第1章: 死への勧誘
重厚なオーク材の机。深夜の静寂を支配するのは、万年筆が紙を削る音のみ。
男は、喪服を思わせる漆黒の開襟シャツを纏う。袖口から伸びる指は陶器のように白く、爪の間には青墨(せいぼく)のシミ。呪いのようにこびりつき、何度洗っても落ちぬ「業」の証だ。色素の薄い、硝子玉のような瞳。書斎の薄暗がりで虚空を射抜く男の名は、灰崎久遠。かつての文学の麒麟児にして、今は死にたがりの亡者のため「最期の言葉」を装飾する遺書代筆業の主。
「……誰ですか」
視線は上げない。扉が開く音などなかった。だが、背後に立つ確かな熱量。鉄錆めいた殺意。
「私の言葉で、私を美しく殺して」
鈴を転がすような、しかし氷点下の響き。久遠がゆっくりと回転椅子を回すと、そこに「死者」が立っていた。
一週間前、廃ビルから飛び降り頭蓋を砕いたはずの少女、真白。いや、違う。
その少女は、真白の遺品であるボルドー色のマフラーをきつく締め、制服のリボンを無造作に歪ませている。何より、大きな瞳に宿る光。それは死人の虚ろさではなく、飢えた獣の如き生気。
少女――凪藍(なぎ あい)は、震える手で銀色のバタフライナイフを久遠の喉元へ。
「あんたね。お姉ちゃんを殺したのは」
刃先が久遠の薄い皮膚を押し、赤い珠がひとつ、黒い襟元に吸い込まれる。久遠は眉一つ動かさず、青いインクで汚れた指先をナイフの峰へ。
「言葉は人を殺せますが、私は物理的な殺人は行いません。お引き取りを」
「黙れ!」
埃っぽい書斎の空気を切り裂く咆哮。彼女が叩きつけた、クシャクシャに丸められた便箋。白紙。ただ右下に、久遠の筆跡による『署名』のみ。
「お姉ちゃんが遺した、この『空白の遺書』。あんたが完成させなさい。……絶望も、未練も、私を置いていった理由も。その全てを吐き出させないと、あんたが言葉で人を追い詰めて殺した過去……警察に全部ぶちまける」
久遠の硝子のような瞳、初めての揺らぎ。光の屈折が変わる程度の、微かな動揺。
第2章: インクの滲み
窓を叩く雨音。通奏低音の如く。
久遠と藍は、真白が生前過ごした六畳一間にいた。遺書の「中身」を探るための、死者との対話。
主を失い、急速に彩度を落とした部屋。本棚に並ぶのは、背表紙が擦り切れるほど読み込まれた小説群。その全てが、灰崎久遠の著書。
「……気持ち悪い」
藍の吐き捨てるような声。姉のベッドに座り込み、赤いマフラーに顔を埋める少女。
「お姉ちゃん、あんたの信者だったのよ。あんたの書く、冷たくて救いのない文章だけが世界の真理だなんて言って」
無言のまま、久遠は机の引き出しから一冊のノートを取り上げる。ページを捲るたび、鼻腔を突くカビと古紙の匂い。そこには、真白の繊細な筆跡で、久遠の小説の一節が延々と書き写されていた。
『愛とは、自己の消滅である。他者のために呼吸し、他者のために鼓動を止めるとき、人間は初めて完成する』
久遠の指が止まる。二十歳の頃、若気の至りとシニシズムで書き殴ったエッセイの一節。
「……彼女は、これを」
「毎日ね。聖書みたいに暗唱してた」
顔を上げる藍。蝋のように白い肌、血を塗ったように赤い唇。胸元を強く、服の上から鷲掴みにする手。荒い呼吸。心臓の疾患。だがその苦悶は、肉体の痛み以上の何かを訴えている。
「あんたの言葉が、お姉ちゃんを連れて行った。……なのに、どうして」
震える声。
「どうしてあんたは、そんなに悲しそうな手をしてるの」
ノートを握りしめすぎて白く変色した久遠の手。常に傍観者を気取り、感情を切り離してきた彼の中で軋む何か。
窓の外、街灯の下で雨に打たれるレインコートの男。刑事の九条。言葉という凶器の匂いを嗅ぎつけ徘徊する野犬。
「調査を続けます」
感情を殺した機械的な宣告。だが、青いインクの染みた指先は、微かに、しかし確実に震え続けていた。
第3章: 呪いと祈り
真実は、常に残酷な顔をして、最も無防備な瞬間に牙を剥く。
パソコンのログ解析。見つけ出したフォルダ『藍へ』。パスワードなどない。そこに在ったのは遺書ではない。精密検査データ、臓器提供意思表示カードのスキャン画像、そして一通の電子日記。
久遠の眼球が文字を滑る。胃の腑を満たす冷たい鉛。浅くなる呼吸。消える指先の感覚。
『藍の心臓はもう限界。ドナーは見つからない』
『私が死ねば、藍は助かる』
『でも、自殺だと保険が下りないかも。……事故に見せかけないと』
『灰崎久遠先生は言った。自己犠牲こそが愛の完成形だと。なら、私は完成しなくちゃいけない。藍の中で生き続けるために』
「…………あ、ぁ」
漏れ出る空気。喉の奥からせり上がる酸っぱいもの。
自殺ではない。自殺という名の「献身」。その引き金を引いたのは、若き日の久遠が無責任に放った「自己犠牲の美学」。
背後で開くドア。検診から戻った藍。
「何見てるの……?」
咄嗟にモニターを隠そうとする動作。遅い。藍の視線が釘付けになる。『ドナー適合通知』と『姉妹間移植』の文字。
凍りつく部屋。
開く瞳孔。自分の胸元――心臓がある場所へ伸びる手。ドクン、ドクン。今、肋骨の下で脈打つ臓器。それは、誰のものか。
「嘘……」
わななく唇。
「嘘よ……これ、お姉ちゃんの……?」
崩れ落ちる膝。床板の鈍い音。
「私が、お姉ちゃんを食い殺して生きてるって言うの……? 嘘よ!!」
動けぬ久遠。自分が殺した少女の心臓が、目の前の少女の中で動いている事実。鋭利な杭となって精神を串刺しにする衝撃。彼は今、地獄の底にいた。
第4章: 贖罪の反故
「う、おぇぇ……ッ!」
洗面所のシンク。吐き出される胃液。鏡に映る青白い顔。それは紛れもない、殺人者の相貌。
美学? 言葉の力?
笑わせるな。書いた戯言が一人の少女を殺し、もう一人に「姉を食らった」という永遠の呪いをかけたのだ。
「死ななければ」
引き出しから取り出したバタフライナイフ。蛍光灯を弾き鈍く光る銀色。
贖罪などできぬ。ただ、消えること。それだけが残された唯一の清掃作業。
切っ先を頸動脈へ。指に伝わる脈動。この汚れた血を流しきれば――。
「ふざけんなぁぁぁっ!!」
鼓膜を破る絶叫。吹き飛ばされる体。
床を滑るナイフの高い金属音。
胸倉を掴み、久遠を壁に押し付ける藍。瞳から溢れる大粒の涙。頬を伝い、久遠の黒いシャツに落ちる雫。
「逃げるな! 勝手に終わらせるな!!」
拳で叩かれる胸。ドン、ドン。その音は、彼女の心臓の音と重なった。
「あんたが書いた! お姉ちゃんを唆した! なら、責任を取れ!!」
「だから……死んで詫びを……」
「死んで済むわけないでしょぉぉぉ!!」
悲鳴に近い叫び。胸を爪が食い込むほど掴み、肉薄する少女。
「ここにあるのよ! お姉ちゃんの心臓が! 今も動いてるの! あんたが死んだら、お姉ちゃんの死は『無駄な自殺』になる。ただの狂った作家に唆された、馬鹿な死になる!!」
顔をぐしゃぐしゃに歪めた慟哭。なりふり構わぬ生の執着。
「生きてよ……! 生きて、言葉を書きなさいよ! お姉ちゃんの死を、最高に美しい物語に変える嘘を書きなさいよ!! 私が、一生この心臓と生きていけるような、最強の嘘を!!」
呆然と見上げる久遠。
死ぬことよりも、生きて嘘をつき続けることの方が遥かに苦しく、残酷。彼女はそれを強要している。姉の心臓と共に、地獄を歩めと。
「……あぁ」
久遠の瞳からこぼれ落ちる一筋の雫。青いインクではない、透明な涙。
彼は初めて、言葉の重さに、生の熱さに、焼かれた。
第5章: 生きるための嘘
夜明け前の青白い光。机上に散らばる原稿用紙を舐めるように照らす。
久遠は最後の一行を書き終え、万年筆を置いた。割れたペン先。それほどの力で削り出された魂。
出来上がったのは遺書ではない。
『誓約書』と題された物語。
真白が久遠の言葉に惑わされたことなど、一文字もない。彼女がいかに世界を愛し、妹の未来を夢見、病魔と闘い、そして「寿命」によって静かに息を引き取ったか。その生の尊厳。
事実など一つもない。だが、真実よりも切実な「祈り」だけで構成された、完璧な虚構。
背後に立つ藍。
立ち上がる久遠。インクで真っ青に染まった指で差し出す原稿。
「これが、真白さんの遺言です」
掠れた声。
「彼女は、あなたに生きてほしかった。ただそれだけが、世界の真実です。……それ以外は、全て私が創作した駄文に過ぎません」
原稿を受け取る手。震えている。彼女は知っている。これが嘘であることを。そして久遠が一生、この嘘という十字架を背負い、作家としての自分を殺し続けることを。
「……最低な嘘つき」
呟き。しかしその顔には、憑き物が落ちたような静けさ。原稿を胸に抱く藍。紙を通じ、指先に伝わる移植された心臓の鼓動。
「一生、騙し続けなさいよ。私が死ぬまで」
「ええ。約束します」
躊躇いながらも藍の手を握る久遠。冷たい藍の手を包み込む、青いインクで汚れた手。滲むインク。曖昧になる二人の境界線。
それは、共犯の証。
悲しみよりも重く、死よりも深い、生への契約。
「生きてくれ、藍」
不格好に、飾り気のない言葉。
窓の外、街を焼き尽くすような朝焼け。二人の長い、贖罪と生の物語。その一行目が、今まさに刻まれたところだ。