第一章 残り香と木片
雨の匂いに、鉄の錆が混じっている。
竹林の奥、朽ちかけた祠の前。
久遠(くおん)の足元で、泥に塗れた小さな草履が片方だけ転がっていた。
「あの子は……ここで?」
背後の老婆が縋るように問う。
久遠は答えず、祠の縁に残された「それ」を革手袋のまま拾い上げた。
小指の先ほどの木片。
表面には、血管のような不気味な花模様が脈打っている。
久遠は舌打ちし、躊躇いながらも手袋を外した。
素手が木片に触れる。
ドクン。
心臓を直接鷲掴みにされたような衝撃。
視界が弾ける。
蝉時雨。
かき氷の冷たさ。
背後から伸びる白い手。
そして、甘ったるい麻酔のような匂いが、意識を塗りつぶしていく。
「ぐ、ぅ……ッ!」
久遠は膝をつき、胃の中身を泥にぶちまけた。
頭蓋の裏側をアイスピックで抉られる激痛。
(これは、未練じゃない)
今まで読み取ってきた死者の怨念とは違う。
自我を溶かすほどの、強制的な「幸福」。
「旅のお方!?」
「……あっちだ」
久遠は口元を拭い、荒い息で獣道を指差した。
木片から伸びる、腐った蜜のような匂いの跡。
それは山肌を縫い、地の底へと続いている。
「娘さんは、連れていかれた。……まだ、間に合うかもしれない」
震える手で木片を握り込む。
掌に滲むのは、脂汗だけではなかった。
第二章 縁(えにし)を断つ者
地下空洞は、吐き気を催すほどの白檀の香りで満たされていた。
岩肌には無数の松明。
中央には、蠢く臓器のような巨大な「根」が鎮座している。
その根元に、数十人の人間が座り込んでいた。
あの日消えた娘もいる。
誰も、瞬きをしていなかった。
呼吸が浅い。
胸の上下動すら揃っている。
全員が口角を限界まで吊り上げ、満面の笑みを浮かべながら、その目からは止めどなく涙を垂れ流していた。
「ようこそ。迷い人よ」
白装束の男が、根の傍らで優雅に一礼した。
久遠の足がすくむ。
本能が警鐘を鳴らしている。
ここは地獄だ。
思考を放棄し、ただ「根」に養分として記憶を吸われるだけの、家畜の列。
(帰りたい)
久遠の膝が笑う。
革手袋の下で、指先が氷のように冷たくなっていた。
俺は英雄じゃない。
他人の記憶(ノイズ)に怯え、人里を避けてきた臆病な行商人だ。
こんな化け物じみた連中と関わりたくはない。
だが、視界の端で、娘の涙が顎を伝って落ちた。
脳裏に、古い記憶がフラッシュバックする。
病床の母。
痩せ細り、激痛に顔を歪めていた最期の時。
それでも母は、幼い久遠の手を握り、愛おしそうに微笑んだのだ。
『痛いのはね、久遠……お母さんが、生きた証だから』
あの「痛み」は、美しかった。
母の人生そのものだった。
それを、この根は奪おうとしている。
痛みも、悲しみも、愛も、すべて十把一絡げに吸い尽くして。
久遠の震えが止まった。
恐怖が、灼けつくような義憤へと変わる。
「……返してもらうぞ」
久遠は一歩、踏み出した。
「お前たちが奪った、汚くて尊い、彼らの人生を」
久遠は自らの手袋を歯で噛み千切り、白く晒された両手を広げた。
男が何かを叫ぶより早く、久遠は走り出していた。
信者たちが壁のように立ちはだかるが、構うものか。
久遠は巨大な根へと肉薄し、その脈動する表皮に、素手を突き立てた。
第三章 記憶の奔流
ドプンッ。
音が消えた。
次の瞬間、久遠の脳髄に、数千人分の「生」が暴流となって雪崩れ込んだ。
夕焼けの教室、チョークの粉の匂い。
焦げ付いたトーストの苦味。
突き飛ばされた時の、コンクリートの硬さと擦り傷の熱。
恋人の首筋から香る石鹸の匂い。
裏切りの現場を見た瞬間の、内臓が冷え切る感覚。
老いて動かなくなった指先への焦燥。
「ガァアアアアアッ!!!!」
久遠は絶叫した。
目鼻から血が噴き出す。
個人の許容量などとうに超えている。
(重い……痛い……熱い……!)
「私」という輪郭が溶けていく。
無数の他人の記憶が、やすりで心を削り取っていく。
いっそ手を離してしまえば楽になれる。
あの信者たちのように、空っぽになれば――。
『ありがとう』
誰かの声がした気がした。
母か。
娘か。
それとも、見知らぬ誰かか。
久遠は血の涙を流しながら、歯が砕けるほど食いしばった。
(俺が……引き受ける……ッ!)
泥のような記憶の奔流を、すべて自身の器へと飲み干す。
血管が破裂しそうだ。
魂がミシミシと悲鳴を上げている。
それでも、久遠は手を離さない。
バキィィィィッ!
大樹が、断末魔のような音を立てて裂けた。
溢れ出した光の粒子が、地下空洞を暴風のように駆け巡る。
娘の瞳に、焦点が戻る。
座り込んでいた男が、我に返り、妻の名を呼んで泣き叫ぶ。
光の中心で、久遠だけが静かに立ち尽くしていた。
その瞳から、ゆっくりと色彩が消えていくのを、誰も知る由はなかった。
最終章 名もなき花
春の陽気が、街道を優しく包んでいた。
とある村外れの茶屋。
縁側で日向ぼっこをしている男がいる。
白髪交じりの髪。
赤子のように無垢で、空っぽな瞳。
「久遠さん、お茶が入りましたよ」
茶屋の娘が声をかけるが、男は反応しない。
ただ、空を流れる雲を目で追っているだけだ。
言葉を失い、過去を失い、自分が何者かも分からない。
それでも、男の表情は穏やかだった。
かつて彼を苛んでいた、他人の心への恐怖も、今はもうない。
男の視線が、ふと地面に落ちる。
そこには、一本の奇妙な木片が突き刺さり、根付いていた。
かつて禍々しい文様を刻んでいたその木片は、今は青々とした葉を広げている。
そして枝先には、見たこともないほど美しい、虹色の花が一輪、咲き誇っていた。
男はその花をじっと見つめる。
一雫。
男の目から、涙が零れ落ちた。
なぜ泣いているのか、彼には分からない。
自分が何を失ったのかも、この花が何の色をしているのかさえも。
ただ、その花があまりにも鮮烈で。
胸の奥の空洞を、温かい光で満たしてくれる気がして。
「……き、れい」
男は、たどたどしい言葉でそう呟いた。
花が風に揺れ、甘い香りを漂わせる。
世界は今日も、残酷なほど美しい。