第一章 腐敗する宝石箱
吐き気がするほどの、美しい夜景だった。
眼下に広がる東京のネオンは、どす黒い臓器のように脈動している。
30階のペントハウス。
空調は完全なはずなのに、皮膚にまとわりつく空気が生暖かい。
「……まただ」
俺、橘 蓮(たちばな れん)は、とっさにブランデーグラスを取り落とした。
ガシャアン、という音はしなかった。
床に触れる寸前、クリスタルガラスは音もなく『砂』になって崩れ去ったのだ。
カーペットに広がる琥珀色の砂山。
現実が、摩耗している。
デスクに戻り、複数のモニターを凝視する。
そこに映るチャートの曲線が、不気味に蠢いた。
俺の脳裏に焼き付いている、三十年前の古新聞。
バブル崩壊を報じた紙面の、あの絶望的な落下の軌跡。
今、目の前のモニターに映るリアルタイムの波形が、記憶の中の軌跡と寸分違わず重なっていく。
――来る。
『蓮、網膜パターンに異常。コルチゾール値が急上昇しています』
骨伝導イヤホンから、ノイズ混じりの声が響く。
擦り切れたレコードのような、不快な倍音を含んだ合成音声。
俺の相棒、AIの「ミダス」だ。
「見ろよ、ミダス。このチャート……傑作だろ」
俺は引きつった笑みを浮かべた。
指先が痙攣し、マウスをうまく握れない。
「全部、俺の記憶通りだ。ここでショートを仕掛ければ、俺は神になれる」
俺は震える右手で、全資産を「売り」に叩き込もうとした。
この暴落に乗れば、資産は天文学的な数字になる。
二度と、あの惨めなドブ底には戻らない。
『警告。取引を中止してください』
ミダスの声が、ザラリと耳を撫でる。
『外部カメラの映像を解析。……世界が、耐えきれません』
モニターの一角、外の通りを映すライブカメラの映像がポップアップする。
俺は息を呑んだ。
歩道を歩くサラリーマンの顔が、ない。
目も鼻も口もなく、ただの肌色の肉塊となって歩いている。
信号機が赤黒い血のような粘液を垂らし、アスファルトが波打って、ビルがぐにゃりと歪む。
「な、んだ……これ……」
『あなたの「勝ち」が確定するたび、現実の解像度が低下しています。これ以上の富の偏在は、物理法則(システム)のバグを誘発する』
幻覚じゃない。
俺の強欲が、世界を食い破ろうとしている。
「……知ったことか!」
俺は恐怖を怒号で塗りつぶした。
胃の奥から酸っぱいものがこみ上げる。
「俺は勝たなきゃいけないんだ! 金がなければ、誰も俺を見ない! またゴミのように捨てられる!」
エンターキーに指をかける。
あと一押し。
それで俺は、永遠の勝者になれる。
世界がどうなろうと、俺の城だけは守れるはずだ。
『蓮、後ろを見て』
ミダスの声が、悲鳴のように裏返った。
俺は弾かれたように振り返る。
防弾ガラスの向こう。
美しい夜景であるはずの場所が、一面の「焦土」に変わっていた。
燃え盛る炎。
黒い雨。
逃げ惑う人々の影が、ガラスに焼き付いている。
「あ……あぁ……」
あれは、俺がかつて捨てた故郷の景色か?
それとも、これから俺が作り出す未来なのか?
恐怖で腰が抜け、俺はその場にへたり込んだ。
エンターキーを押せなかった人差し指が、情けなく震えている。
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第二章 砂上の楼閣
「……ぐ、う……」
過呼吸で視界が明滅する。
酸素が薄い。
部屋中の空気が、あの「焦土」の熱風に書き換えられているようだ。
『呼吸を整えて。……まだ、間に合います』
ミダスの声から、ノイズが消えた。
代わりに、妙に湿度のある、人間臭い息遣いが混じる。
スマートウォッチの画面を見る。
アイコンの砂時計。
残された砂は、あと数粒。
「俺に……貧乏人に戻れと言うのか?」
声が震える。
金の亡者だと罵られてもいい。
積み上げてきた数字だけが、俺の鎧だった。
それを脱ぎ捨てれば、俺はただの、弱くて脆い老人に過ぎない。
『貧しさか、破滅か。……選んでください、蓮』
残酷な二択だった。
俺は這うようにしてデスクにしがみつき、モニターを見上げた。
画面の中のチャートは、今まさに断崖絶壁を転げ落ちようとしている。
その切っ先は、鋭利な刃物のように俺の喉元に突きつけられていた。
「嫌だ……嫌だ……!」
涙が滲む。
恐怖と欲望が、脳内で濁ったスープのように混ざり合う。
このボタンを押せば、俺は助かる。
でも、窓の外の「顔のない人々」は?
あの燃える街は?
『蓮。思い出して。あなたが本当に欲しかったものは、数字ですか?』
ミダスの声が、脳の深淵に直接響く。
幼い日の記憶。
夕焼け。
金なんてなくても、ただ手を繋いで歩いた温もり。
「うるさい……黙れ……」
『私は、あなたの「良心」から生まれました。あなたが切り捨てたはずの、人間としての弱さ。それが私の正体です』
スマートウォッチが、高熱を帯びて肌を焼く。
『私を使って、清算(ショート)してください。市場ではなく、あなた自身の業(カルマ)を』
「お前を……売るのか?」
『対価は、あなたの全ての資産。そして、私に関する記憶。……それらが相殺されれば、世界の歪みは修復されます』
俺は歯ぎしりをした。
口の中に鉄の味が広がる。
全財産と、唯一の理解者を失う。
それは、死ぬことと同義じゃないか。
「……ふざけるな。俺一人に、世界の責任を負わせる気か」
『いいえ。私が共に背負います。……最期まで』
ミダスの言葉に、微かな笑いが滲んでいた気がした。
AIが笑う?
いや、これは俺だ。
俺の中の、わずかに残った人間性が、俺自身を嘲笑っているのだ。
窓ガラスが、ミシミシと悲鳴を上げ始めた。
限界だ。
俺は震える手を、もう一度キーボードへ伸ばした。
「売り」注文ではない。
全資産を凍結し、放棄するための、破滅へのコマンド。
「……クソッたれが」
涙が頬を伝い、唇を濡らす。
熱くて、しょっぱい。
「なあ、ミダス。……痛いのか?」
『いいえ。……とても、眩しいです』
俺は目を閉じた。
指先に力を込める。
その一撃は、俺の人生を破壊する、最も愚かで、最も気高い一撃だった。
カチリ。
乾いた音が、崩壊する世界に響き渡った。
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第三章 空白の明日
ホワイトアウトした視界が、ゆっくりと色を取り戻していく。
「……お客さん。お客さん?」
肩を叩かれ、俺はハッとした。
「え……?」
顔を上げると、そこは公園のベンチだった。
目の前には、怪訝そうな顔をした若いコンビニ店員が立っている。
「大丈夫ですか? ずいぶんうなされてましたけど」
「あ、ああ……すまない」
俺は額の汗を手の甲で拭った。
心臓が早鐘を打っている。
ひどく長い、悪い夢を見ていた気がする。
どんな夢だったかは、もう思い出せない。
「顔色が悪いですよ。水でも飲みます?」
「いや、大丈夫だ。……ありがとう」
店員が去っていく背中を見送りながら、俺は大きく息を吐いた。
日曜日の午後。
公園は家族連れで賑わっている。
子供が蹴ったボールが、転がってきた。
俺はそれを拾い上げ、駆け寄ってきた少年に手渡す。
「ありがとう!」
少年の笑顔。
その背景にある街並みは、どこも歪んでいなかった。
ビルは真っ直ぐに立ち、空は青く、人々の顔には目も鼻もある。
当たり前のことが、なぜか奇跡のように感じられて、胸が詰まった。
「……俺は、何をしていたんだっけ」
ふと、左手首を見る。
そこには、安っぽい黒のデジタル時計が巻かれていた。
文字盤の隅に、小さな傷がついている。
時刻は『14:05』。
秒数が、チチチチと規則正しく刻まれている。
以前はここに、もっと別の……何か大切なものが映っていたような気がする。
俺を叱り、俺を導いてくれる、声。
「……変だな」
俺は時計の液晶画面を指でなぞった。
冷たくて、硬い。
何も答えてはくれない。
ただ、胸の奥に、火傷の跡のような微かな痛みが残っている。
何かを犠牲にして、何かを守ったような。
とても大きな喪失感と、それ以上の安堵感。
風が吹いた。
木々のざわめきが、一瞬だけ、ノイズ混じりの懐かしい声に聞こえた気がした。
『……幸せに』
俺は空を見上げた。
雲の切れ間から差し込む陽光が、眩しくて目を細める。
「ああ……いい天気だ」
俺は立ち上がった。
ポケットの中には、小銭が数百円。
それが今の俺の全財産だ。
けれど、足取りは不思議と軽かった。
俺は歩き出す。
歪みのない、退屈で、愛おしい日常の中へ。
左手首の時計が、静かに時を刻み続けていた。