第一章 残高ゼロの絶対王者
玉座の間の冷気が、骨の髄まで染み込んでくる。
かつて人間界を恐怖で塗り潰したビロードのマントは、今や虫食いだらけの古布だ。
床を指でなぞる。
埃ひとつない。
金目のものはシャンデリアの破片に至るまで売り払い、もはや塵すら残っていないからだ。
「……腹が、減ったな」
魔王ヴァルゼイドの呟きは、誰に届くこともなく虚空へ消えた。
魔力の源泉である「畏怖」が底をついて久しい。
平和ボケした人間たちは、もはや闇夜も雷鳴も恐れない。
このまま餓死するか、あるいは存在が希釈されて消滅するか。
二つに一つの未来しか見えなかった。
「魔王様、今月の収支です」
側近のゴブリンが、ひび割れたタブレットを差し出す。
赤い折れ線グラフが、断崖絶壁のように垂直落下していた。
「『恐怖ポイント』の未回収分が累積し、生命維持ラインを割り込みました。これ以上は……」
ヴァルゼイドは乾いた唇を舐め、懐から黒曜石を取り出した。
『魔王石』。
かつては絶望を集める器だったが、今はただの黒い石塊だ。
「恐怖という感情は、鮮度が落ちるのが早い」
ヴァルゼイドは石を握りしめる。
指の関節が白く浮き出るほどに。
「だが、人間にはもっと根深く、持続性のある欲望があるはずだ」
端末の画面をタップする。
煌びやかなSNSのタイムライン。
そこには、承認を求め、何かに縋りつこうとする無数の魂が蠢いていた。
「『信仰』だ」
ヴァルゼイドの瞳に、久しく忘れていた捕食者の光が宿る。
「私の魔力(存在)を切り売りして、奴らに分け与えてやる。心地よい微熱のような『加護』をな。奴らを依存させろ。恐怖ではなく、狂信的な『推し』の感情を搾り取る」
「は……? 推し、でございますか?」
「そうだ。魔王軍公式サブスクリプション『魔王LIFE』。これより、魂の徴収を開始する」
第二章 バズりと勇者の相関関係
『【初配信】魔王だけど質問ある?』
『四天王のモーニングルーティン(炎上覚悟)』
『聖女をナンパしてみた結果www』
配信開始から三ヶ月。
世界は紫色の熱狂に包まれていた。
端末越しに魔王と目が合うたび、視聴者の脳髄には甘美な魔力が注入される。
それは麻薬的な多幸感となり、彼らを画面の前から離れられなくした。
「ああ、魔王様……今日も尊い……」
「スパチャ(寿命)投げます!」
「もっと私を見て! 加護をください!」
サーバー室と化した地下牢獄で、無数の魔王石が脈打つように明滅している。
膨れ上がる「依存」のエネルギー。
ヴァルゼイドの枯れ木のような肌には潤いが戻り、漆黒の角は宝石のような艶を帯びていた。
「素晴らしい。恐怖よりも濃密で、粘着質な魂の味だ」
ヴァルゼイドが愉悦に浸りながらコメント欄を眺めていた、その時。
轟音と共に、城壁が粉々に吹き飛んだ。
ズガァァァァァン!!
粉塵を切り裂き、銀色の影が走る。
速い。
「魔王ヴァルゼイド! 世界の調和を乱す悪よ、滅びろ!」
またか。
今月ですでに七人目だ。
「しつこいぞ! 私は街一つ焼いていない! むしろ昨日は迷子の仔猫を助ける配信をしたばかりだぞ!?」
ヴァルゼイドは舌打ちし、黒炎の剣を生成する。
しかし、違和感があった。
サブスク会員が増え、世界が魔王に好意的になればなるほど、襲来する勇者のレベルが跳ね上がっている。
眼前の勇者は、片手でやすやすと魔王の黒炎を弾いた。
強すぎる。
過去のどの勇者よりも。
「くっ、配信を切れ! 戦闘シーンは規約違反でBANされる!」
「間に合いません! 同接数が急増しています!」
ヴァルゼイドはマントを翻し、勇者の剣撃を紙一重でかわす。
(おかしい……)
剣を交えるたび、勇者の動きから「人間らしさ」が感じられない。
まるで、プログラムされた殺戮機械だ。
この世界で、一体何が起きている?
第三章 エンドロールは流れない
城の最上階。
瓦礫の山となった玉座の前で、ヴァルゼイドは膝をついた。
切っ先が、喉元に突きつけられる。
皮膚が裂け、一筋の血が流れた。
「終わりだ、魔王」
勇者が剣を振り上げる。
その時、ヴァルゼイドは見た。
勇者の瞳を。
そこには憎しみも、正義感すらもなかった。
あるのは、空虚な「穴」だ。
焦点の合わない瞳から、生理現象のように涙だけが流れている。
剣を握る手は、意思に反して痙攣していた。
(こいつは……被害者か)
ヴァルゼイドの脳裏で、すべてが繋がる。
魔王石に流れ込む莫大なエネルギー。
その裏に含まれる、視聴者たちの無意識の渇望。
『平和な配信なんて飽きた』
『もっと過激な展開が見たい』
『感動の最終回(フィナーレ)を』
その集合的無意識が、システムとしてこの「舞台装置(勇者)」を生成し、無理やり魔王を殺させようとしているのだ。
世界という巨大なコンテンツが、演者の死を求めている。
(ふざけるな。私は消費材ではない)
死の直前、ヴァルゼイドは嗤った。
プロデューサーとしての、冷徹な計算が脳内を駆け巡る。
「……なぁ、勇者よ」
切っ先が止まる。
システムが一瞬、バグったような挙動を見せた。
「私を殺してハッピーエンド。それで、視聴者が満足すると思うか?」
「……なに、を」
「お前が剣を振り下ろした瞬間、この物語(コンテンツ)は終わる。画面は暗転し、視聴者は次の娯楽へ去るだろう。お前は用済みとなり、誰の記憶にも残らず消滅する」
ヴァルゼイドはゆっくりと、喉元の剣を指先で押しのけた。
極限の賭けだ。
「殺し合い(ドラマ)が見たいなら、見せてやればいい。だが、終わらせる必要はない」
「……」
「私と組め。最高の『敵役』として、お前を輝かせてやる。永遠に続く、終わらない闘争という名のエンターテインメントをな」
勇者の瞳の奥で、システムのエラー音が聞こえた気がした。
やがて、剣がゆっくりと降ろされる。
「……そのプラン、詳しく聞かせろ」
ヴァルゼイドは口角を吊り上げた。
それはかつての支配者の顔ではなく、悪徳実業家の顔だった。
*
「はい、カーット! 勇者ちゃん、今の必殺技エフェクト最高だったよ!」
「ありがとうございます! 魔王P!」
スタジオへと改装された大広間。
カメラの赤いランプが消えると、勇者は泥のようにソファへ倒れ込んだ。
連日の撮影とライブ配信。
休みはない。
モニターには、過去最高益を叩き出した『勇者vs魔王:涙の休戦スペシャル』のアーカイブが流れている。
魔王石は爆発しそうなほどのエネルギーを吸い上げ、ヴァルゼイドの身体を満たしていた。
彼は、マグカップのコーヒーを煽った。
苦い。
舌が痺れるほどに。
画面の向こうには、笑顔のヴァルゼイドと勇者が映っている。
コメント欄は称賛の嵐だ。
だが、ヴァルゼイドは知っている。
この笑顔を一度でも崩せば。
あるいは、視聴者を「退屈」させたその瞬間に。
世界は再び、彼らを処刑しようとするだろう。
「次は『四天王アイドル化計画』だ。脚本(シナリオ)を修正するぞ」
ヴァルゼイドは、充血した目で台本に向かう。
震える手でペンを走らせるその背中からは、もはや魔王の威厳は消え失せていた。
そこには、終わることのない狂騒に囚われた、哀れな奴隷の姿だけがあった。