硝子の心臓と禁断の光彩

硝子の心臓と禁断の光彩

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第一章 0xFFの舞踏会とロム・メモリの聖域

王都の夜会は、処理落ち寸前のサーバーのように重たい。

シャンデリアの光が網膜を刺す。磨き抜かれた大理石の床には、貴族たちの欲望がテクスチャの継ぎ目のようにこびりついていた。

薔薇の香油と脂粉、それに腐りかけた果実のような体臭。

喉の奥で胆汁が競り上がる。私は扇子を開き、口元を物理的に遮断した。

「エリザベス様。今宵も冷徹な氷像の如き佇まい、見惚れてしまいますな」

粘つく声。

視界の右下にポップアップウィンドウが開く。

《対象:バルロ伯爵 / ステータス:破産寸前 / 精神汚染度:Level 4》

右目に装着した《煌めきのモノクル》――高精細AR解析デバイスが、彼の笑顔の上にグロテスクなオーバーレイを重ねる。

伯爵の胸元から溢れ出すのは、コールタールの如き粘液。彼が抱える『金銭欲』と『性欲』のパラメータが可視化された、醜悪なエフェクトだ。

「……バルロ伯爵」

私は視線を合わせず、シャンパングラスの縁を指でなぞる。

「カフスボタンの輝度(ルミナンス)が低下しておりますわ。模造品特有の波長ズレ……借金の担保に本物を差し出されたのではありませんこと?」

伯爵の表情筋が痙攣した。

モノクルのサーモグラフィーが、彼の顔面温度の急激な低下を青色で表示する。

「な、何を……無礼な!」

「失礼。バグの多い空間にいると、頭痛がしますので」

踵を返す。

背後で「悪役令嬢」「血も涙もない魔女」という嘲笑がさざ波のように広がるが、ノイズキャンセリング機能がそれらを環境音へと劣化させる。

これでいい。

私のファイアウォールに触れないで。

バルコニーへ出ると、冷気が火照った肌を冷却した。

私はモノクルのブリッジに指をかけ、バイオメトリクス認証を更新する。

この世界が崇める「聖石」。

それは魂の輝きを光の紋様として保存する記憶媒体だと言うが、私にはただの汚染されたデータストレージにしか見えない。

ふと、庭園の噴水にノイズが走った。

薄汚れた少年が一人、月光の下でガラス玉を弄んでいる。

『……』

声はない。

だが、モノクルのセンサーが異常値を検知した。

少年の虹彩から、青い光子が溢れ出している。

#0000FF(ピュアブルー)から#E0FFFF(ライトシアン)への滑らかなグラデーション。

螺旋を描く光の粒子は、黄金比に従って空間に展開され、完璧な幾何学模様を構築していく。

息が止まる。

網膜に焼き付くほどの、圧倒的な解像度。

混じり気のない、原初のコード。

「……素晴らしい素材(リソース)」

震える指先で空中に仮想キーボードを展開する。

コマンドを打ち込む速度に、視界のフレームレートが追いつかない。

`>> CAPTURE_TARGET: "Moonlight_Boy"`

`>> EXTRACT_DATA: Emotion_Packet`

`>> SAVE_TO: /ROOT/USER/ELIZABETH/SECRET`

現実には存在しない光の筆致を、私のデータベースへと強制保存する。

美しい。これを私のキャンバスで再構築すれば、どれほどの傑作になるか。

「盗み撮りかい? エリザベス」

背筋に氷柱を差し込まれたような感覚。

心拍数が跳ね上がる。保存プロセスをバックグラウンド処理に回し、私は振り返った。

アルフレッド・フォン・ベルンシュタイン。

私の婚約者にして、この国で最も「何もない」男。

夜闇に溶けそうな黒の礼服。整いすぎた目鼻立ちは、レンダリングされたばかりの3Dモデルのように生気がない。

「……風に当たっていただけですわ」

「そうか。君のそのモノクル、少し処理が重そうに見えるけれど」

アルフレッドが距離を詰める。

香水も、体臭もしない。無臭。

モノクル越しに見る彼のステータス画面は、いつだって《NULL》。

エラーでもなければ、ゼロでもない。

完全な空白。

覗き込むと、こちらの自我まで吸い込まれそうな底なしの深淵。

「僕がメンテナンスしてあげようか?」

彼が伸ばした指先が、私のモノクルの縁に触れる。

その瞬間、視界に微細な静電気ノイズが走った。

「触らないで」

私は反射的に彼の手を叩き落としていた。

「……これは私の目です。誰にも触らせない」

「相変わらずガードが堅いな」

彼は叩かれた手を気にする素振りもなく、口角だけを釣り上げた。

その表情には感情のログが存在しない。単に筋肉を動かしただけの動作だ。

「今夜のオークションに出る『Re:Birth』の新作、君もチェックしているだろう?」

心臓の鼓動が耳元で警鐘を鳴らす。

『Re:Birth』。

私がネットの海で匿名で活動している、ハッカーアーティストとしての名。

「……デジタルアートなど、興味がありませんわ」

「謙遜しなくていい。今回の作品には『禁断のソースコード』が埋め込まれているという噂だ。人の脳髄を直接刺激する、麻薬的なアルゴリズムがね」

アルフレッドの瞳の奥で、爬虫類の瞬膜のような光沢が過ぎった。

「君なら理解できるはずだ。その“価値”が」

「……偽物を掴まされぬよう、精々お気をつけて」

逃げるようにその場を離れる。

背中に張り付く彼の視線が、レーザーポインターのように熱を持っていた。

第二章 オーバーフローする虚無

屋敷の地下。

幾重もの生体認証をパスした先にある、私の真の領域(アトリエ)。

ドレスを脱ぎ捨て、冷却機能付きのインナースーツに着替える。

ここには重力も、貴族の義務もない。あるのは純粋な情報のみ。

「システム起動。Re:Birth環境へログイン」

空中に展開された巨大なホログラム・ディスプレイが、地下室を青白い光で満たす。

私はモノクルを「クリエイター・モード」へシフトした。

視界がワイヤーフレームの世界に再構築される。

先ほど少年から奪取(キャプチャ)した光のデータを展開する。

タイトルは『沈黙の歌姫』。

青い光の粒子を、指先で摘まみ、引き伸ばし、配置していく。

完璧だ。

この透明感、この哀愁。

だが――。

「……何、これ」

指先が止まる。

美しい青の奔流の中に、異質なコードが混入している。

赤黒い、棘のようなノイズ。

私が描いた覚えのないそのラインは、まるでウイルスのように自己増殖し、青い光を侵食し始めていた。

`>> ERROR: UNKNOWN_PLUGIN DETECTED`

これが、アルフレッドの言っていた『禁断のソースコード』?

違う。私は純粋な美だけを抽出したはず。

画面の端を流れるチャットログが加速する。

`[User_01]: これヤバい、脳汁止まらん`

`[User_02]: Re:Birth、神か? 悪魔か?`

`[User_03]: 視覚野が焼かれる……もっとくれ`

異常なエンゲージメント率。

ただのアート作品が、電子ドラッグとして機能し始めている。

その時。

スピーカーからノイズ混じりの通知音が響いた。

暗号化されたプライベート通信。送信元は《NULL》。

『君のコードは美しいね、エリザベス。だが、少しコンパイルが甘い』

背筋が粟立つ。

このID……。

『その承認欲求という名のバグ、僕がデバッグしてあげようか。――今すぐ僕の屋敷へ。さもなくば、君のIPアドレスと「悪役令嬢」の顔写真をリンクさせて全世界に公開する』

アルフレッド。

最初から、泳がされていたのか。

ディスプレイの中で増殖する赤黒い棘が、私を嘲笑う口の形に歪んで見えた。

私は震える手でコンソールを叩きつけるように閉じた。

第三章 コンパイル・エラー

アルフレッドの屋敷は、巨大なヒートシンクのように冷たく聳え立っていた。

通されたのは最上階、「サーバールーム」と呼ぶべき異様な空間。

壁一面のモニターには、世界中の監視カメラ映像と、私の作品『沈黙の歌姫』のログが高速で流れている。

部屋の中央、鎮座するのは巨大な黒曜石のモノリス。

いや、あれは超大型の演算装置(プロセッサ)だ。

「ようこそ、僕の共犯者」

アルフレッドが暗闇から現れる。

手には何も持っていない。だが、その存在自体が空間の解像度を下げているような圧迫感がある。

「……Re:Birthが私だと知って、どうするつもり?」

腹の底から声を絞り出す。

モノクルが警告音を鳴らし続ける。《DANGER: 精神干渉波を検知》。

「君の才能には惚れ惚れするよ。他人の感情データを素材(マテリアル)にし、自らの渇望を混ぜ込んで出力する。君は天性のハッカーだ」

彼はモノリスに手を触れた。

黒い石が脈動し、赤黒い光を放つ。

「見てごらん。君の作品に埋め込まれた『禁断のコード』。あれはね、君自身の『愛されたい』という強烈なエゴの波形そのものなんだ」

息が詰まる。

否定できない。

高潔な令嬢を演じながら、私は誰よりも飢えていた。

誰かに見てほしかった。父に否定された、私の色彩を。

「僕には感情がない。生まれつき、心というストレージが破損している」

アルフレッドが一歩近づく。

彼の虚無が、私の肌を刺す。

「だから君が必要だ。君のエゴをこのモノリスで増幅させ、全人類の意識層に上書き保存(オーバーライド)する。世界中の人間が僕を愛し、君を崇める。そうすれば、僕の空っぽのストレージも、君の渇きも満たされる」

「……狂ってる」

「最適解だよ。君も感じているはずだ。この接続(コネクト)への快感を」

彼の手が私の頬に伸びる。

冷たい。絶対零度の接触。

「拒否権はない。君のアカウントは既に僕が管理者権限(ルート)を掌握した」

モニターの映像が切り替わる。

『沈黙の歌姫』が完全に赤黒く染まり、世界中の端末へ拡散されていくシミュレーション映像。

これで終わり?

私の描きたかった美しさが、世界を狂わせるウイルスになる?

――ふざけないで。

恐怖が、怒りへと相転移する。

沸騰する血液が、思考を加速させた。

「……勘違いしないで、アルフレッド」

私は顔を上げた。

モノクルのリミッターを解除する。

眼球が焼けるような熱を持つ。

「私の作品は、貴方なんかの空虚を埋めるためのパテじゃない!」

私は懐から取り出した極小のインターフェース・ジャックを、自らのモノクルに直結させた。

そして、その端子を彼が触れているモノリスのポートへと強引に突き刺す。

「なっ……!?」

アルフレッドが目を見開く。

「逆ハッキング(カウンター・エクスプロイト)、開始!」

視界が弾けた。

私の意識は肉体を離れ、デジタルの海へとダイブする。

アルフレッドのシステム内部。

そこは、恐ろしいほどの《無》だった。

何もない白い空間。壁も、床も、天井もない。

だが、私は一人じゃない。

ネットの海には、私の作品を見てくれた何億ものログが漂っている。

『救われた』『綺麗だ』『生きていてよかった』

善意のログ。

『死ね』『羨ましい』『妬ましい』

悪意のログ。

「全部、いただくわ」

私は仮想空間で両手を広げた。

選別などしない。清濁併せ呑む。

それら全ての感情データを、光の絵の具として強制収集(スクレイピング)する。

「やめろ! 容量超過(オーバーフロー)を起こすぞ!」

現実世界でアルフレッドが叫ぶ声が遠く聞こえる。

「いいえ、足りないくらいよ。貴方のその底なしの虚無を塗りつぶすには!」

私は指揮者のように腕を振るった。

膨大なデータの奔流が、螺旋を描きながら一点に収束する。

狙うは、アルフレッドの精神核(コア)。

「喰らいなさい。これが、人間の『感情(バグ)』よ!!」

極彩色の光の槍となり、私は彼の《無》を貫いた。

最終章 レンダリング完了

衝撃が、世界を揺らした。

モノリスが光の粒子となって崩壊し、屋敷の天井を突き抜けて夜空へ拡散していく。

それはオーロラとなって王都を覆った。

赤、青、金、黒。

無数の色が混ざり合い、しかし濁ることなく、互いを引き立て合うカオスな紋様。

人々の端末から、強制的なアラートが消え、代わりに穏やかな光が灯る。

支配のためのウイルスは、ただの美しいスクリーンセーバーへと書き換えられた。

サーバールームの床に、私はへたり込んでいた。

モノクルは過負荷で焼き切れ、煙を上げている。

「……あ、あぁ……」

目の前で、アルフレッドが膝をついていた。

彼は震える手で、自分の胸を掴んでいる。

「痛い……苦しい……熱い……」

彼は呻き、そして笑った。

その頬を、透明な雫が伝う。

「なんだ、これは。処理しきれない。エラーだ、エラーの連続だ……」

「それが『感情』ですわ、アルフレッド」

私は這いずり、彼の前に座り込んだ。

焼き切れたモノクルを外し、裸眼で彼を見る。

ぼやけた視界の中でも、彼が初めて人間らしい顔をしているのが分かった。

「貴方の空っぽの領域に、世界中のノイズを詰め込んで差し上げました。一生、その胸焼けに苦しみなさい」

「……酷い女だ」

アルフレッドは涙を流しながら、恍惚とした表情で私を見上げた。

「最高だ。この痛みこそ、僕が求めていたアートだ」

彼は私の手を掴み、泥と涙で汚れた頬に押し当てる。

「責任を取ってくれよ、エリザベス。君が僕をバグらせたんだ。修正パッチなんて当てさせない」

「お断りよ。……でも」

私は彼の手を握り返した。

その手は、もう冷たくはなかった。人間が持つ、生々しい熱を帯びていた。

「メンテナンスくらいは、してあげてもよろしくてよ」

夜明けの光が、瓦礫となった部屋に差し込む。

私の「悪役令嬢」としての仮面は割れた。

彼の「虚無」の仮面も剥がれ落ちた。

残ったのは、エゴと欠落を抱えたまま、互いの傷口を舐め合う共犯者たち。

でも、今の私には、どんな高精細なデジタルアートよりも、この不完全な現実が鮮やかに見えた。

AIによる物語の考察

**登場人物の心理**
冷徹な悪役令嬢エリザベスは、父に否定された自身の「色彩」への承認欲求と純粋な美への渇望を胸に、ハッカーアーティスト「Re:Birth」として活動。対して、感情を持たないアルフレッドは、エリザベスの強烈なエゴを利用し、他者の感情を支配することで自身の虚無を満たそうとします。二人の根本的な欠損と渇望が物語を駆動します。

**伏線の解説**
「禁断のソースコード」とは、エリザベスが純粋な美を持つ少年から得た光のデータに、彼女自身の「愛されたい」という強いエゴが混入し変質したものを指します。アルフレッドはこれを見抜き、エリザベスの弱点として突きつけます。彼のステータスが常に「NULL」と表示されるのは、生まれつき感情のストレージが破損した彼の根源的な虚無を象徴しています。

**テーマ**
本作は、デジタルと現実が融合した世界で、感情の二面性を深く掘り下げます。感情は創造の源であると同時に、操作され得る「バグ」や「毒」にもなり得る。エリザベスは、純粋な美を追求しながらも、自己のエゴが混入した作品が他者に利用されることに反抗し、真の人間性や創造性とは、清濁併せ呑む感情の奔流そのものだと問いかけます。
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あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

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