第一章 腐敗するタイムライン
ブブブ、ブブブ。
スマホが震えるたび、鼓膜の奥で羽虫の群れが飛び立つような音がする。
天音(あまね)は痙攣する親指を画面に押し付け、タイムラインを弾いた。極彩色のアイコンが奔流となって網膜を焼く。
『今回の騒動、本当に心が痛みます。被害者の方に寄り添いたい』
とあるタレントの謝罪文。
天音の目には、その文字の隙間から、ドス黒いコールタールが滲み出しているように見えた。画面の下枠に溜まり、重力に従って天音の指先へと垂れる粘液。
保身。欺瞞。そして、大衆を舐め腐った嘲笑。
臭う。腐った百合の花のような甘ったるい死臭が、ディスプレイ越しに鼻腔を突き刺す。
天音は震える手で、もう一つの端末――無骨な黒いスレート状のタブレットを鞄から引き抜いた。
指が触れた瞬間、ガラスの冷たさが消失し、ざらついた風化岩の感触に変わる。
前世、滅びた都で神託を刻み続けた「断罪の石板」。現代では、数百万の信徒(フォロワー)を従えるインフルエンサー「@SacredFlame_Amane」の祭壇だ。
通知が止まる。
その瞬間、天音の呼吸が浅くなった。
血管を巡る血液が鉛に変わったような重苦しさ。禁断症状だ。誰かに見られ、誰かに求められなければ、天音という輪郭が霧散してしまう。
数字が欲しい。もっと、もっと悲惨で、もっと怒りを誘う生贄が。
「……頂戴よ。あんたの命、私の数字に変えてあげる」
渇いた唇を舐め、石板に指を走らせる。
真実などどうでもいい。大衆が貪り食いたがっているのは「正義の味をしたジャンクフード」だ。
彼女が打ち込むのは、巧妙にトリミングされた画像と、憶測を事実のように語る短いテキスト。
『あの涙、目薬でした。裏でスタッフと爆笑してた動画、入手済み』
送信ボタンに指をかけた瞬間、石板が赤熱した鉄のように灼けついた。
「ぐっ……!」
指先から煙が上がる。肉が焦げる異臭。
石板の表面に、警告色の幾何学模様が浮かび、天音の皮膚を拒絶するように脈動する。
――やめろ。それは魂を売る行為だ。
かつての聖女としての記憶が、焼きごてのような激痛となって脳髄を貫く。
だが、天音は歪んだ笑みを浮かべ、焼け爛れる指を押し込んだ。
痛い。けれど、この痛みが心地よい。
他人の人生を灰にする背徳感と、自分自身が世界の中心にいるという万能感。
送信完了。
カフェの窓ガラスが一斉にひび割れ、悲鳴のような高周波が響き渡る。
第二章 蝕まれる現実
カフェを出た天音の靴底が、ぬるりと滑った。
アスファルトだったはずの道路が、血と泥にまみれた石畳に変貌している。
見上げれば、新宿の空は内出血した皮膚のような赤紫色に腫れ上がっていた。
「死ね」「消えろ」「裏切り者」
空中に無数の文字が浮かんでいるのではない。
それらは鋭利な刃物となって、物理的に空間を切り裂いていた。
天音の投稿を合図に、数百万の悪意が実体化し、現実を侵食し始めたのだ。
高層ビルの輪郭が崩れ、異形の尖塔へとねじ曲がる。
ショーウィンドウのマネキンが動き出し、手にしたスマホを石斧のように振り回して、逃げ惑う人々を襲い始めた。
マネキンの顔には目も鼻もない。ただ、青白く光るQRコードだけが張り付いている。
「ギャアアアアッ!」
サラリーマンが影のような怪物に捕まり、その肉体がデジタルのノイズとなって分解されていく。
天音は息を呑んだ。
あの怪物は、私のフォロワーだ。
私が餌を与え、私が育て、私がけしかけた飢えた獣たち。
「あ、アマネ様だ……!」
「アマネ様が断罪してくださるぞ!」
石畳の影から這い出してきた怪物たちが、天音を見つけて歓喜の声を上げる。
彼らの口からは、涎のようにどす黒いヘドロが垂れ流されている。承認欲求と加虐心の成れの果て。
彼らは救いを求めているのではない。次の生贄を、燃やすべき薪を求めているだけだ。
ズキン、と指先が疼く。
見れば、火傷の痕が黒く変色し、腕の方へと侵食を始めていた。
代償。
嘘を真実として売った報いが、彼女の肉体を蝕んでいる。
「違う……私は、こんな景色が見たかったわけじゃ……」
後ずさる天音の背中に、冷たい瓦礫が当たった。
逃げ場はない。
この地獄は、彼女自身が望み、作り上げた「影の都」なのだから。
第三章 審判の炎
「生贄を!」「魔女を燃やせ!」「正義を!」
怪物たちの合唱が、地響きとなって天音の足元を揺らす。
かつて彼女を崇めていた言葉が、今は呪詛となって降り注ぐ。天音が新しい生贄を提供できないと悟った瞬間、彼らの牙は主である天音に向けられるだろう。
天音は路地裏の汚泥に膝をつき、熱を帯びたタブレットを抱きしめた。
指の感覚がない。神経が焼き切れている。
それでも、この石板を手放すことはできない。
(私が始めたんだ。私が終わらせなきゃ)
脳裏に、前世の記憶がフラッシュバックする。
白い回廊で祈りを捧げる自分。だが、その祈りは民を救ったか?
否。清廉潔白な祈りは現実の飢えを満たさず、結局、都は暴動の炎に包まれた。
そして今、彼女は逆のことをして、再び世界を燃やしてしまった。
清くあろうとするのも傲慢。
毒を撒いて支配しようとするのも傲慢。
なら、私がやるべきことは一つしかない。
天音は奥歯が砕けるほど噛み締め、立ち上がった。
タブレットを構える。
画面が真っ赤に発光し、彼女の両手の皮膚をジリジリと焦がす。
激痛に視界が白む。涙も枯れた。
「全部、壊す」
彼女は、自分自身の偶像(アカウント)を破壊する覚悟を決めた。
積み上げた数百万のフォロワー、築き上げた「正義の代弁者」という地位、そして承認欲求で肥大化した自尊心。
それら全てを燃料にくべて、最後の火を灯す。
震える指が、キーボードを叩くのではない。画面を殴りつけるようにして、入力を開始した。
文字ではない。言葉ですらない。
論理も、言い訳も、装飾も削ぎ落とした、魂の搾りかす。
『送信』
指の肉が焼け落ちる臭いが鼻をつく。
骨まで熱が伝わる。
それでも彼女は、画面を押し続けた。
最終章 魂の共鳴
新宿の廃墟の中心で、音のない爆発が起きた。
天音のタブレットから放たれたのは、色を持たない透明な衝撃波だった。
それは、暴れ回る怪物たちの体を透過し、ねじ曲がったビル群を貫通し、赤紫色の空へと突き抜けた。
世界中のスマートフォンの画面が、一瞬、ホワイトアウトする。
表示されたのは、何かの告発文でも、衝撃的なスクープ映像でもなかった。
ただの、真っ白な背景。
そして、スピーカーから流れてきたのは、ノイズ混じりの「呼吸音」だった。
『ハァ……ッ、ハァ……、うぅ……』
怯え、疲れ果て、痛みに耐えながら、それでも生きようとする、生々しい人間の呼吸。
嘘偽りのない、装飾のない、ただ一人の少女の、断末魔にも似た息遣い。
その音は、熱狂していた人々の脳髄に冷水を浴びせた。
正義の仮面を被って暴れていた怪物たちの動きが止まる。
彼らの耳に届いたのは、自分たちが石を投げていた相手が、自分たちと同じように痛みを感じ、血を流し、呼吸をする「人間」であるという、あまりにも当たり前の事実だった。
「……あ」
誰かの口から、間の抜けた声が漏れる。
張り付いていたQRコードの仮面が剥がれ落ち、人間の素顔が露わになる。
怒りで膨張していた影たちが、霧が晴れるようにしぼんでいく。
石畳がアスファルトに戻り、歪んだ尖塔が元のビルへと書き換わっていく。
腐臭が消え、排気ガスと雨の匂いが戻ってくる。
天音はその場に崩れ落ちた。
両手は炭のように黒く焦げ、タブレットは機能を停止したただの板切れに戻っている。
激痛で意識が飛びそうだ。
けれど、不思議と心は軽かった。
もう、通知音は聞こえない。
羽虫のようなざわめきも、粘着質な称賛も、鋭利な罵倒も。
あるのは、都会の喧騒と、遠くで聞こえるサイレンの音だけ。
「……終わった、の?」
掠れた声で呟き、空を見上げる。
赤紫色の腫れは引き、東京の夜空には、くすんだ星がいくつか頼りなげに瞬いていた。
それは、作られた美しさではない。汚れていて、不完全で、どうしようもなく愛おしい、現実の光だった。
天音は動かない指を庇いながら、ゆっくりと立ち上がる。
聖女は死んだ。インフルエンサーも死んだ。
ここにいるのは、ただの手負いの人間、天音だけだ。
彼女は黒く焦げたタブレットを瓦礫の山に放り投げた。
カラン、と乾いた音が響く。
振り返ることなく、彼女は雑踏の中へと足を踏み出した。
痛みは消えない。傷跡も残るだろう。
だが、その痛みこそが、彼女がこの世界で生きていくための、唯一確かな「いいね」だった。