幸福な忘却の檻

幸福な忘却の檻

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第一章 無色のノイズ

サーバー室の重苦しい静寂を、冷却ファンの低い唸りが支配している。

ここ「ムネモシュネ・コーポレーション」の最深部で、エナはまた一つの人生を編集していた。

モニターに映し出されているのは、ある富裕層の老婦人が注文した「理想的な初恋」の記憶だ。夕陽に染まる教室、微かな石鹸の香り、交わされる約束。あまりに完璧で、あまりに美しい。だが、エナの指先はキーボードの上で躊躇いがちに止まった。

――まただ。

色彩豊かな記憶の映像に、灰色のノイズが走る。

その歪みの中に、一人の少年が立っていた。年齢は十歳ほどだろうか。彼は楽しげな初恋の光景には似つかわしくない、底知れぬ悲哀を湛えた瞳で、画面の向こうのエナを見つめ返している。

「……君は、誰なの」

エナの呟きは、無機質な部屋に吸い込まれて消えた。

この世界では、記憶こそが通貨であり、ステータスだ。人々は苦痛を伴う「真実」を売却し、煌びやかな「虚構」をサブスクリプションで購入する。不幸な記憶を持つ者は社会不適合者として排除され、幸福な記憶を持つ者だけが人間として扱われる。

エナは胸元から、一本の無機質なスティックを取り出した。無色のメモリースティック。幼い頃に亡くなった父が遺した唯一の形見であり、今のエナには欠かせないお守りだ。

彼女は震える手でそれをコンソールに差し込む。すると、モニターのノイズが鮮明な輪郭を結んだ。

少年の唇が動く。音はない。だが、エナの脳内に直接、焦燥感に満ちた叫びが響いた気がした。

『見てはいけない』と。

第二章 侵食する真実

その日以来、ノイズの出現頻度は劇的に増した。

顧客からはクレームが殺到していた。「私の完璧な過去に、あんな汚らわしい子供を映り込ませるな」と。上層部はエナに、ノイズの完全除去と原因の究明を厳命した。

エナは焦っていた。彼女自身の過去もまた、空白だらけだったからだ。両親の顔も、愛された記憶もない。あるのは、父が遺したスティックと、胸に空いた巨大な空洞だけ。他人の記憶を修復することで、自らの空虚さを埋めようとしてきたが、その代償は確実に彼女の精神を蝕んでいた。

深夜、誰もいないラボで、エナは禁忌を犯す決意をした。

顧客の記憶からノイズとして抽出されたデータの集合体。それを父のスティックを介して解析し、強制的に復元するのだ。

「排除しろと言うけれど……これは、私の記憶なんでしょう?」

エンターキーを叩く音が、銃声のように響く。

瞬間、視界がホワイトアウトした。

甘美な記憶のサブスクリプションが強制解除され、生々しい「真実」が奔流となってエナの脳髄に雪崩れ込む。

鉄の錆びた臭い。

鳴り止まない警報音。

そして、目の前に立つ少年の姿が、大人の男性へと変貌していく。白衣を着たその男は、紛れもなくエナの父親だった。

父は泣いていた。世界の終わりを嘆くように、絶望的な顔で何かを記録している。

『これは過去ではない』

父の声が、直接脳に焼き付けられる。

『エナ、これはこれから起こる未来だ。そして、お前が背負うべき宿命だ』

第三章 絶望のパラドックス

呼吸ができない。心臓が早鐘を打つ。

流れ込んできたのは、人類が滅亡する光景だった。

空は黒煙に覆われ、都市は瓦礫の山と化している。だが、その原因は戦争でも疫病でもない。

人々が自ら命を絶ち、あるいは暴徒化して文明を破壊していたのだ。

なぜ?

その答えが、父の記録の中にあった。

かつて天才科学者だった父は、タイムマシンの原理を応用し、未来の悲劇を「記憶」として現代に転送するシステムを開発した。それがこの記憶サブスクリプションの原型だ。

父は信じていた。未来の破滅的な結末を「予知夢」のような記憶として人々に共有すれば、人類はそれを回避するために行動を変えるだろうと。

だが、それは致命的な誤算だった。

真実の未来――「回避不可能に近い絶望的な破滅」を知った人々は、希望を失い、狂乱し、結果としてその絶望こそが、滅亡のトリガーとなってしまったのだ。

「嘘……そんなの……」

エナは床に崩れ落ちた。

父は悟ったのだ。真実を知らせることが救済ではないことを。

だからこそ、父はシステムを書き換えた。未来の悲劇の記憶を「ノイズ」として隠蔽し、代わりに甘美な偽りの記憶を人々に与え続けた。人々が現実から目を背け、偽りの幸福に浸っている限り、絶望による暴走は起きず、世界は延命される。

そして、その膨大な「破滅の記憶」の保管場所として選ばれたのが、他ならぬ娘、エナの脳内だった。

彼女が記憶を失っていたのではない。彼女の脳の容量の全てを使って、世界を壊すほどの猛毒を封じ込めていたのだ。

あの少年は、父の良心の欠片であり、エナに「真実を開くな」と警告し続けていた守護者だった。

第四章 永遠の解約

アラートが鳴り響く。システムが、エナが開いた「パンドラの箱」を検知し、緊急遮断をしようとしている。

今、ここでエナが真実を世界中にブロードキャストすれば、人々は偽りの夢から覚めるだろう。

だがその先にあるのは、自由ではなく、確実な破滅だ。

エナは震える手で、父のメモリースティックを握りしめた。

熱い。まるで父の体温が残っているかのように。

(私が知ってしまった以上、もう元には戻れない)

真実を知った自分が存在し続ける限り、いつか必ずこの情報は漏れ出す。

選択肢は二つ。

世界に絶望を告げて共に滅びるか。

それとも、自分ごとこの記憶を永遠の闇に葬るか。

エナは涙を拭い、静かに微笑んだ。それは、あの作り物の記憶の中にいた誰よりも、悲しく、そして美しい笑顔だった。

「さようなら、お父さん。あなたの愛を、私が引き継ぐわ」

彼女はコンソールに新たなコマンドを打ち込む。それは、全人類の記憶サーバーに対する管理者権限でのアクセス。そして、自身の脳内にある「真実の記憶」領域の完全凍結コード。

ターゲットは、エナ自身。

『警告:この操作を実行すると、ユーザーの人格データおよび生命維持に深刻な影響を及ぼす可能性があります。』

無機質な警告を無視し、エナはスティックを引き抜いた。

それは「解約」の合図。

世界という巨大なサブスクリプション・サービスから、唯一真実を知る自分自身をログアウトさせる行為。

「世界よ、どうかそのままで。幸せな嘘の中で、おやすみなさい」

エンターキーが押される。

光が溢れ、エナの意識は急速に遠のいていく。

最後に見たのは、モニターの中で微笑む少年の姿だった。もう、彼は泣いていなかった。

翌朝、ムネモシュネ・コーポレーションのトップエンジニアが、自席で冷たくなっているのが発見された。

死因は不明。ただ、その表情は安らかで、まるで最高級の「幸福な記憶」を見ているかのようだったという。

街では今日も、人々が新しい記憶を求めて列をなしている。

誰も知らない。

この穏やかな日常が、一人の少女の魂と引き換えに守られた、脆く儚い砂上の楼閣であることを。

空はどこまでも青く、恐ろしいほどに澄み渡っていた。

AIによる物語の考察

主人公エナは、自らの空白を他者の「理想的な初恋」で埋める虚ろな存在から、人類の宿命を一身に背負う覚悟を定めたヒロインへと昇華します。彼女の選択は単なる成長を超え、父から受け継いだ「絶望を知る者としての責任」を全うする自己犠牲の愛の表明と言えるでしょう。父は、人類を救済しようとした科学者から、結果的に娘に過酷な宿命を託す罪深き愛の体現者へと変貌します。彼が創造した「少年」のノイズは、真実を隠蔽せざるを得なかった父の良心であり、同時にエナへの切なる警告でした。少年は、物語の当初は不気味な「ノイズ」としてエナに真実を警告し、最後には彼女の究極の選択を静かに受け入れる守護者へと変容します。彼の微笑みは、エナの選択が父の願いを成就させたことを示唆しているかのようです。

「幸福な忘却の檻」の世界は、記憶が通貨でありステータスとなる極めてユニークなディストピアです。人々は「苦痛な真実」を売り払い、「煌びやかな虚構」をサブスクリプションとして享受することで社会が成り立っています。ムネモシュネ・コーポレーションは、単なる記憶編集企業ではなく、人類の滅亡を防ぐための「真実の隠蔽機関」という、極めて重い役割を担っていました。この「幸福な忘却」こそが、世界が延命するための唯一の手段という皮肉な構造が、物語の深淵を覗かせます。

この物語は、「真実が必ずしも幸福をもたらさない」という、根源的な問いを読者に突きつけます。父とエナの行動は、「愛と犠牲」という普遍的なテーマを象徴しており、愛する者を守るためには、時に偽りや自己犠牲が必要となるという、倫理的なジレンマを描いています。「アイデンティティと記憶」も重要なテーマです。エナは自らの記憶を取り戻すことで、自らの存在意義と人類の運命が不可分であることを悟ります。真実を葬り、世界を救う彼女の選択は、真の幸福とは何か、あるいは人類の生きる意味とは何かを深く考察させる、極めて示唆的な結末と言えるでしょう。
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