私の心臓は、姉を食い殺して動いている。

私の心臓は、姉を食い殺して動いている。

主な登場人物

灰崎 久遠 (Haizaki Kuon)
灰崎 久遠 (Haizaki Kuon)
28歳 / 男性
常に喪服のような黒いシャツ。病的に白く細い指先には常に青いインクのシミが落ちない。色素の薄い瞳は常に虚空を見ている。
凪 藍 (Nagi Ai)
凪 藍 (Nagi Ai)
17歳 / 女性
透き通るような肌に、強い意志を宿した大きな瞳。制服のリボンは常に歪んでいる。姉の形見である赤いマフラーを夏でも手放さない。
九条 蓮 (Kujo Ren)
九条 蓮 (Kujo Ren)
42歳 / 男性
くたびれたトレンチコート、無精髭。タバコの匂いと安コーヒーの匂いを纏う。眼光だけが異様に鋭い。
3 3924 文字 読了目安: 約8分
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第1章: 死への勧誘

重厚なオーク材の机。深夜の静寂を支配するのは、万年筆が紙を削る音のみ。

男は、喪服を思わせる漆黒の開襟シャツを纏う。袖口から伸びる指は陶器のように白く、爪の間には青墨(せいぼく)のシミ。呪いのようにこびりつき、何度洗っても落ちぬ「業」の証だ。色素の薄い、硝子玉のような瞳。書斎の薄暗がりで虚空を射抜く男の名は、灰崎久遠。かつての文学の麒麟児にして、今は死にたがりの亡者のため「最期の言葉」を装飾する遺書代筆業の主。

「……誰ですか」

視線は上げない。扉が開く音などなかった。だが、背後に立つ確かな熱量。鉄錆めいた殺意。

「私の言葉で、私を美しく殺して」

鈴を転がすような、しかし氷点下の響き。久遠がゆっくりと回転椅子を回すと、そこに「死者」が立っていた。

一週間前、廃ビルから飛び降り頭蓋を砕いたはずの少女、真白。いや、違う。

その少女は、真白の遺品であるボルドー色のマフラーをきつく締め、制服のリボンを無造作に歪ませている。何より、大きな瞳に宿る光。それは死人の虚ろさではなく、飢えた獣の如き生気。

少女――凪藍(なぎ あい)は、震える手で銀色のバタフライナイフを久遠の喉元へ。

「あんたね。お姉ちゃんを殺したのは」

刃先が久遠の薄い皮膚を押し、赤い珠がひとつ、黒い襟元に吸い込まれる。久遠は眉一つ動かさず、青いインクで汚れた指先をナイフの峰へ。

「言葉は人を殺せますが、私は物理的な殺人は行いません。お引き取りを」

「黙れ!」

埃っぽい書斎の空気を切り裂く咆哮。彼女が叩きつけた、クシャクシャに丸められた便箋。白紙。ただ右下に、久遠の筆跡による『署名』のみ。

「お姉ちゃんが遺した、この『空白の遺書』。あんたが完成させなさい。……絶望も、未練も、私を置いていった理由も。その全てを吐き出させないと、あんたが言葉で人を追い詰めて殺した過去……警察に全部ぶちまける」

久遠の硝子のような瞳、初めての揺らぎ。光の屈折が変わる程度の、微かな動揺。

第2章: インクの滲み

窓を叩く雨音。通奏低音の如く。

久遠と藍は、真白が生前過ごした六畳一間にいた。遺書の「中身」を探るための、死者との対話。

主を失い、急速に彩度を落とした部屋。本棚に並ぶのは、背表紙が擦り切れるほど読み込まれた小説群。その全てが、灰崎久遠の著書。

「……気持ち悪い」

藍の吐き捨てるような声。姉のベッドに座り込み、赤いマフラーに顔を埋める少女。

「お姉ちゃん、あんたの信者だったのよ。あんたの書く、冷たくて救いのない文章だけが世界の真理だなんて言って」

無言のまま、久遠は机の引き出しから一冊のノートを取り上げる。ページを捲るたび、鼻腔を突くカビと古紙の匂い。そこには、真白の繊細な筆跡で、久遠の小説の一節が延々と書き写されていた。

『愛とは、自己の消滅である。他者のために呼吸し、他者のために鼓動を止めるとき、人間は初めて完成する』

久遠の指が止まる。二十歳の頃、若気の至りとシニシズムで書き殴ったエッセイの一節。

「……彼女は、これを」

「毎日ね。聖書みたいに暗唱してた」

顔を上げる藍。蝋のように白い肌、血を塗ったように赤い唇。胸元を強く、服の上から鷲掴みにする手。荒い呼吸。心臓の疾患。だがその苦悶は、肉体の痛み以上の何かを訴えている。

「あんたの言葉が、お姉ちゃんを連れて行った。……なのに、どうして」

震える声。

「どうしてあんたは、そんなに悲しそうな手をしてるの」

ノートを握りしめすぎて白く変色した久遠の手。常に傍観者を気取り、感情を切り離してきた彼の中で軋む何か。

窓の外、街灯の下で雨に打たれるレインコートの男。刑事の九条。言葉という凶器の匂いを嗅ぎつけ徘徊する野犬。

「調査を続けます」

感情を殺した機械的な宣告。だが、青いインクの染みた指先は、微かに、しかし確実に震え続けていた。

第3章: 呪いと祈り

真実は、常に残酷な顔をして、最も無防備な瞬間に牙を剥く。

パソコンのログ解析。見つけ出したフォルダ『藍へ』。パスワードなどない。そこに在ったのは遺書ではない。精密検査データ、臓器提供意思表示カードのスキャン画像、そして一通の電子日記。

久遠の眼球が文字を滑る。胃の腑を満たす冷たい鉛。浅くなる呼吸。消える指先の感覚。

『藍の心臓はもう限界。ドナーは見つからない』

『私が死ねば、藍は助かる』

『でも、自殺だと保険が下りないかも。……事故に見せかけないと』

『灰崎久遠先生は言った。自己犠牲こそが愛の完成形だと。なら、私は完成しなくちゃいけない。藍の中で生き続けるために』

「…………あ、ぁ」

漏れ出る空気。喉の奥からせり上がる酸っぱいもの。

自殺ではない。自殺という名の「献身」。その引き金を引いたのは、若き日の久遠が無責任に放った「自己犠牲の美学」。

背後で開くドア。検診から戻った藍。

「何見てるの……?」

咄嗟にモニターを隠そうとする動作。遅い。藍の視線が釘付けになる。『ドナー適合通知』と『姉妹間移植』の文字。

凍りつく部屋。

開く瞳孔。自分の胸元――心臓がある場所へ伸びる手。ドクン、ドクン。今、肋骨の下で脈打つ臓器。それは、誰のものか。

「嘘……」

わななく唇。

「嘘よ……これ、お姉ちゃんの……?」

崩れ落ちる膝。床板の鈍い音。

「私が、お姉ちゃんを食い殺して生きてるって言うの……? 嘘よ!!」

動けぬ久遠。自分が殺した少女の心臓が、目の前の少女の中で動いている事実。鋭利な杭となって精神を串刺しにする衝撃。彼は今、地獄の底にいた。

第4章: 贖罪の反故

「う、おぇぇ……ッ!」

洗面所のシンク。吐き出される胃液。鏡に映る青白い顔。それは紛れもない、殺人者の相貌。

美学? 言葉の力?

笑わせるな。書いた戯言が一人の少女を殺し、もう一人に「姉を食らった」という永遠の呪いをかけたのだ。

「死ななければ」

引き出しから取り出したバタフライナイフ。蛍光灯を弾き鈍く光る銀色。

贖罪などできぬ。ただ、消えること。それだけが残された唯一の清掃作業。

切っ先を頸動脈へ。指に伝わる脈動。この汚れた血を流しきれば――。

「ふざけんなぁぁぁっ!!」

鼓膜を破る絶叫。吹き飛ばされる体。

床を滑るナイフの高い金属音。

胸倉を掴み、久遠を壁に押し付ける藍。瞳から溢れる大粒の涙。頬を伝い、久遠の黒いシャツに落ちる雫。

「逃げるな! 勝手に終わらせるな!!」

拳で叩かれる胸。ドン、ドン。その音は、彼女の心臓の音と重なった。

「あんたが書いた! お姉ちゃんを唆した! なら、責任を取れ!!」

「だから……死んで詫びを……」

「死んで済むわけないでしょぉぉぉ!!」

悲鳴に近い叫び。胸を爪が食い込むほど掴み、肉薄する少女。

「ここにあるのよ! お姉ちゃんの心臓が! 今も動いてるの! あんたが死んだら、お姉ちゃんの死は『無駄な自殺』になる。ただの狂った作家に唆された、馬鹿な死になる!!」

顔をぐしゃぐしゃに歪めた慟哭。なりふり構わぬ生の執着。

「生きてよ……! 生きて、言葉を書きなさいよ! お姉ちゃんの死を、最高に美しい物語に変える嘘を書きなさいよ!! 私が、一生この心臓と生きていけるような、最強の嘘を!!」

呆然と見上げる久遠。

死ぬことよりも、生きて嘘をつき続けることの方が遥かに苦しく、残酷。彼女はそれを強要している。姉の心臓と共に、地獄を歩めと。

「……あぁ」

久遠の瞳からこぼれ落ちる一筋の雫。青いインクではない、透明な涙。

彼は初めて、言葉の重さに、生の熱さに、焼かれた。

第5章: 生きるための嘘

夜明け前の青白い光。机上に散らばる原稿用紙を舐めるように照らす。

久遠は最後の一行を書き終え、万年筆を置いた。割れたペン先。それほどの力で削り出された魂。

出来上がったのは遺書ではない。

『誓約書』と題された物語。

真白が久遠の言葉に惑わされたことなど、一文字もない。彼女がいかに世界を愛し、妹の未来を夢見、病魔と闘い、そして「寿命」によって静かに息を引き取ったか。その生の尊厳。

事実など一つもない。だが、真実よりも切実な「祈り」だけで構成された、完璧な虚構。

背後に立つ藍。

立ち上がる久遠。インクで真っ青に染まった指で差し出す原稿。

「これが、真白さんの遺言です」

掠れた声。

「彼女は、あなたに生きてほしかった。ただそれだけが、世界の真実です。……それ以外は、全て私が創作した駄文に過ぎません」

原稿を受け取る手。震えている。彼女は知っている。これが嘘であることを。そして久遠が一生、この嘘という十字架を背負い、作家としての自分を殺し続けることを。

「……最低な嘘つき」

呟き。しかしその顔には、憑き物が落ちたような静けさ。原稿を胸に抱く藍。紙を通じ、指先に伝わる移植された心臓の鼓動。

「一生、騙し続けなさいよ。私が死ぬまで」

「ええ。約束します」

躊躇いながらも藍の手を握る久遠。冷たい藍の手を包み込む、青いインクで汚れた手。滲むインク。曖昧になる二人の境界線。

それは、共犯の証。

悲しみよりも重く、死よりも深い、生への契約。

「生きてくれ、藍」

不格好に、飾り気のない言葉。

窓の外、街を焼き尽くすような朝焼け。二人の長い、贖罪と生の物語。その一行目が、今まさに刻まれたところだ。

クライマックスの情景

AI物語分析

【物語の考察:言葉の凶器性と救済】

本作の核となるテーマは「言葉の二面性」である。主人公・久遠にとって、かつて言葉は「自己陶酔的な美学」であり、結果として他者を死へ追いやる凶器となった。しかし、クライマックスにおいて彼は、真実を隠蔽するための「嘘」という形で言葉を再構築する。ここでの嘘は、倫理的な悪ではなく、残された者が生きていくための唯一の「呼吸器」として機能している。言葉は人を殺すが、同時に人を(たとえ虚構の上であっても)生かすことができるというパラドックスが、この物語の骨子である。

【メタファーの解説:青いインクと心臓】

久遠の指にこびりついた「落ちない青墨」は、彼が背負う罪業(カルマ)の象徴である。どれほど洗っても落ちない汚れは、償いきれない過去の隠喩だ。対して、藍の中に宿る「姉の心臓」は、物理的な死と生の境界線そのものである。彼女が自分の胸を叩く音と、久遠の胸を叩く音がリンクする描写は、二人が「姉の死」という共通項によって運命共同体(共犯者)となったことを示唆している。ラストシーンでインクが藍の手に滲む描写は、久遠の罪(インク)と藍の命(心臓)が不可分に混ざり合い、共生していく未来を暗示している。

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