第一章 灰色の朝と銀の羽根
指先に触れる真鍮の冷たさだけが、この世界で唯一の確かな感触だった。
アリスは掌の中で、小さな箱――『時を紡ぐオルゴール』を無意識に撫でる。その表面の細かい傷の一つひとつが、誰かの悲鳴を吸い込んだ痕跡のように思えた。
「……怖いか?」
アリスが問いかけると、目の前の男は強張った顔で小さく頷いた。
言葉はいらない。
彼の瞳の奥、硝子体が濁るほどの深淵に、十年分の後悔がへばりついているのが見える。置き去りにした恋人への謝罪。言えなかった言葉が、喉元で腐敗して黒い澱(おり)となっている。
アリスは静かに蓋を開けた。
*チリリ、ルリリ……*
錆びついた空気を震わせ、繊細な歯車が噛み合う。
物悲しく、けれど残酷なほど透き通ったメロディが、薄暗い部屋の隅々まで浸食していく。
世界が歪む。
床板の木目が波打ち、壁紙の染みが人の顔のように蠢き、色彩がセピア色に褪色してゆく。
アリスは深く息を吐き、瞼を閉じた。
重力に従うように、男の『後悔の夢』へと沈んでいく。
湿ったアスファルトの匂い。雨音。
そこは、色彩を失ったプラットホームだった。
発車のベルが、断末魔のように響いている。
男の背中があった。
震えている。足元には鉛のような迷い。
アリスはその背に触れなかった。ただ、その場に流れる「時間」の淀みを、指先で弾くように払った。
オルゴールの音が、強まる。
凍り付いていた秒針が動き出す音。
男が顔を上げた。
アリスの意志ではない。彼自身の魂が、音色に呼応して前を向いたのだ。
濡れた頬を拭いもせず、彼は遠ざかる列車の幻影に向かって、喉が裂けんばかりに叫んだ。
「――愛していた!」
その瞬間、灰色の世界が内側から破裂し、眩い光が溢れ出した。
*パタン。*
乾いた音が、現実への帰還を告げる。
オルゴールの蓋が閉じるのと同時に、ふわり、と白い羽根が一枚、箱の隙間から舞い上がった。
それは空中で燐光を放ち、雪のように溶けて消える。
「……ああ」
男が自身の胸を確かめるように押さえる。
憑き物が落ちた、などという生易しいものではない。彼の輪郭が、たった今、描き直されたかのように鮮明になっていた。
「軽くなった。……息ができる」
男は深々と頭を下げ、足取り軽く部屋を出て行く。
ドアが閉まる音だけが、部屋に取り残された。
アリスは椅子に深く沈み込む。
指先が微かに震えている。
(あぁ……また、ひとつ)
胸の奥。心臓のすぐ隣にあったはずの『温かい場所』が、音もなく削り取られた。
来月の休日、行こうと思っていたカフェの場所。
いつか飼いたいと願っていた白い猫の毛並みの感触。
そんな、未来を彩るはずだった「楽しみ」の色彩が、記憶の霧の中へ溶け落ちていく。
『未来喪失の法則』。
他人の過去を修復するたび、アリスの未来という可能性(リソース)が対価として支払われる。
等価交換ですらない。
救いは彼らに、虚無は私に。
残るのは、どこまでも続く灰色の空白だけ。
「……私の明日は、どんな色だったかしら」
アリスの呟きは、誰の耳にも届くことなく、冷え切った部屋の床に吸い込まれて消えた。
第二章 陽だまりの異邦人
「ねえ、音が泣いてるよ」
突如、アリスの窒息しそうな静寂を破ったのは、鈴を転がすような声だった。
弾かれたように顔を上げる。
閉め切ったはずの窓枠に、一人の少年が腰掛けていた。
逆光を背負い、金色の陽射しそのものを纏ったかのような輪郭。十歳くらいだろうか。人間離れした大きな瞳が、アリスの奥底を覗き込んでいる。
「……どこから入ったの」
「風と一緒に。隙間ならたくさんあるからね」
少年は重力を無視したような身軽さで床に降り立つと、アリスの目前まで近づいてきた。
この部屋には、重たい後悔を抱えた人間しか辿り着けないはずなのに。
彼からは、「重さ」が一切感じられない。
「君、迷子?」
アリスが警戒を露わにしても、少年はケラケラと笑った。蝶が舞うような笑い声だ。
「迷子? 違うよ。僕はこれから何にだってなれるし、どこへだって行ける。だから、ここにもいられる」
眩しすぎた。
アリスがすり減らしてしまった『未来』そのものを凝縮したような、圧倒的な生の輝き。
彼には影がない。文字通り、足元に影が落ちていない。
「お姉さん、名前は?」
「……アリス」
「アリス。ふうん、響きが少し硬いね。もっと柔らかい音がするはずなのに」
少年は、アリスの手の中にあるオルゴールを興味深そうに突く。
「その箱、悲しい匂いがする。雨上がりの土みたいな」
「これは、そういう道具だから」
「もったいないなあ。世界にはもっと、跳ね回るような音が溢れてるのに」
少年が指をパチンと鳴らす。
途端に、アリスの鼻腔を甘い香りがくすぐった。
焼きたてのパン? いや、夏の終わりの海の匂い?
「ねえアリス、水平線の向こうの色を知ってる?」
「……知らないわ」
「じゃあ、一番星が瞬く時の音は?」
「星に音なんてない」
「あるよ! キラン、って言うんだ。知らないの?」
少年は無邪気に、アリスの周りをくるくると回る。
彼が動くたびに、アリスが忘却の彼方に置き去りにした感覚――生きる喜びの断片が、燐粉のように撒き散らされる。
胸がざわつく。
羨望と、焦燥。
「変な子ね。未来なんて、不確かなだけよ」
アリスの言葉は、自分自身への言い訳のように響いた。
少年は足を止め、アリスを見上げる。
その瞳は、水晶のように澄み切っていて、嘘を映さない。
「不確かだから、綺麗なんじゃないか」
少年の純粋な問いが、アリスの胸を鋭く貫いた。
言葉に詰まるアリスを見て、彼はまた悪戯っぽく笑う。
「ま、いいや。しばらくここにいてあげる。アリスの音が変わるまで」
第三章 ゼロへのカウントダウン
それから数日、少年はアリスの影のように――あるいは、失われた影の代わりのように付き纏った。
彼がそばにいると、不思議と依頼人の心の傷が早く癒える。
だが、その代償として、アリスの摩耗のスピードは加速していた。
最後の一滴が、絞り出されるような予感。
ある老婦人の、亡き夫への悔恨を癒やした直後だった。
アリスの視界から、唐突に「奥行き」が消えた。
「――ッ」
オルゴールが手から滑り落ち、床にぶつかって鈍い音を立てる。
白い羽根が舞う。
けれど今回は、アリスの心に『喪失感』さえ生まれなかった。
ただ、スイッチが切れたように、感覚が遮断された。
(ああ……)
テーブルの上のコーヒーカップを見る。
「液体が入った陶器」だということは分かる。だが、「飲みたい」とも「熱そう」とも思わない。ただの物体。
窓の外を見る。
「青」という色彩情報はある。だが、それが空なのか、ペンキなのか、区別がつかない。
好きだった音楽を思い出そうとした。
脳内に響いたのは、不快なノイズだけ。
カレンダーの日付を見る。
そこにあるはずの「明日」という概念が、黒く塗りつぶされた穴のように見え、吐き気を催した。
完全なる虚無。
未来への道が、すべて途切れた。断崖絶壁の縁にさえ立てていない。道そのものが消滅したのだ。
「アリス!」
少年の声が、分厚いガラス越しのように遠く聞こえた。
駆け寄ってきた彼が、アリスの冷え切った手を両手で包み込む。
熱い。火傷しそうなほどに、生の熱量を感じる。
「……もう、無理。何もないの」
アリスの瞳からハイライトが消える。
世界は砂嵐のような灰色一色だ。
少年は首を振った。
彼は床に落ちたオルゴールを拾い上げると、アリスの胸に押し付けた。
そして、その小さな手で、アリスの瞼をそっと覆う。
「見えないなら、見せてあげる」
少年の指先から、眩い光がアリスの脳髄へと直接流れ込んでくる。
言葉による説得ではない。
強制的な、魂の共鳴。
アリスの意識が、少年の体温に引かれて、深い光の底へと落下していった。
第四章 鏡の中の希望
目を開けると、そこは光の庭だった。
色彩の暴力。
むせ返るような花の香り。頬を撫でる風の柔らかさ。
空は抜けるように青く、遠くには憧れていた海のきらめきが、宝石を砕いたように輝いている。
「ここは……」
アリスは呆然と歩き出す。
足元から、波紋のように映像が浮かび上がっては消える。
駅のホームで叫んだ男が、新しい恋人と手を取り合い、大口を開けて笑っている。
老婦人が、縁側で孫に囲まれ、穏やかな陽だまりの中で微睡んでいる。
アリスが救った、数え切れないほどの人々の「その後」。
彼らの笑顔が、光の粒子となって降り注いでいた。
(私が削った未来は、消えたんじゃなかったの……?)
視線の先に、あの少年が立っていた。
彼は何も言わない。
ただ、庭の奥にある、古びた大きな鏡を指差した。
アリスは導かれるように鏡の前へ立つ。
そこに映っていたのは、現在の疲弊したアリスではなかった。
幼い頃のアリスだ。
絵本を抱きしめ、目をキラキラと輝かせている少女。
『いつか私も、誰かを笑顔にできる魔法使いになりたい』
『パティシエになって、世界一のケーキを作るの』
『海を見に行きたい。恋をしてみたい』
無数の「願い」が、少女の周りで金色の蝶となって舞っている。
その少女の隣に、あの少年が立っていた。
いや、違う。
鏡の中の少年が、ゆっくりと少女の姿に重なっていく。
少年がアリスに向かって微笑む。
その笑顔は、幼い頃のアリスそのものだった。
――ドクン。
アリスの心臓が大きく跳ねた。
理解、という言葉では追いつかない。直感が、雷のように全身を駆け巡る。
少年は「未来」ではなかった。
アリスが『未来を失うのが怖い』と怯え、心の最も深い場所に閉じ込めて鍵をかけた、かつての自分の『希望』そのものだったのだ。
救った人々の幸せを願うたび、アリスは自分自身の幸せを「後回し」にしていただけだった。
未来は消えてなどいなかった。
アリス自身が、恐怖で目を瞑り、見えなくしていただけ。
少年が鏡の中から手を伸ばす。
アリスもおずおずと、鏡面に手を重ねた。
指先が触れ合う。
温かい。
涙が、堰を切ったように溢れ出した。
鏡が光となって砕け散り、少年が――いいえ、私自身の希望が、アリスの身体へと溶け込んでくる。
(おかえり)
声に出さずに呟いた瞬間、灰色の世界が、鮮烈な極彩色に塗り替えられていった。
最終章 始まりの音色
アリスが目を覚ますと、そこはいつもの部屋だった。
けれど、空気の味が違った。
窓から差し込む朝の光が、部屋の中を漂う埃さえも金色の粒子に変えている。
手の中のオルゴールは、静かに呼吸するように温かい。
少年の姿は、もうどこにもなかった。
アリスは胸に手を当てる。
トクン、トクン。
力強い鼓動の奥に、あの少年のような、無邪気で温かな熱源が灯っているのを感じる。
彼は消えたのではない。
私の中に、還ってきたのだ。
アリスは椅子から立ち上がり、重いカーテンを開け放った。
「……っ」
眩しさに目を細める。
窓の外には、当たり前の日常が広がっていた。
車の走る音、誰かの笑い声、遠くの工事の音。それらすべてが、愛おしい「生」の旋律として鼓膜を震わせる。
お腹が空いた。
焼きたてのクロワッサンが食べたい。
熱いコーヒーの香りを嗅ぎたい。
来週は、あの青い海を見に行こう。
具体的な『願望』が、泉のように次々と湧き上がってくる。
それは、失われたと思っていた未来への確かな道標。
部屋の隅に置かれたカレンダーを見る。
黒く塗りつぶされていたはずの日付は、鮮やかな数字としてそこに存在していた。
アリスはオルゴールのゼンマイを巻く。
流れたのは、いつもの哀切なメロディではない。
窓から吹き込んだ風と共鳴し、どこか軽やかで、希望に満ちたワルツのように聞こえた。
彼女は深く息を吸い込み、窓の外の青空に向かって、小さく、けれどはっきりと呟いた。
「おはよう」
それは、アリス自身の新しい時間(とき)が動き出す、始まりの音色だった。