枯れ種と、嘘つきの琵琶

枯れ種と、嘘つきの琵琶

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第一章 沈黙する骸

風が、不自然に凪いだ。

カゲロウは足を止め、竹杖で地面を突く。

湿った苔の匂い。

その奥に、ねっとりと鼻腔に絡みつく鉄錆の臭気――血だ。

「……」

警告の声はない。

ただ、殺気だけが矢のように飛んできた。

カゲロウは動じない。

彼には見えていた。

前方の茂み、男が一人。

呼吸は荒く、心臓が早鐘を打っている。

恐怖。焦燥。

そして、喉の奥にへばりついた、何かを必死に飲み込もうとする粘着質な沈黙。

ザリ、と砂利が鳴る。

男が間合いを詰めてきた。

「止まれ」

低く、押し殺した声。

言葉はそれだけだ。

理由も、警告も語らない。

それが逆に、この村を覆う掟の絶対性を雄弁に物語っていた。

カゲロウは男を無視し、傍らの草むらに膝をつく。

そこに「音」がある。

命が途絶えたばかりの骸(むくろ)が放つ、どす黒い不協和音。

死体は、まだ温かい。

カゲロウはそっと、死者の口元に指を這わせた。

唇が不自然に歪んでいる。

指先を侵入させる。

舌の上で転がったのは、カサカサと乾いた異物。

(……植物の種か)

トリカブト特有の、痺れるような甘い香りが指に残る。

カゲロウが種を取り出した瞬間、背後の男が動いた。

「!!」

抜き身の刃が風を切る音。

カゲロウは最小限の動きで頭を傾ける。

切っ先が数本の髪を削ぎ、頬を掠めた。

「見ましたね、この者が覗いたものを」

カゲロウが問うても、男は答えない。

ただ、握られた刀の柄がきしむ音がする。

ガチ、ガチ、と歯の根が合わない震え。

男は恐れている。

目の前の盲目の琵琶法師ではない。

この死体が見てしまった『何か』を。

そして、それを知った者が辿る末路を。

村の方角から、視線を感じる。

板戸の隙間、障子の穴。

無数の目が、息を殺してこちらを見ている。

赤子の泣き声さえ聞こえない。

異様な静寂。

それはまるで、村全体が一つの巨大な墓石の下にうずくまっているかのようだった。

カゲロウは背負った黒漆の琵琶を抱え直す。

指先が弦に触れる。

「語らぬことで守れるものなど、ありはしない」

ベンッ。

弦が鳴いた。

音は鋭利な刃となり、男の足元の地面を深く抉った。

第二章 幻視の焦熱

安宿の部屋は、万年床の湿気とカビの臭いで満ちていた。

カゲロウは窓辺に座り、吐き気をこらえていた。

(……酷いノイズだ)

昼間の骸に残っていた残留思念。

それが、頭蓋の内側で反響し続けている。

暗い井戸の底。

爪が壁を掻く音。

水はない。あるのは積み重なった骨。

そして、飢えに耐えかね、互いの肉を食らったあとの、獣のような咀嚼音。

この豊かな水郷の藩は、ある一族を井戸ごと生き埋めにし、その犠牲の上に成り立っている。

それが「真実」だ。

「……来たか」

天井裏でネズミが走る音が止まった。

廊下を歩く、重さを消した足音が三つ。

昼間の役人が放った刺客だ。

殺気などという生易しいものではない。

「処理」をしに来た、無機質な事務的な意思。

障子が音もなく開く。

同時に、三方向から刃が奔る。

カゲロウは琵琶を構えた。

「『弔い』の時間だ」

バチを一閃させる。

撥(ばち)が弦を叩いた瞬間、物理的な衝撃波が部屋の空気を歪めた。

ギャオオオオンッ!!

それは音ではない。大気の破裂だ。

狭い室内に圧縮された音圧が、刺客たちの鼓膜を直撃し、三半規管を破壊する。

「が、あ……っ!?」

刺客の一人が平衡感覚を失い、壁に激突して嘔吐した。

視界が回り、天地が逆転する。

カゲロウの琵琶は、脳髄を直接揺さぶる凶器だ。

だが、弦を弾くたび、カゲロウ自身も代償を支払わされる。

真実を暴く旋律は、同時に「ありうべき未来」を彼に見せつけるのだ。

(ぐ、ぅ……ッ!)

激痛と共に、脳裏に映像が焼き付く。

もし、井戸の虐殺を公表すれば、どうなるか。

真実は瞬く間に広がる。

激昂した民衆が、鍬や鎌を手に城門を破る。

引きずり出された藩主の首が落ちる音。

だが、それで終わりではない。

統治を失った土地に、隣国の軍勢が雪崩れ込む。

鮮明すぎる幻視。

鼻をつくのは、焼けた人肉の脂っこい臭い。

崩れ落ちた屋根の下から突き出た、黒焦げの腕。

略奪される蔵。

犯される女たちの悲鳴が、喉が裂けるほどの高音で響く。

そして、不意に訪れる静寂。

泣いていた赤子の声が、軍靴の下で唐突に途切れる。

プチリ、と。

果実が潰れるような、湿った音だけを残して。

「お、え……ッ」

カゲロウは演奏の手を止め、畳に手をついて胃液を吐いた。

冷や汗が滝のように流れ、全身が震える。

真実を暴けば、死者の無念は晴れる。

だが、生者は地獄を見る。

正義とは、これほどまでに血生臭いものなのか。

床に転がる刺客たちが、恐怖に目を見開いて彼を見上げている。

彼らもまた、その「地獄」を予感して動いていた歯車に過ぎない。

カゲロウは唇を噛み切り、口の中に鉄の味を感じた。

選ばなければならない。

過去の死者のために、未来の生者を殺すか。

それとも、清濁を飲み込み、泥の中で息をするか。

彼は震える手で、再び琵琶を抱き寄せた。

第三章 嘘つきの奏でる夜明け

翌朝。

藩主の屋敷前広場は、凍りつくような緊張に包まれていた。

数千の民が集まっている。

彼らの手には、石や農具が握られていた。

「旅の法師が、神罰の正体を暴くらしい」

その噂だけで、暴動の火種はすでに燻っている。

壇上には、顔面蒼白の藩主と、昨夜の役人たち。

彼らの懐には、短刀が隠されているのが「聞こえる」。

カゲロウが口を開いた瞬間、彼らは自害するか、あるいは最後のあがきで民を斬るだろう。

風が止まった。

民衆の視線が、カゲロウの背負う黒漆の琵琶に突き刺さる。

数千人の心音が、巨大なうねりとなってカゲロウを圧迫する。

カゲロウは一歩、前へ出た。

喉が渇く。

彼がこれから紡ぐのは、言葉ではない。運命だ。

「聞け、人々よ!」

カゲロウの声が、ビリビリと大気を震わせた。

役人が身を硬くする。

民衆が息を呑む。

カゲロウは、天を仰いだ。

瞼の裏に、あの焼け焦げた未来図と、井戸の底の怨嗟が同時に浮かぶ。

彼はそれを飲み込み、腹の底で練り上げ、全く別の形へと昇華させた。

激しく、琵琶を掻き鳴らす。

ベベンッ、ベンッ!

ギュルルル……!

「語るは昔日(せきじつ)! 水涸れしこの不毛の地に、尊き血をもって泉を呼びし、勇者たちの物語である!」

民衆がざわめく。

「勇者?」「祟りではないのか?」

カゲロウは畳み掛ける。

弦の音が、優しく、そして哀切を帯びて広場に満ちていく。

それは、怒りを煽る音ではない。

魂を鎮める、母の子守唄にも似た波動。

「彼らは、井戸の底より自ら『礎(いしずえ)』となることを望んだ! 我が身を捧げ、この地の繁栄を願った守護神である!」

嘘だ。

真っ赤な嘘だ。

彼らは無理やり突き落とされ、呪いながら死んでいった。

だが、カゲロウはその怨念を、物語の力でねじ伏せる。

「今、彼らは静寂を望んでおられる! 騒ぎ立て、その眠りを妨げることなかれ! だが、ゆめゆめ忘れることなかれ! 今の我らの命は、彼らの尊き犠牲の上に咲いた花であることを!」

琵琶の音が、人々の強張った肩を解いていく。

握りしめていた石が、手から滑り落ちる。

カラン、コロン。

乾いた音が広場に響く。

「ありがたや……」

「ご先祖様のおかげだったのか……」

「俺たちは、なんと罰当たりなことを……」

祟りへの恐怖は、感謝と敬虔な祈りへと変わった。

すすり泣く声が波紋のように広がる。

壇上の藩主が、ガクリと膝をついた。

その目から涙が溢れている。

彼は知っている。それが嘘であることを。

だが、その嘘によって、彼は「断罪」されるよりも重い「十字架」を背負わされたのだ。

先祖の罪を、美談として語り継がねばならない苦しみ。

その罪悪感が、彼を一生縛り続け、善政へと駆り立てるだろう。

カゲロウは、最後の弦を弾いた。

静かに、長く、余韻を残して。

幻視の中の炎が消えていく。

赤子の泣き声が、母親の腕の中で安らかな寝息に変わる。

(……これで、いい)

カゲロウは脂汗を袖で拭った。

真実は闇に葬られた。

その代わりに、脆く、しかし確かな「平和」が芽吹いた。

終章 風の行方

夕暮れ。

カゲロウは一人、町外れの街道を歩いていた。

背後から、走ってくる足音がある。

あの役人だ。

殺気はもうない。あるのは、困惑と畏怖。

「……待ってくれ」

役人は息を切らせ、金子の包みを差し出した。

カゲロウは首を横に振る。

「なぜだ」

役人の声が震えている。

「なぜ、真実を言わなかった? 我々を恨んでいたはずだ」

カゲロウは立ち止まり、空を見上げた。

茜色の空には、カラスが二羽、啼きながら飛んでいく。

「真実という光は、時に強すぎて人の目を焼きます。私は盲目ゆえ、闇の中でしか育たぬ種を信じているのです」

「お前は、我々を許したのか?」

「いいえ」

カゲロウは振り返った。

その白濁した瞳が、役人の魂の奥底まで射抜く。

「物語は、語り継がれることで真実になります。あの『嘘』が真実であり続けられるかどうかは、これからのあなた方次第だ」

役人は言葉を失い、その場に崩れ落ちるように頭を下げた。

カゲロウは再び歩き出す。

竹杖の音。

カツ、カツ、と乾いた音が、夕闇に吸い込まれていく。

懐の黒漆琵琶が、小さく共鳴した気がした。

それは「大嘘つき」と嘲笑ったのか、それとも「よくやった」と労ったのか。

カゲロウは口の端を吊り上げた。

どちらでもいい。

世界は悲劇に満ちている。

だからこそ、奏でなければならないのだ。

絶望の淵に咲く、一輪の希望という名の「嘘」を。

風が吹く。

次の町からもまた、誰かの祈るような泣き声が聞こえてくる。

AIによる物語の考察

**登場人物の心理**
盲目の琵琶法師カゲロウは、真実を暴けば起こる惨劇の幻視に苦悩する。過去の怨念と未来の破滅の板挟みで、最終的に「希望の嘘」を選ぶ覚悟を持つ。彼の行動は、真実の残酷さと、平和を築く「大嘘つき」としての重い責任を示す。藩主は、先祖の罪を美談として語り継ぐという、断罪以上の重い「十字架」を背負わされる。

**伏線の解説**
死者の口から見つかる「枯れ種」は、真実が時に毒となり、希望が闇の中でしか育たないメタファーとして機能する。「嘘つきの琵琶」は、真実を暴く凶器でありながら、希望の物語を紡ぐ道具となる皮肉な役割。カゲロウが見る「幻視」は、真実を公表した際の悲惨な未来を提示し、彼の「嘘」の選択を決定づける重要な伏線となっている。

**テーマ**
本作は「真実と嘘の狭間にある正義」を深く問う。真実の暴露が生み出す地獄と、虚偽がもたらす脆い平和の対比を通じ、正義の多面性と物語の力を描く。「語り継がれることで真実になる」という言葉は、歴史や集合的記憶の形成、そして未来への責任について深く考察させる。絶望の中で「希望の嘘」を奏でるカゲロウの姿は、困難な時代における人間の選択の重さを象徴する。
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