【元原稿タイトル】: レガシー・エコー:歴史の残響を紡ぐ者
【物語】:
第一章 空白の断片
大学図書館の地下三層、禁書指定区域には、死体安置所にも似た特有の冷気がある。数万冊の紙束が吐き出す微細な塵と、酸化したインクの匂い。そこは、言葉たちの墓場だった。
久遠暦(くおん こよみ)は、その墓場を管理する墓守だ。
彼女は震える指先で、桐箱の蓋を押し上げた。防虫香の乾いた香りを押しのけ、鼻腔を刺したのは、濃厚な鉄錆の臭気――いや、それは凝固した古い血の匂いに酷似していた。
「これが、奈良の旧家から……」
独り言は、重苦しい静寂に瞬時に飲み込まれた。
箱の底に鎮座しているのは、青緑色の錆に侵食された青銅の破片。かつて鏡であったモノの残骸。縁は刃物のように鋭利で、触れる者を拒絶している。
暦は躊躇った。彼女の「特異体質」が、警告のサイレンを鳴らしている。
他人の書いた文字、触れたモノから、残留思念が泥のように流れ込んでくる感覚。それは共感などという生易しいものではない。他人の汚物が、自分の脳髄に直接注ぎ込まれる暴力的な侵犯だ。
だが、抗えない引力がそこにあった。彼女は白手袋を外し、素手でその破片に触れた。
刹那。
視界が裏返った。
図書館の蛍光灯が消え、網膜を焼いたのは、紅蓮の炎だった。
「が、あっ……!」
口の中に、じゃり、と砂と灰の味が広がった。
熱い。皮膚が爛れるほどの熱風。誰かの怒号。馬のいななき。肉が断ち切られる湿った音。
(逃げろ、逃げろ、逃げろ!)
知らない男の思考が、暦の自我を食い破って侵入してくる。恐怖ではない。これは、純粋な憤怒だ。自らの存在そのものが、歴史という巨大な臼ですり潰されようとしていることへの、魂の絶叫。
暦は床に崩れ落ち、胃液を吐いた。
喉が焼けるように痛い。自分の喉ではない。煙を吸いすぎた男の喉だ。右肩に走る激痛――矢を受けたのか? 幻痛だと分かっていても、暦は脂汗を流して右肩を押さえた。
「久遠さん、そこにいるのか?」
鉄の扉が開き、同僚の声が響いた。
途端に、炎の幻影は霧散した。だが、痛みは残響となって神経を蝕んでいる。
同僚の足音が近づく。彼の口調は心配そうだが、暦の脳裏には、彼が無意識に発している苛立ちの波形が伝わってきた。『またサボっているのか』『奇行癖のある女だ』という蔑みの色が、音もなく暦の肌に張り付く。
「……なんでも、ありません」
暦は顔を伏せたまま、咄嗟に動いた。
理屈ではなかった。恐怖と混乱の極致で、彼女は「それ」を手放してはいけないと直感したのだ。
同僚の視線が棚の陰で遮られている一瞬の隙に、彼女は箱の中の小さな欠片――親指ほどの鋭利な破片を掴み、制服のスカートのポケットにねじ込んだ。
鋭い痛みが太腿に走る。布越しに、破片が皮膚を裂いたのだ。
だが、その痛みこそが、彼女を正気に繋ぎ止めていた。
血が滲む感覚。生温かい液体が肌を伝う。それは、歴史の闇に葬られた男の血と、暦の血が混じり合う、最初の契約だった。
第二章 歪んだ動脈
奈良盆地は、巨大な釜の底だった。
まとわりつく湿気と、脳を茹でるような陽光。明日香村、石舞台古墳の巨石の前に立ち、暦は目眩をこらえていた。
ポケットの中の「欠片」が、熱を帯びて拍動している。まるで、本体を求めて泣き叫ぶ赤子の心臓のように。
昨日、図書館で盗み出したあの破片が、羅針盤となって彼女をここまで導いたのだ。
(景色が、腐っている)
暦はサングラス越しに周囲を見渡した。
観光客が記念撮影に興じるのどかな風景。だが、暦の目には、空間そのものがデジタルノイズのように欠落し、明滅しているように映る。
ここに在るべき「色」が、何者かによって強引に灰色に塗りつぶされている。歴史の改竄。無理な接ぎ木手術の痕跡が、膿んだ傷口のように空間を歪めていた。
彼女は人の波を外れ、立ち入り禁止の札が下がった雑木林へと足を踏み入れた。
足裏から伝わる振動。ポケットの破片が焼けるように熱くなる。
ここだ。
暦は巨木の根元、不自然に土が盛り上がった場所に跪いた。移植ごてを突き立てる。土の匂いに混じり、またしてもあの血と鉄の臭気が鼻をついた。
カチン。
硬質な手応え。泥の中から現れたのは、二つ目の『天鏡』の断片だった。
指先が触れた瞬間、真昼の太陽が消滅した。
――夜だ。
冷え切った堂内で、男は筆を握りしめていた。
筆先が震えている。恐怖からではない。こみ上げる激情を、必死に理性で御しているのだ。
『和をもって貴しとなす。それは、異論を封殺することではない。泥の中でもがく民の声を聞くことだ』
男は知っていた。明日、自分が「逆賊」として処刑されることを。自分の改革が、あまりに早すぎたことを。
だから彼は、己の魂を鏡に焼き付けた。文字は燃やされる。記録は書き換えられる。だが、モノに宿った「想い」だけは、時間という酸にも溶けない。
(……苦しい)
暦の目から涙が溢れた。
悔しさが、胸郭を内側から食い破りそうだ。
彼は消された。当時の権力者にとって、彼の民主的な思想は劇薬だった。だから、彼という存在そのものを「なかったこと」にし、その功績を、架空の聖人や別の貴族たちに分散させたのだ。
「そこまでだ、お嬢さん」
背後から、温度のない声がした。
暦が振り返ると、黒い喪服のようなスーツを着た老人が立っていた。
足音はなかった。気配さえなかった。
老人の周囲だけ、セミの鳴き声が止んでいる。風さえも、彼を避けて流れているように見えた。彼の背後に控える数名の男たちは、まるで影から切り出されたかのように、個人の輪郭が希薄だった。
「その鏡は、土の下で眠っているべきものです。掘り起こせば、腐臭を放つ」
老人は一歩踏み出した。ただそれだけの動作で、暦の心臓が早鐘を打つ。
言葉による説明など不要だった。彼が纏う空気そのものが、圧倒的な暴力装置であることを物語っていた。
彼は「掃除人」だ。歴史という庭園にはびこる、不都合な雑草を刈り取る庭師。彼の手は、数え切れないほどの「真実」を埋葬してきた土の色をしていた。
第三章 沈黙の守護者
「渡してもらいましょう」
老人が手を差し出す。その手は枯れ木のようだが、万力のような拘束力を秘めていることは明白だった。
「嫌です」
暦の声は裏返り、足は震えていた。だが、鏡を握る手だけは力を緩めなかった。
「この人は……生きていた。苦しんで、叫んで、未来を信じて死んだ。それを『なかったこと』にするなんて、そんな権利が誰にあるんですか!」
「権利ではありません。義務です」
老人の瞳には、憐れみさえ浮かんでいた。狂信者特有の、純粋すぎる正義の輝き。
「その男の思想は、毒だ。もし彼が実在したと世間が知れば、皇室の系譜、国家の成り立ち、宗教観……現代社会の基盤となっている『物語』が崩壊する。混乱が起き、血が流れるでしょう。我々は、最大の幸福のために、最小の犠牲を払い続けているのです」
「嘘の上に成り立つ幸福なんて……!」
「嘘ではありません。我々が守っているのは『秩序』という名の真実です」
老人が目配せをした。影のような男たちが、音もなく距離を詰める。
逃げ場はない。
暦は後ずさり、巨木の幹に背を押し付けた。
太腿のポケットの中で、最初の欠片が熱く脈打つ。手の中にある二つ目の欠片が、それに呼応して震える。
(痛い、痛い、痛い!)
頭の中で、男の叫びが木霊する。
『真実を殺すな。痛みを避けるな。傷つかぬ者に、明日を語る資格はない!』
暦の脳裏に、かつて自分が傷つくことを恐れ、他人の嘘を見抜ける目を持て余して、図書館という殻に閉じこもった過去がフラッシュバックした。
自分もまた、痛みから逃げていた。歴史を改竄した彼らと同じだ。
だが、今は違う。この男の痛みが、暦に「立て」と命じている。
「来ないで!」
暦はポケットから、血に濡れた最初の欠片を取り出した。
男たちが一瞬、怯んだ。
彼女は震える手で、二つの断片を構えた。パズルのピースのように、断面が噛み合う位置へ。
「馬鹿な、やめろ! 君の精神が焼き切れるぞ!」
老人が初めて表情を崩し、叫んだ。
暦は躊躇わなかった。
ガチンッ。
二つの青銅が接触した瞬間、暦の手のひらが裂け、鮮血が噴き出した。
物理的な結合。そして、霊的な爆縮。
血を触媒にして、千年の時を超えた回路が繋がる。
キィィィィィィィン!
高周波の絶叫が空間を引き裂いた。
暦の体から青白い光の奔流が噴き出し、影の男たちを吹き飛ばす。
彼女の背後に、巨大な陽炎が立ち上がった。十二単ではなく、荒々しい布衣を纏った古代の改革者の姿。その憤怒の形相が、物理的な圧力となって老人を押し潰す。
暦の意識は、肉体という檻を破壊し、時間の激流へと飲み込まれていった。
第四章 紡がれる物語
そこは、可能性の地平線だった。
暦は、光の粒子となって浮遊していた。眼下には、無数の「もしも」の歴史が、樹木の根のように分岐している。
もし、彼が生きて改革を成し遂げていたら。
暦は見せられた。国が二つに割れ、百年続く内戦の光景を。死体で埋め尽くされた河川。だが、その血の海から這い上がった民衆は、権力に盲従しない、強靭な「個」の精神を獲得していた。
一方で、彼が抹殺された現在の歴史。
穏やかだ。平和だ。だが、人々は飼い慣らされた羊のように、与えられた情報を疑うことを知らない。緩やかな衰退。見えない閉塞感が、真綿のように社会の首を絞めている。
「どちらが正しいと思う?」
不意に、隣に男が立っていた。
鬼気迫る形相は消え、憑き物が落ちたような穏やかな顔つきだった。
「……分かりません」
暦は正直に答えた。
老人の言う通り、彼を消したことで守られた命はある。しかし、彼が生きたことで得られたはずの強さもまた、失われたのだ。
「私は、忘れられることが怖かったのではない」
男は遠くを見つめた。
「私の抱いた願いが、無に帰すことが怖かったのだ。名などどうでもいい。ただ、種を蒔きたかった」
暦はハッとした。
自分の太腿の傷が疼く。血を流し、痛みを伴って初めて、真実は肉体に刻まれる。
だが、今の世界に、その劇薬をそのまま撒けば、社会はショック死するかもしれない。
「あなたの存在は、劇薬です」
暦は男を見据えた。
「そのまま出せば、拒絶される。潰される。……だから、包みましょう」
「包む?」
「『物語』というカプセルに。嘘というオブラートに、真実の核を混ぜるんです」
暦の脳裏に、かつて読んできた無数の小説たちが浮かんだ。
優れた物語は、フィクションという顔をして、読者の心臓に真実の杭を打ち込む。検閲をすり抜け、警戒心を解き、心の一番深い場所に種を植え付ける。
それこそが、司書であり、嘘を見抜き続けてきた暦が見つけた、唯一の「誠実な嘘」だった。
「私は書きます。あなたの人生を。名前は変える。時代も少しずらすかもしれない。でも、あなたの魂の形は、そのまま描き出す」
男はしばらく暦を見つめ、やがてニヤリと笑った。豪快で、魅力的な笑みだった。
「物語か。……悪くない。歌にのせて語り継ぐようなものだな」
男の姿が光に溶け始める。
「頼んだぞ、語り部よ」
意識が急速に浮上する。
現実。
雑木林の土の上。暦は荒い息を吐きながら立ち上がった。
手の中の鏡は、光を失い、ただの古びた金属塊に戻っていた。だが、その重みだけは、確かに残っている。
老人は、数メートル先で尻餅をついていた。恐怖に顔を歪め、暦を見上げている。
「……何をした? 歴史を、書き換えたのか?」
「いいえ」
暦は鏡を胸に抱いた。衣服は泥と血で汚れていたが、その瞳は、もはや怯える小動物のそれではない。
「あなたたちの『平和』は壊しません。この鏡も、誰にも渡さないし、学術的な発表もしない」
「では、どうするつもりだ」
「小説を書きます」
暦は老人を冷ややかに見下ろした。
「架空の英雄の物語として。検閲もできない、ただの娯楽小説です。でも、それを読んだ人は、必ず心に違和感の棘が刺さる。今の社会の在り方に疑問を持ち、自分自身の頭で考え始めるでしょう」
老人は呆気にとられ、やがて苦々しげに顔を歪めた。
「……毒を、薄めて広めるつもりか。最も対処のしようがないやり方だ」
「監視したければどうぞ。でも、私がペンを折れば、この鏡の本当の意味をネットでばら撒きます。破滅か、物語か。選ぶのはあなたたちです」
暦は踵を返した。
背後で老人が何か言おうとしたが、彼女は振り返らなかった。
木漏れ日が、彼女の血に濡れた手を照らしている。痛みはまだある。だが、それは生きて、何かを成そうとする証の痛みだった。
エピローグ 歴史の螺旋
三年後。
都内の大型書店。文芸書のコーナーに、うず高く積まれた新刊があった。
タイトルは『天鏡の残響』。
著者は、覆面作家・久遠暦。
その本は、異例のベストセラーとなっていた。
SNSでは「読んでいてなぜか涙が止まらない」「今の政治家に見せてやりたい」「この主人公、実在した気がしてならない」といった感想が溢れている。
フィクションとして世に出されたその物語は、人々の無意識下で、静かに、しかし確実に「何か」を変え始めていた。
図書館のカウンターで、暦は静かにその光景を眺めていた。
右手の指には、ペンダコができている。太腿には、小さな傷跡が残っている。
「久遠さん、この本、貸出お願いします」
女子学生が差し出したのは、彼女の著書だった。
暦は本を受け取る。表紙越しに、あの日感じた男の熱情が、今は穏やかな温もりとなって伝わってくる。
もはや、痛みはない。彼女の中で、彼は成仏したのだ。物語へと昇華されることで。
「はい、承りました」
暦は微笑んだ。以前のような、傷つくことを恐れて作った仮面の笑顔ではない。
一人の表現者としての、強さを秘めた眼差しだった。
「……ゆっくり、味わって読んでくださいね」
バーコードをスキャンする電子音が、ピッ、と鳴る。
それは、硬直した歴史の岩盤に、小さな、しかし決して消えない亀裂が入った音だった。