き剥がし、この石へと封じ込めたのだ。

(ああ……そうか)

響の中で、何かが音を立てて崩落した。

吐き気が止まらない。

犯人は、いない。

『忘却の監獄』の看守は、響自身だった。

友を守るという美名のもと、彼は友の人格を形成する記憶を強奪し、この抜け殻のような状態にして「生かして」いたのだ。

死んだと思っていたのは、その罪悪感から逃れるために、響自身の記憶さえも改竄していたから。

琥珀の中で渦巻く砂。

それは、友が背負うべきだった十字架の残骸。

第四章 砂上の選択

現実へと弾き出される。

響の手の中で、琥珀は心臓のように脈打っていた。

ドクン、ドクンと、毒々しい熱を放っている。

目の前には、何も知らず、苦しみもせず、ただ静かに呼吸するレン。

(どうする)

脳内で誰かが嘲笑う。

この琥珀を砕けば、記憶はレンの元へ還る。

彼は「自分が家族を殺した」という地獄を思い出し、一生その業火に焼かれることになるだろう。

砕かなければ、彼はこのまま。

何も感じない、何も知らない、幸福な「家具」として生きていける。

「天海、鑑識に渡せと言っているだろう!」

梶原の怒声が、遠くで反響する。

響の指が、痙攣したように震えた。

琥珀を握る手に力が入らない。いや、無意識に拒絶している。

救済とはなんだ。

真実を知って発狂することか。

虚偽の中で穏やかに腐っていくことか。

(僕の能力は……呪いじゃなかったのか)

脂汗が目に沁みる。

失われた自分自身の記憶も、この石と共にある。

これを割れば、響自身もまた「友の魂を奪った」という罪を直視しなければならない。

「……ねえ、レン」

響は、焦点の合わない友の瞳を覗き込んだ。

涙で視界が滲み、友の顔が歪んで見える。

「一緒に、地獄へ落ちてくれるか」

響は琥珀を高く掲げた。

窓から射し込む夕陽が、琥珀の中の砂嵐を血の色に透かす。

指の関節が軋むほど、力を込めた。

脳が「やめろ」と叫ぶ。

だが、身体の芯が「終わらせろ」と吼えた。

パキリ。

乾いた破砕音が、世界にひびを入れる。

その音は、いつまでも、いつまでも響の耳に残った。

AIによる物語の考察

**登場人物の心理**
響は、幼き日の「友を守りたい」という純粋な願いが、友から自我を奪う「忘却の監獄」を生み出した罪と向き合う。偽りの平和ではなく真実の苦痛を友と分かち合う覚悟を固める彼の変遷が描かれる。梶原は、響の異能への世俗的な期待と嫌悪を抱く、一般的な倫理観の象徴として対比される。

**伏線の解説**
第一章で青年に「残留思念」が一滴もないと描写されるのは、記憶が失われたのではなく、響の能力で意図的に「抉り取られた」結果であることを示唆する。また、琥珀が響自身の「古傷の奥底に癒着した『何か』」と共鳴したことは、無意識下で響が自己の罪の記憶と繋がっていた伏線となっている。

**テーマ**
本作は、「記憶」が自我を形成する本質であるかを深く問いかける。真実を知る苦しみと、虚偽の中で生きる幸福という二律背反の倫理的選択を主人公に迫る。幼い響の「優しい共犯」が招いた「忘却の監獄」という罪と、そこからの贖罪、そして友との共生という重いテーマを通して、人間の倫理と責任のあり方を読者に問いかける。
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