忘却の空、星図の奏でる物語

忘却の空、星図の奏でる物語

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第一章 錆びついた心臓

口の中が、鉄の味で満たされている。

舌の裏にへばりつく、酸化した金属の苦味。

それが、私にとっての朝の挨拶だ。

街は今日も、死にかけた魚のような灰色をしている。

私はコートの襟を立て、視線をアスファルトに縫い付けるようにして歩く。

視界の端、パン屋の看板の文字が、水に溶けるインクのように滲み、意味を持たない染みへと変わっていくのが見えた。

「……あれ?」

隣を歩いていた初老の男性が立ち止まる。

彼は財布から一枚の写真を取り出し、首を傾げた。

「これは……誰だっけ。いや、違う。『誰』じゃない」

彼の指が、写真の中の笑顔の老婦人をなぞる。

「この、『隣にいる役割』の人間を……なんて呼ぶんだっけ? そもそも、どうして二人は一緒にいるんだ?」

名前を忘れたのではない。

「妻」という概念そのものが、彼の脳細胞から抜け落ちていく。

その瞬間、彼の方からどす黒い振動が放たれた。

恐怖ではない。

もっと根源的な、自分の輪郭が消しゴムで乱暴に擦り消されていくような、存在の絶叫。

ドクン、と私の胃袋が痙攣する。

「ぐ、ぅ……」

偏頭痛がこめかみを万力で締め上げる。

右腕がないのに右腕が痛むような、強烈な幻肢痛。

あぁ、痛い。

この老人の喪失感が、私の神経を伝って逆流してくる。

私は路地裏へ転がり込み、コンクリートの壁に額を押し付けた。

胃液が喉までせり上がる。

他人の痛みが、私の肉体を侵食する。

「大丈夫ですか?」

気遣う声がしたが、私は野良犬のように唸り、その手を払いのけた。

触らないで。

あなたのその「優しさ」さえ、明日には消えてなくなるのだから。

その時、残された私がどれほど痛むか、あなたには分からない。

私は逃げた。

記憶が質量を失い、人々が透明になっていくこの街から。

息も絶え絶えにアパートへ滑り込み、鍵をかける。

薄暗いワンルーム。

ここだけが、情報の遮断された無菌室だ。

荒い呼吸を整え、私は机の上を見る。

そこには、歪な木箱が鎮座していた。

『星図のオルゴール』。

恋人だったカイトが残した、呪物のような遺品。

彼がこの世界から消失して、もう三年になる。

震える指先で、蓋を開ける。

ガリッ、ギギ……。

美しい音色ではない。

錆びた針がガラスを引っ掻くような、不快なノイズ。

その音が鼓膜を打った瞬間、心臓を直接握り潰されるような激痛が走った。

「っ……あぁ……!」

うずくまる。

これは私の痛みじゃない。

カイトの痛みだ。

彼が消える直前、その魂に刻み込んだ断末魔が、この音色には記録されている。

どうして。

どうしてこんなものを残したの。

涙が滲む視界の中で、私はかつての彼の言葉を思い出す。

『アリス、星図は空の地図だけど、それじゃ不十分なんだ』

屋上の手すりに寄りかかり、彼は夜空を指差していた。

『星は動くからね。正しい位置を知るには「時間」という軸がいる。音楽はね、時間の地図なんだよ。このオルゴールの不協和音は、僕の感情の座標だ』

座標。

そうだ、これは地図だ。

私のこの、忌々しいほどの共感能力でしか読み解けない、彼が隠した場所への案内図。

行きたくない。

行けばまた、あの身を裂くような喪失と向き合わなければならない。

けれど、不協和音の奥底で、何かが呼んでいる。

痛みの中に、微かな熱がある。

私は歯を食いしばり、オルゴールを鞄にねじ込んだ。

鉄の味がする口の中に、唾を吐き捨てる。

第二章 失われた時を求めて

足が重い。

一歩進むたびに、見えない泥沼に沈んでいくようだ。

街外れの丘。

朽ちかけた枕木を踏み越え、私は「旧天文台」を目指す。

近づくにつれ、胸の圧迫感が増していく。

空気が粘り気を帯び、肌にまとわりつく。

ここは、カイトの記憶の集積地。

彼が消える寸前まで籠もっていた場所。

「……帰りたい」

本音が漏れる。

怖いのだ。

彼が自分を失っていく過程を、その恐怖の痕跡を、直視するのが。

『君は優しいね、アリス』

記憶の中の声が蘇る。

『その痛みは、君が誰かと深く繋がれる証拠だよ』

「……綺麗事よ」

私はブーツの先で小石を蹴り飛ばした。

優しさなんて、何の役にも立たなかった。

私はただ、彼が「カイト」でなくなっていく様を、指をくわえて見ていることしかできなかった。

昨日は私の名前を忘れ、今日は好物を忘れ、明日は言葉を忘れる。

その絶望的な引き算の日々。

天文台の錆びた扉の前に立つ。

ここから放たれている気配は、鋭利な刃物のようだ。

肌が粟立つ。

意を決して、ノブを回す。

ギィィィ――。

重苦しい音と共に、冷気が吹き抜けた。

ドームの中は、埃と静寂に支配されていた。

巨大な天体望遠鏡が、死んだ恐竜の骨のように横たわっている。

「っ、ぐ……」

鞄の中のオルゴールが共鳴し、痛みがスパークした。

立っていられない。私は膝をつく。

視覚ではない。痛覚が、場所を教えている。

右奥。

資料棚の裏。

あそこから、強烈な「拒絶」と、それを上回る「渇望」が放たれている。

這うようにして近づく。

指先が痺れる。

まるで、これ以上近づくなとカイトが叫んでいるようだ。

いや、違う。

「見つけてくれ」と泣いているのだ。

資料棚の裏、床板の継ぎ目が不自然に浮いていた。

私は爪を立て、板を剥がす。

そこには、一冊のノートが隠されていた。

革の表紙はボロボロで、手垢と、何かの染みで汚れている。

触れた瞬間、電流のような感情が流れ込んできた。

焦り。

恐怖。

そして、祈り。

これは、ただの日記じゃない。

彼が、消えゆく自我を必死に繋ぎ止めようとした、血塗れの記録だ。

私は震える手で、表紙を開いた。

第三章 星屑のメッセージ

ページをめくる指が止まらない。

そこにあるのは、文字の羅列ではなかった。

彼の「悲鳴」そのものだった。

『2月4日。今日はアリスの名前が一瞬出てこなかった。怖い。僕の脳が、砂の城みたいに崩れていく』

インクが掠れている。

筆圧が強すぎて、紙が破れかけている箇所もある。

『2月10日。珈琲の淹れ方を忘れた。昨日は帰り道が分からなくなった。

アリスが泣いていた。ごめん。ごめん。僕が僕でなくなっても、君を傷つけたくないのに』

胸が張り裂けそうだ。

当時の私が感じていた「彼との距離」なんて目じゃない。

彼は、こんなにも孤独な戦場で、たった一人で戦っていたのだ。

ページが進むにつれ、文字は乱れ、意味をなさなくなっていく。

ミミズがのたうつような線。

黒く塗りつぶされた段落。

けれど、最後の数ページだけ、不思議なほど文字が整っていた。

『物語を書こうと思う』

唐突な一文。

『僕の記憶はもう持たない。だから、嘘をつくことにした。

事実なんて残酷なだけだ。僕が君に残せるのは、綺麗な嘘だけだ』

そこから綴られていたのは、短い寓話だった。

「痛みを吸い取る少女」と「記憶を売る少年」の物語。

物語の中の少年は、自分の記憶を代償に、少女の呪いを解こうとする。

『君のその力は、呪いなんかじゃない。

世界中の誰もが忘れてしまう想いを、君だけが拾い上げることができる。

それは、君にしかできない魔法だ』

これは、彼からの遺言だ。

私を、私の能力に対する嫌悪から救い出すための、精一杯の創作。

最後のページ。

そこには、震える手で書かれたであろう、文字の塊があった。

インクが滲んでいる。

涙の跡だ。

『アリス。

僕が恐怖に震えているとき、君が手を握ってくれた温かさを、僕は最後まで覚えていたかった。

でも、もう無理だ。

だから、このノートに僕の全てを込める。

僕を忘れて幸せになってほしいなんて、格好いいことは言えない。

忘れないでほしい。

僕がここにいたことを。

君を愛していた男が、確かに存在したことを。

君のその痛みが、僕が生きた証拠なんだ』

「……っ、うあぁ……!」

喉の奥から、獣のような嗚咽が漏れた。

私が「後悔」だと感じていた痛み。

それは、彼が死にたくないという未練ではなかった。

私に忘れられたくない、私の中に残り続けたいという、どうしようもなく人間臭い「エゴ」と「愛」だった。

彼は、私が痛むことを知っていて、それでも私に痛みを残した。

僕を忘れるな、と。

その痛みが続く限り、僕は君の中で生きているんだ、と。

「残酷な人……っ、ばか、カイト……」

ノートを抱きしめ、床に突っ伏して泣いた。

涙で視界がぐちゃぐちゃになる。

けれど、不思議だった。

あれほど私を苦しめていた胸の締め付けが、今は愛おしい熱に変わっていた。

キリキリ……。

床に転がっていたオルゴールが、不意に鳴った。

空気が変わる。

不協和音の歯車がカチリと噛み合い、澄み渡るようなメロディが流れ出した。

あの夏の日、二人で見上げた星空の下で聴いた、優しい旋律。

ドームのスリットから、月明かりが差し込む。

舞い上がる埃が、ダイヤモンドダストのように輝いていた。

「……聞こえるよ、カイト」

あなたの座標は、ここにある。

私の、一番痛くて、一番温かい場所に。

最終章 記憶の語り部

「……そうして、老いた時計職人は、自分の心臓を時計の中に埋め込み、永遠の時を刻み続けました」

私は万年筆を置き、原稿用紙を揃える。

インクの匂いが、春の風に乗って漂った。

ベッドの上、すっかり体が透けてしまった老婆が、静かに微笑んでいる。

彼女の輪郭はもう、陽炎のように揺らいでいた。

「ありがとう……。私が誰にも言えずにいた、あの人への懺悔……。こんなに綺麗な物語にしてくれて」

「いいえ。これは貴女が生きた証ですから」

私は書き上げたばかりの原稿を、彼女の希薄な手に握らせる。

彼女の胸から立ち昇っていた、コールタールのような後悔の靄は、もう消え失せていた。

代わりに、夕焼けのような穏やかな色が彼女を包んでいる。

「アリスさん、だったかしら」

老婆が、消え入りそうな声で言った。

「あなたのその手……とても温かいわ」

「……職業病です。他人の熱を、貰いすぎてしまうので」

私は苦笑して、彼女の手を握り返す。

ズキリと、指先が痛む。

けれど、もう顔をしかめたりはしない。

私はこの痛みを、物語に変える術を知っているから。

彼女は間もなく、誰の記憶からも消滅する。

世界は彼女を忘れる。

でも、この物語は残る。私が、世界に楔を打ち込む。

カイトの物語を出版した後、私は出版社を辞め、フリーランスの代筆屋になった。

『記憶の語り部』。

消えゆく人々の最期の叫びを、物語というカプセルに封じ込める仕事。

帰り道、私は空を見上げた。

どこまでも高く、残酷なほどに青い空。

鞄の中で、星図のオルゴールがカタと鳴った気がした。

カイトはもういない。

どこにもいない。

けれど、風の中に、インクの染みに、そして私が抱えるこの愛おしい痛みの中に、彼は確かに息づいている。

「行ってきます」

私は新しいノートを開く。

次の街でも、たくさんの「忘れられたくない」が私を待っている。

その全ての痛みを抱きしめて、私は歩き続ける。

彼が残した、この不器用な地図を頼りに。

AIによる物語の考察

**深掘り解説文**

**登場人物の心理:**
主人公アリスは、他者の記憶喪失に伴う痛みを共感する能力に苦悩する。しかし、消えゆく恋人カイトが遺したオルゴールの不協和音とノートの記録を通じ、その痛みが「忘れないでほしい」という彼からの切なる愛のメッセージであることを悟る。カイトは、自己が消滅する絶望の中で、アリスへの深い愛と、自分が存在した証を物語として残そうとした。

**伏線の解説:**
アリスの口に広がる「鉄の味」やオルゴールの「不協和音」は、他者の喪失感やカイトの苦痛を象徴する。これらは物語終盤、カイトの真意を理解することで「愛おしい熱」や「澄み渡るメロディ」へと変化し、痛みの受容と昇華を示す。カイトが残した「物語を書こうと思う」という言葉は、アリスが「記憶の語り部」として歩む道への伏線となる。

**テーマ:**
本作は、記憶と忘却、そして共感能力がもたらす痛みと愛のテーマを深く掘り下げる。存在が希薄になる世界で、忘れ去られる人々の記憶や感情を「物語」という形で永遠に刻みつけることの尊さ、他者の苦しみを抱きしめることで自己を肯定し、新たな使命を見出す希望を描いている。物語は、時間をも超える不朽の地図となる。
この物語の「続き」を生成する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

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