雨が、アスファルトを叩く。
その音は鼓膜を揺らすだけでなく、足元から這い上がる湿った臭気となって僕の肺を侵した。
傘の柄を握る指が白く変色するまで力を込める。
視線を上げてはいけない。見てはいけない。
だが、視界の端を、中年男が横切る。
その背中から、ドロリとした粘着質の紫煙が吹き出していた。
腐った果実のような甘ったるい悪臭。
『嫉妬』だ。
紫色の粒子が、僕の喉の奥にへばりつく。
胃の腑が裏返るような感覚に襲われ、僕は口元を覆った。
「……っ」
逃げろ。
この極彩色の地獄から。
路地裏のアパートへ転がり込む。
ドアを閉め、二つの鍵を回し、さらにチェーンをかける。
外界との接続を断ち切って初めて、心臓の早鐘が少しだけ緩んだ。
郵便受けの中身をテーブルにぶちまける。
請求書、チラシ、そして――。
茶色く変色した、一通の封筒。
空気が凍りついた。
宛名の文字。少し右上がりで、丸みを帯びたその筆跡が、視神経を灼く。
五年前。
僕の時間を止めた、あの日付で死んだはずの幼馴染。
ハルカの文字だ。
「……悪趣味すぎる」
誰かの悪戯だ。
そう断じようとして、喉がひきつる。
封筒から滲み出している『色』を見てしまったからだ。
インクの染みではない。
もっと深く、冷たく、それでいて吸い込まれそうなほど静謐な『藍色』。
五年間、僕が毎晩の悪夢で溺れ続けている、あの海の色。
指先が痺れる。
触れてはいけない。これは呪いだ。死者からの招きだ。
僕は封筒を掴むと、ゴミ箱へと強く叩きつけた。
「ありえない……死人が手紙なんて、書けるわけがないんだ」
膝を抱えてソファにうずくまる。
見なかったことにしろ。忘れろ。
だが、視界の隅で『色』が蠢く。
ゴミ箱の縁から、あの藍色の煙がゆらりと立ち昇り、床を這い、僕の足首へと絡みついてくる。
冷たい。
まるで氷水に浸されたような寒気が、背筋を駆け上がる。
『アオイ』
鼓膜ではなく、脳髄に直接響くような耳鳴り。
視界が藍色に塗りつぶされていく。
逃げ場はない。この色が、僕を許さない。
「……くそッ!」
僕は弾かれたように床を蹴り、ゴミ箱から封筒をひったくった。
乱暴に封を切る。
ふわりと、乾いたラベンダーの香りが鼻腔をくすぐった。
その瞬間、目の奥が熱くなり、激しい目眩に襲われる。
便箋には、あの日と変わらない、優しい文字が踊っていた。
『アオイへ。
これを読んでいるということは、君はまだ、自分を許せていないんだね』
呼吸が止まる。
心臓を鷲掴みにされたような圧迫感。
『三丁目の公園。ブランコの前。
行って。お願い』
「……行けるかよ」
吐き捨てる。
だが、手紙を持つ指先から、脈打つような熱が流れ込んでくる。
便箋に染み付いた藍色の『澱』が、僕の腕を引っ張るように、ドアの方角へと伸びた。
逆らえば、この藍色に窒息させられる。
そんな本能的な恐怖が、僕の体を無理やり動かした。
「行けばいいんだろ……!」
僕は手紙を鷲掴みにし、再び雨の中へと飛び出した。
第二章 沈黙の叫び
公園は、灰色の雨に沈んでいた。
錆びついたブランコが、風に揺れて悲鳴のような音を立てている。
誰もいない。当然だ。
「満足か……?」
手紙に向かって独りごちた、その時だ。
視界が歪んだ。
ブランコの影から、目玉が焼けつくような、蛍光色の『赤』が爆発した。
警告色。
あるいは、断末魔の色。
僕は反射的に目を細めた。
赤い煙の中心で、小学生くらいの男の子が喉を押さえ、のたうち回っている。
声が出ていない。
顔面は土色になり、白目を剥きかけている。
気道閉塞。
「……ッ!」
足がすくむ。
男の子から噴き出す赤色が、鋭利な刃物となって僕の肌を刺す。
『苦しい』『死ぬ』『怖い』
純粋な恐怖の感情が、津波のように押し寄せ、僕の自我を押し流そうとする。
怖い。
関わりたくない。
僕まで飲み込まれる。
踵を返そうとした。
その時、ポケットの中の手紙が、焼けつくほどに発熱した。
『大丈夫』
熱と共に、静かな声が響く。
手紙から溢れ出した藍色が、僕の周囲に防壁(バリア)を作る。
突き刺さるような赤色が、藍色に触れた瞬間に中和され、柔らかな温度へと変わっていく。
守られている。
ハルカの『色』に。
僕は地面を蹴った。
泥水を跳ね上げ、男の子の背後へ回り込む。
迷っている時間はない。
小さな体に腕を回し、拳をみぞおちに当てる。
一回。二回。
五年前、ハルカとふざけ合いながら覚えた救命措置。
まさか、こんな形で使うことになるなんて。
「……がはっ!」
鈍い音と共に、男の子の口から飴玉が転がり落ちた。
「ひゅっ、はぁ、はぁ……!」
空気を貪る音。
男の子が激しく咳き込み、地面に手をつく。
僕は泥の上に尻餅をついた。
心臓が破裂しそうだ。指先の震えが止まらない。
男の子から噴き出していた刺々しい赤色が消え、代わりに黄金色の粒子が舞い上がる。
『生』への安堵。
その温かな光が、雨に濡れた僕の頬を撫でた。
「……ありがとう、お兄ちゃん」
涙で濡れた瞳が、僕を見上げる。
僕は何も言えず、ただ頷くことしかできなかった。
雨雲が割れ、夕日が差し込む。
ポケットから手紙を取り出す。
文字が変わっていた。
『次は、図書館へ。
私たちが一番好きだった場所。
一番奥の棚の、隙間を見て』
科学的な理屈などどうでもいい。
ただ、この手紙にはハルカの『意志』が宿っている。
それだけが、確かな事実として僕の手の中にあった。
第三章 栞(しおり)の記憶
閉館間際の図書館。
地下書庫は、古紙と埃の匂いで満ちていた。
一番奥の棚。
かつて僕とハルカが、隠れ家代わりにしていた場所。
棚と壁のわずかな隙間に、一冊の古びた詩集が落ちていた。
背表紙の色が褪せた、誰も借りることのない本。
「……ここか」
震える手でページをめくる。
詩集の間に、一枚のしおりが挟まっていた。
押し花にされたラベンダー。
そして、その裏に、走り書きのような文字。
『感情は、時間で消えたりしない。
強い想いは、いつか必ず物理的な力を持って、誰かに届く』
ハルカの筆跡だ。
その下に、日付が記されている。
あの日。事故の、前日だ。
『最近、変な夢を見るの。
アオイが深い海の中で、一人で泣いている夢。
私の胸が張り裂けそうになるくらい、悲しくて、冷たい夢』
文字が滲んでいる。
『もし私が、アオイを一人にしてしまうことになったら。
もしこの予感が当たってしまったら。
私は、この悲しみを、後悔を、全部ここに置いていく』
ページをめくる指が止まらない。
『アオイ。
あなたが恐れているあの「藍色」は、私の呪いじゃない。
私があなたを想って流した、涙の色。
あなたを守りたいと願った、祈りの色なの。
だから、どうか嫌わないで』
「……っ」
膝から崩れ落ちた。
薄暗い書庫の床に、涙が落ちて染みを作る。
僕は、怯えていた。
ハルカの死から目を背け、彼女が残した色を「トラウマ」だと決めつけていた。
けれど、これは彼女そのものだったんだ。
僕を一人にする悲しみを、彼女自身も背負っていたんだ。
「ごめん……ごめん、ハルカ」
詩集を抱きしめ、声を殺して泣いた。
周囲に漂う埃の匂いが、なぜか懐かしいラベンダーの香りに変わった気がした。
懐のポケットが、再び熱を帯びる。
今度は、火傷しそうなほどの熱量だ。
手紙を取り出す。
文字が、赤い光を放ちながら書き換わっていく。
『行って、アオイ。
今すぐ、あの海岸へ。
私の祈りが尽きる前に』
それは、最後通告のような切迫感を持っていた。
第四章 深淵の際(きわ)にて
海岸沿いのガードレール。
五年前、ハルカが海へと落ちた、まさにそのカーブ。
嵐の予兆か、海は荒れ狂い、黒い波が岩肌を噛んでいた。
一台の白い車が、崖のギリギリに停まっている。
エンジンはかかったままだ。排気ガスが白く棚引いている。
「……あれは」
息を呑んだ。
車の周囲を、漆黒の闇が覆っていた。
夜の闇ではない。
光を一切反射しない、ねっとりとした『絶望』の澱(おり)。
触れれば精神ごと腐り落ちそうな、高密度の死への渇望。
運転席に、若い女性の姿が見える。
ハンドルに額を押し付け、微動だにしない。
「おい! やめろ!!」
叫びながら駆け寄る。
だが、車から半径数メートルの空間が、重力が増したかのように重い。
『無駄だよ』
『もう疲れた』
『誰も私なんて必要としていない』
見知らぬ女性の絶望が、直接脳内に流れ込んでくる。
足が泥沼に嵌ったように動かない。
強烈な吐き気。視界が黒く塗りつぶされていく。
(……僕には、無理だ)
心が折れそうになる。
この深すぎる闇を、僕なんかが払えるわけがない。
引き返せ。これ以上近づけば、僕も一緒に連れて行かれる。
その時。
ポケットの中で、手紙が震えた。
『アオイ!』
ハルカの声がした。
幻聴じゃない。魂が鼓舞される音だ。
「……ああ、わかってる!」
僕は歯を食いしばり、ポケットの手紙を握りしめた。
指の間から、眩いばかりの『藍色』が迸(ほとばし)る。
それは、夜明け前の空の色。
すべてを包み込み、許し、明日へと繋ぐ色。
藍色の光が、漆黒の澱を切り裂く。
重圧が消えた。
僕はドアノブに手をかけ、強引に引いた。
鍵はかかっていない。
女性が、虚ろな目でこちらを見た。その瞳は、死人のように濁っている。
「……放っておいて」
「放っておけるか!」
僕は彼女の腕を掴んだ。
冷たい。氷のような体温。
「離して! 私は死ぬの!」
「死なせない! 絶対に!」
力任せに引きずり出す。
彼女の体から溢れる黒い霧が、僕の腕にまとわりつき、皮膚を焼く。
痛い。苦しい。彼女の悲しみが、僕の心臓を握り潰そうとする。
負けるな。
僕には、ハルカがいる。
「生きろ……ッ!」
渾身の力で、彼女をアスファルトの上へと引き倒した。
その直後。
サイドブレーキの外れた車が、ゆっくりと前進し――。
轟音。
車体は崖下へと消え、荒波に飲み込まれていった。
「あ……あぁ……」
女性が崩れ落ち、アスファルトを爪で掻く。
僕はその隣で、天を仰いで荒い息を吐いた。
黒い澱が消えていく。
雨上がりの空気に、微かにラベンダーの香りが混じっていた。
第五章 未来への色彩
数日後。
僕はいつもの海岸に立っていた。
嵐は去り、海は穏やかな青を湛えている。
手の中にある手紙は、もうボロボロだった。
文字は薄れ、紙は風化し始めている。
役目は終わったのだ。
『ありがとう、アオイ』
風に乗って、そんな声が聞こえた気がした。
手紙の端が、サラサラと光の粒になって崩れていく。
藍色の粒子が、海風に溶けていく。
不思議と、涙は出なかった。
胸に残っていた氷の塊はもうない。
あるのは、静かで温かな、確かな体温だけだ。
「さよなら、ハルカ」
僕は掌に残った最後の光を、空へと放った。
顔を上げる。
世界は、圧倒的な色彩に満ちていた。
ランニングをする人々の、快活なオレンジ色。
ベンチで話す恋人たちの、甘いピンク色。
そして、悩み、苦しみながら歩く誰かの、鈍い灰色。
どれもが愛おしい。
どれもが、生きている証だ。
「……よし」
僕は深く息を吸い込み、一歩を踏み出した。
アスファルトに落ちる自分の影が、以前よりも濃く、力強く伸びていた。