第一章 残業代の出ない異世界転移
チカ、チカ、と蛍光灯が瀕死の羽虫のように点滅している。
深夜二時五分。
オフィスの空気は、何日も放置された雑巾のように淀んでいた。
「……あと、三行」
乾いた打鍵音だけが響く。
天野定時(あまの ていじ)は、痙攣する瞼を指で押し留めた。
四十五歳の背骨は、軋むことすら忘れて硬直している。
デスクの端には、茶渋で模様が変わったマグカップ。
『定時帰り』というプリント文字が、憎たらしいほど陽気に笑っている。
十五年前の自分が買った、叶わぬ夢の遺物だ。
「これで……今月のノルマは、終わる」
エンターキーを叩く。
その指先の感触が、世界への別れの合図だった。
モニターが赤く発光する。
ブルーライトではない。警告色の赤だ。
《エラー:過重労働リミット、限界突破》
《適格者を選定。魂の摩耗度……Sランク》
《転送を開始します》
「は……?」
浮遊感。
次いで、内臓が裏返るような落下感。
腐った卵と鉄錆を混ぜたような異臭が鼻をつく。
「――おい。起きろ、新入り」
腹の底に響くダミ声。
定時は、冷たく湿った石畳の上で顔を上げた。
そこはオフィスではない。
松明が揺れる薄暗い石窟。
眼前に立っていたのは、身長二メートルを超える緑色の巨躯――オークだった。
「ひっ……!」
定時は反射的に後ずさり、背中を岩壁に打ち付けた。
夢か。過労死直前の走馬灯か。
「チッ、またハズレか。貧相なニンゲンだ」
オークが鼻息と共に侮蔑を吐き捨てる。
その瞬間。
定時の視界に、無機質なウィンドウがポップアップした。
**【対象:ダンジョン現場監督・オーク】**
**【疲労度:86(過労死ライン)】**
**【不満度:92(反乱寸前)】**
**【スキル:恫喝(Lv.1)、腰痛(Lv.MAX)】**
「……なんだ、この数値は」
文字情報だけではない。
オークの身体から立ち昇る「帰りたい」「膝が痛い」「上司を殴りたい」というドス黒い怨嗟が、情報の濁流となって定時の脳を焼く。
「……あんた、右膝を庇ってるな」
定時の口が、思考より先に動いた。
長年、理不尽な現場で培われた「悲しき修正本能」が作動する。
オークが片眉を跳ね上げた。
「あ?」
「立ち位置が悪い。その巨大な棍棒、重心が先端に寄りすぎだ。グリップの下から三割の位置に布を巻け。テコの原理で負荷が二割減る」
「はぁ? ニンゲン風情が何を――」
オークはいぶかしげに、しかし無意識に棍棒を持ち直した。
瞬間、その表情が凍りつく。
「……か、軽い」
**【不満度:92 → 88】**
数値が揺らいだ。
同時に、定時が握りしめていたボロボロのマグカップが、蛍のような淡い光を帯びる。
「おい、お前……何者だ?」
オークの眼から殺意が消え、困惑と微かな期待が宿る。
定時はネクタイを緩め、埃を払って立ち上がった。
「俺は天野定時。……状況を説明しろ。ただし、結論から先に言え。俺はまだ、昨日の日報を出していないんだ」
***
第二章 業務改善と胃痛の代償
「ここが、心臓部だ」
案内されたのは、巨大な地下空洞だった。
中央に、三階建てのビルほどもある赤黒い結晶体――『ディストピア・コア』が鎮座している。
ドクン、ドクン。
鼓動のたびに、コアが嫌な光を撒き散らす。
「ギャアアアアッ!」
遠くの通路で、冒険者らしき男が落とし穴に落ち、悲鳴を上げた。
その瞬間、コアがドス黒く輝き、脈動が強まる。
逆に、ボロボロになった冒険者パーティが命からがら出口へ逃げ込むのが見えた。
すると、コアの光はフッと弱まり、まるで餓えた獣のようにくすんだ色へ沈殿する。
(……なるほど。説明なんかいらないな)
定時は眉間を揉んだ。
構造は単純にして最悪だ。
冒険者を痛めつけ、恐怖させることでコアが輝く。
逆に、逃げられればエネルギー不足に陥る。
モンスターたちは、この「恐怖の生産」のために、二十四時間体制で稼働しているのだ。
広間を見渡す。
無数のゴブリンが、自分より大きな石材を引きずっている。
**【疲労度:99】**
**【絶望度:計測不能】**
彼らの目は死んでいる。
足の皮が剥け、血の足跡が続いているが、誰も気にも留めない。
その光景が、定時の脳裏にある記憶をフラッシュバックさせた。
『すいません、天野さん……もう、無理です』
かつての部下、佐藤。
深夜三時、コピー機の前で崩れ落ちた彼。
それを見下ろして、上司は言ったのだ。
『根性が足りないな。代わりはいくらでもいる』と。
定時は何も言えなかった。
ただ、震える手で佐藤の仕事を引き取ることしかできなかった。
あの無力感が、胃の腑を焼き尽くす。
(またか。ここでも、同じことを繰り返すのか)
ゴブリンの一人がつまずき、石材の下敷きになった。
鞭を持ったガーゴイルが、容赦なく振り上げる。
「――作業中止!!」
定時の怒号が、洞窟内に反響した。
ガーゴイルが動きを止める。
「誰だ貴様! ノルマが遅れているんだぞ!」
定時はツカツカと歩み寄り、ガーゴイルの手から鞭を奪い取った。
その目は、十五年間、理不尽に耐え抜いた社畜だけが持つ、静かで冷たい狂気を孕んでいた。
「黙って聞け。そのゴブリンの生産性は今、通常時の5%以下だ。そんなポンコツ状態で働かせても、ミスが増えるだけでコストの無駄だ」
「な、なんだと……?」
「シフト表を作成する。三交代制だ。それから、石材の運搬ルートがクソすぎる。あそこの壁をブチ抜いて動線を確保しろ。食事はカビたパン? ふざけるな! 魔獣の肉を支給しろ。食費はコストじゃない、設備投資だ!」
矢継ぎ早に指示を飛ばす。
定時の言葉が響くたび、マグカップの光が増幅していく。
**【幸福度:上昇中】**
**【エンゲージメント:覚醒】**
「う……うおおおお! なんか力が湧いてきたぞ!」
「マスター! この壁、オイラたちなら一撃で壊せます!」
ゴブリンたちが咆哮する。
適切な休息と栄養、そして「明確な指示」が、彼らの潜在能力を爆発させた。
作業効率が三倍、五倍へと跳ね上がる。
だが。
広間が活気に満ちるのと反比例して、中央のコアが激しく明滅し始めた。
《警告:負の感情供給量が低下》
《警告:エネルギー枯渇まで、残り僅か》
不穏なサイレンが鳴り響く。
定時は、冷や汗を拭いながら唇を噛んだ。
「やっぱり、ホワイト化すればするほど、この会社(ダンジョン)は死ぬってわけか」
***
第三章 ホワイト経営の矛盾
それから一ヶ月。
ダンジョンは劇的に変貌していた。
罠には「足元注意」の蛍光テープ。
モンスターたちはシフト制で働き、冒険者とは適度なプロレス(接待戦闘)で汗を流す。
冒険者は「程よいスリル」を楽しみ、リピーターとなって金を落としていく。
すべてが順調に見えた。
だが、抵抗勢力は内部にいた。
「バカな! こんなぬるま湯、断じて認めん!」
幹部会議の席で、机を叩き割ったのは古参幹部の『処刑鎌のベルフェゴール』だった。
骸骨の顔を持つ彼は、旧体制の象徴だ。
「我々の糧は、人間どもの恐怖と絶望! 奴らを生かして帰すなど言語道断! 即刻、全員殺すべきだ!」
ベルフェゴールの主張に、数名の幹部が頷く。
彼らの頭上には**【搾取欲:MAX】【変化への恐怖:大】**の文字が浮かんでいる。
楽をして他者を虐げたい、典型的な「腐った上層部」だ。
「殺して、どうするんです?」
定時は冷静にコーヒーを啜った。
「冒険者が全滅すれば、噂が広まり、誰も来なくなる。そうなれば供給はゼロだ。焼畑農業は経営じゃない、ただの自滅だ」
「黙れ新入り! 現に、コアの魔力は底をつきかけているではないか!」
ベルフェゴールが突きつけたデータは、残酷な真実を示していた。
**【魔力残量:3%】**
ホワイトな環境で誰もが幸せになれば、エネルギー源である「負の感情」は生まれない。
システムは非情な解決策を提示していた。
《回避策:従業員の40%を『恐怖の生贄』としてコアに捧げること》
「見たか! システムもこう言っている! 無能なゴブリンどもを間引き、その絶望をエネルギーに変えるのだ!」
ベルフェゴールが鎌を振り上げる。
怯える部下たち。
その光景は、リストラ対象者を会議室に追い込み、辞表を書かせたかつての人事部長と重なった。
定時は立ち上がった。
椅子の背に掛けていた、ヨレヨレのスーツジャケットを羽織る。
「……間引き、だと?」
「そうだ! 貴様のような青臭い人間に、ダンジョン運営など――」
「黙れ」
定時の声は低く、しかし部屋の空気を凍らせる圧があった。
「俺がいつ、退職届を受理した? 俺の部下である以上、勝手に死ぬことも、殺されることも許可しない。これは業務命令だ」
定時はマグカップを鷲掴みにした。
その瞳には、計算高い光が宿っていた。
「恐怖だけで飯が食える時代は終わったんだよ。……見せてやる。俺がブラック企業で学んだ『悪知恵』の真髄をな」
***
第四章 崩壊と覚醒
広間は崩壊寸前だった。
コアが赤黒い稲妻を撒き散らし、天井の岩が降り注ぐ。
「無駄だ! もう遅い!」
ベルフェゴールが叫ぶ中、定時はコアの制御パネル――空中に浮かぶホログラムの前に立った。
《警告:魔力枯渇。崩壊まであと60秒》
《負の感情(絶望・恐怖・苦痛)を投入してください》
「システム、定義を確認する。『負の感情』とは何か」
定時は早口で問うた。
指先は目に見えない速度で仮想キーボードを叩いている。
《回答:対象の魂に『重篤な負荷』をかけ、『消耗』させる精神エネルギー》
「よし、言質は取ったぞ」
定時はニヤリと笑った。
それは、監査の目を掻い潜り、決算書の数字をいじくり回していた頃の、悪徳経理のような笑みだった。
「いいか、よく聞けクソシステム。俺がいた世界ではな、『やりがい』という名の麻薬があった」
定時は叫びながら、コマンドラインを書き換えていく。
「人は、心から没頭し、仕事を愛した時、寝食を忘れて魂を削る! それは『絶望』よりも遥かに速く、激しく命を燃やす行為だ!」
かつてのブラック企業。
残業時間は「自己研鑽」として処理され、労働とはみなされなかった。
そのロジックを、今度は逆に利用する。
定時は、ダンジョン内に満ちている「充実感」「達成感」「仲間への信頼」というポジティブなデータを、強引にドラッグ&ドロップした。
「ソースコード書き換え! パラメータ変更! 『幸福』のラベルを剥がして、『高密度圧縮された自己犠牲』として計上しろ!!」
《エラー:属性が一致しません》
「うるさい! こいつらは、遊びたいのに働いているんじゃない! 働きたいから働いているんだ! その『熱狂』は、魂への負荷じゃないとでも言うつもりか!?」
定時の論理(へ理屈)に、システムが揺らぐ。
ブラック企業の社畜論理――「好きでやってるなら、それは労働ではなく趣味(だから金は払わない)」という最悪の論法を逆用し、「好きでやってるなら、それは絶望以上の魂の消耗だ」とシステムに誤認させる。
「皆、俺を見ろ! 明日もここで働きたいか!?」
定時が振り返り、叫んだ。
モンスターたちが一斉に拳を突き上げる。
「当たり前だ! 最高の職場だ!」
「俺たちは、死ぬまでここで働きたい!!」
その凄まじい熱量が、光の奔流となって押し寄せる。
**【エンゲージメント:∞】**
**【魂の燃焼率:限界突破】**
定時は、その膨大なデータを『絶望』のフォルダにねじ込んだ。
「これこそが、社畜の流儀(ロジック)だッ!! 食らえ、粉飾決算ビーム!!!」
定時は輝くマグカップをコアに叩きつけた。
《警告……警告……受諾。莫大なエネルギーを確認》
《属性:『超・高密度ストレス(幸福)』》
《出力を最大化します》
赤黒いコアが、一瞬で純白に染まる。
ベルフェゴールが腰を抜かし、口をあんぐりと開けた。
毒々しい鼓動が消え、代わりに聖歌のような和音が響き渡る。
ダンジョンの壁が黄金色に輝き、天井が光の粒子となって吹き飛んだ。
そこから放たれた光の柱は、次元の壁を突き破り、定時の故郷――日本の空へと突き刺さった。
***
最終章 定時で帰る楽園
東京、丸の内。
深夜のオフィスビル群を、謎の黄金の光が包み込んだ。
「……あれ?」
サービス残業をしていたサラリーマンの手が止まる。
頭を支配していた鉛のような倦怠感が消え、代わりに「家に帰ってビールが飲みたい」という、人間として当たり前の欲求が猛烈に湧き上がってきた。
「課長、帰ります」
「……ああ、俺も帰る」
その日、日本中のブラック企業から明かりが消えた。
「やりがい搾取」という名のエネルギー供給を断たれた悪徳企業は、次々と倒産するか、ホワイト化を余儀なくされた。
そして、ダンジョンがあった場所は、現実世界と融合した『魔界特区』となっていた。
一年後。
特区の最上階にある社長室。
「社長、ベルフェゴール部長から報告です。『今月の有給取得率、100%達成。クソ忌々しいほど健全だ』とのことです」
秘書となったダークエルフが、苦笑交じりに報告する。
あの頑固な骸骨も、今では「いかに効率よく休ませるか」に命を懸ける、優秀な労務管理部長になっていた。
「そうか。なら、ボーナスを弾んでやれ」
天野定時は、窓の外を見た。
夕焼けに染まる街で、人間とモンスターが肩を組んで居酒屋へ向かっている。
手元のマグカップから、温かい湯気が立っている。
そこにはもう、ヒビ一つない。
新品のように輝くカップには、『定時帰り』の文字が誇らしげに刻まれている。
定時は窓ガラスに映る自分の顔を見た。
目の下のクマは消え、顔色は驚くほど良い。
そして何より、かつて常に視界の端に見えていた【疲労度】や【ストレス値】の表示が、完全に消滅していることに気づいた。
「さて」
定時はジャケットを羽織り、カバンを手に取った。
時計の針は、午後五時五十九分を回っている。
「六時だ。帰ろう」
定時は軽やかな足取りで、オフィスの照明を落とした。
その背中は、かつてないほど自由だった。