第一章 0.1秒の召喚エラー
カチャッ、タターン。
乾いた打鍵音が、鼓膜の裏側で反響する。
午前二時。網膜を焼くようなブルーライトの明滅。
時野律は、瞬きすら惜しんで指を走らせていた。
「……コンパイル、完了。処理速度0.04秒短縮」
冷めきった泥水のようなコーヒーを喉に流し込む。カフェインが胃壁を焼く感覚だけが、彼が生物であることを証明していた。
本業のシステム改修は定時で片付けた。今は、より純度の高い「論理」に没頭できる副業の時間だ。
画面には、クラウドソーシングの依頼が未読の山を作っている。
『市場予測データの最適化』
『架空戦記の兵站シミュレーション』
どれも他人が作れば一週間はかかる。だが、律にはノイズに見えた。
彼の脳内では、現実すらもソースコードに変換される。
感情はバグ。人間関係は負債。人生とは、死というシステムダウンまでの稼働時間をいかに効率化するか。
それが、時野律の定義する「生存」だ。
「ラスト一件……なんだ、このスパゲッティコードみたいな依頼は」
ポップアップしたウィンドウ。依頼主は『No Name』。
件名:『世界崩壊における時間的リソースの再配分について』
添付されたデータセットを開いた瞬間、律の指が止まった。
気象データ、人口動態、魔力係数。変数は多いが、美しい数式で世界が記述されている。
だが、その世界は「死」に向かっていた。あまりに非効率なリソース枯渇によって。
「……興味深い。デバッグのしがいがある」
エンターキーを叩く。
その瞬間。
視界がノイズ混じりの砂嵐に覆われた。
「――がっ!?」
内臓を裏返しにされるような浮遊感。
脳の血管に強引に太いケーブルを突き刺され、未知のデータを流し込まれるような激痛。
三半規管が悲鳴を上げ、平衡感覚が溶解する。
「う、あ……」
硬い感触。背中を強打する衝撃。
律は地面に這いつくばり、胃の中身を吐き出した。
酸っぱい胃液と共に、電子回路の焦げる臭いではなく、むせ返るような鉄錆と乾いた土の匂いが鼻腔を蹂躙する。
指先が震える。神経が焼き切れそうだ。
脂汗で曇った眼鏡を乱暴に拭い、顔を上げる。
そこは、ワンルームの自室ではなかった。
色彩の死に絶えた、灰色の荒野。
空には太陽の代わりに、巨大な、そして無残にひび割れた歯車が浮かんでいる。
「……ふざ、けるな……」
激痛に喘ぎながら手元を見る。スマホもPCもない。
代わりに握りしめていたのは、歪な形状のガラス細工。
砂時計だ。だが、中身は砂ではない。
上部には、青白く発光する『デジタル信号のような光』。
下部には、金色の『本物の砂』。
視界の端に、AR(拡張現実)のような文字が焼き付く。
『接続確立。デバイス名:時間断片(タイムフラグメント)』
『現在地:アステーラ・座標不明』
『警告:観測者の生体ログ、急速に劣化中』
「ログ……? 俺の命のことか……?」
「――下がって! 死にたいの!?」
鼓膜を打つ鋭い声。
律が視線を向けると、一人の少女が立っていた。
ボロボロのローブ。赤茶けた髪は砂埃と血で汚れ、肌は病的なほど白い。
彼女は震える杖を構え、目の前に迫る『絶望』と対峙していた。
それは、砂でできた巨大な顎(あぎと)だった。
『時の砂漠』の獣。物理法則を無視してうねる、エントロピーの具現。
「私が……ここで食い止めないと……ッ!」
少女が杖を振るう。閃光が走る。
だがその瞬間、彼女の髪の一部が、瞬時に白く変色した。
肌に皺が刻まれ、またすぐに戻る。
(……リソースの消費対効果が悪すぎる)
律の脳内で、冷徹な計算が走る。
彼女は魔法を行使する代償として、自身の『時間』――寿命そのものを燃やしている。
なんと非効率なシステムだ。
吐き気は消えない。だが、目の前で展開される「バグだらけの戦闘」への苛立ちが、生理的嫌悪を上回った。
「どいていろ。見ていられない」
律はふらつく足で立ち上がった。
恐怖? 否。
彼を突き動かすのは、整然としないコードを見せつけられたプログラマの憤怒だ。
「な、なによ……あんたじゃ無理よ!」
「黙れ。時間の使い方が下手くそすぎる」
律は砂時計を掲げた。
指先で、虚空に浮かぶインターフェースを弾く。
脳神経と直結した操作感。キーボードよりも速く、思考が記述される。
『最適化(オプティマイズ):開始』
上部の青い光――彼が持ち込んだ現代の『余剰時間』が流れ落ちる。
ただの暇つぶし、通勤の空白、惰眠の時間。
それらが、この世界では質量を持ったエネルギーへと変換される。
「コード書き換え。対象の動作フレーム、強制停止(フリーズ)」
パチン。
律が指を鳴らす。
襲いかかろうとしていた砂の獣が、空中で静止した。
物理演算が破綻し、世界から切り離されたように固まる。
「え……嘘、時間が、止まった……?」
少女が目を剥く。
律は冷淡に、作業終了のエンターキーを脳内で叩いた。
「削除(デリート)」
砂時計を反転。
停止していた獣が、一瞬にしてサラサラと崩れ去り、ただの砂山へと還った。
消費リソース、最小限。所要時間、3.2秒。
「……処理完了」
律は膝をついた。強烈なめまい。
だが、なんとか視線を上げ、腰を抜かしている少女を見下ろした。
「おい。現状説明(ブリーフィング)を頼む。3行でな」
少女は、白髪になりかけた髪を押さえながら、呆然と呟いた。
「あなた……一体、何者なの?」
「時野律。このふざけた世界をデバッグしに来た」
彼は口の端についた血を拭い、冷たく言い放った。
「通りすがりの、管理者(アドミニストレータ)だ」
第二章 井戸底のジレンマ
世界は、摩耗していた。
少女の名はセフィ。
彼女との旅は、律にとって苦痛に満ちた「非効率」の連続だった。
西の果て、渇ききった村に立ち寄った時のことだ。
村唯一の井戸が枯れていた。
村人たちは祭壇を組み、雨乞いの祈りを捧げている。寿命を削りながら、涙を流して。
「馬鹿げている」
律は舌打ちした。
祈りで地下水位が上がるなら、土木工学は不要だ。
彼は砂時計を操作し、地脈の時間を局所的に『加速』させ、地下水脈を強引に井戸へと直結させた。
ゴウッ!!
爆音と共に、井戸から水柱が噴き上がった。
水量は十分。これで解決だ。律は踵を返そうとした。
だが、村人たちは喜ぶどころか、恐怖に顔を引きつらせて逃げ惑った。
「なんで……! 律、なんてことをするの!」
セフィが律の胸倉を掴んだ。彼女の瞳には、怒りの涙が溜まっている。
「水は確保した。需要と供給は一致したはずだ」
「そうじゃない! あの井戸は、村の守り神なのよ! あんな風に乱暴に扱ったら、みんな怖がるに決まってるじゃない!」
「感情論で喉は潤せない」
「感情がなきゃ、生きてても死んでるのと同じよ!」
セフィの叫びが、律の胸の奥――計算式だけで構成された空洞に反響した。
彼女は井戸に駆け寄り、泥だらけになりながら、溢れ出した水を丁寧に掬い、祭壇に捧げ直した。
そして、怯える村人一人ひとりの手を握り、大丈夫だと語りかける。
その作業には、膨大な時間がかかった。
律の計算なら数秒で終わる解決に、彼女は半日を費やした。
だが。
夕暮れ時、村人たちは安堵の表情で水を飲み始め、律にも恐る恐る礼を言いに来た。
老婆が差し出したのは、泥のついた固いパン一つ。
「……報酬にしては割に合わない」
律は呟きつつ、そのパンを受け取った。
隣でセフィが、焚き火に当たりながらスープを煮ている。
「律のやり方は、早くて正確。でもね、人の心には『納得する時間』が必要なの」
セフィが木製のお椀を差し出す。
具の少ない、薄いスープ。だが、湯気が冷え切った砂漠の夜を温めている。
「……俺には理解できない変数が多すぎる」
「ふふ。ゆっくり学べばいいわ。時間は、使うためだけにあるんじゃない。味わうためにもあるのよ」
律はスープを口に含んだ。
塩味が足りない。具材の切り方も不揃いだ。
だが、食道を通り胃に落ちる熱が、不快なほど心地よかった。
(警告:論理回路にノイズ発生。感情パラメータ、上昇中)
律は視界の警告ウィンドウを手で払い除けた。
砂時計の下部に溜まった金色の砂が、焚き火の光を受けて微かに輝いている。
それは、効率化で削ぎ落としたはずの『無駄な時間』の結晶だった。
彼は無言でパンをかじった。
その味は、東京で食べたどの高級デリよりも、鮮烈に記憶に刻まれた。
第三章 バグだらけの心臓
旅の終着点。世界の中心、『虚無の時計塔』。
そこは、世界のOSとも言うべき中枢だった。
螺旋階段を登りきった最上階。
壁一面に展開された巨大な歯車と、空中に浮かぶ無数の文字列。
律はその光景に息を呑んだ。
「これは……俺が書いたコードか?」
違う。酷似しているが、これはもっと根源的な記述だ。
そして、その中央に鎮座していたのは、巨大なクリスタル――『世界石』。
だが、それはどす黒く濁り、今にも砕け散りそうだった。
「ここが、世界の心臓……」
セフィが震える声で言う。
律はコンソールとおぼしき石版に手を触れた。
膨大なデータが脳内に雪崩れ込む。
『警告:システム崩壊まで残り120秒』
『修復策:管理者権限を持つ生体CPUの接続』
『代償:接続者の個我の消失』
律の指が止まる。
理解してしまった。
この世界を救うには、外部から来た異質な論理を持つ者――つまり時野律自身が、このシステムの『人柱』となって、永遠に演算を続けるしかない。
「……ははっ、笑えないブラックジョークだ」
律は乾いた笑い声を漏らした。
帰るために働いてきた。
元の世界で、あの無機質だが安全な部屋で、効率的な人生を全うするために。
それなのに、ここで永遠に残業しろだと?
「律……? どうしたの?」
セフィが不安げに覗き込む。彼女は気づいていない。
その時、クリスタルに亀裂が走った。
ゴギィィンッ!
空間が裂け、虚無の闇が溢れ出す。
「きゃあああっ!」
衝撃波がセフィを吹き飛ばす。
彼女の身体が、半透明になり始めた。世界の崩壊に巻き込まれ、存在ごと削除されかかっている。
「セフィ!」
律は駆け寄ろうとするが、足元がデータ落ちして崩壊する。
『緊急提案:単独での強制ログアウト(帰還)が可能』
『実行しますか? Y / N』
視界に点滅する『Yes』の文字。
これを押せば、律は日本の自室で目を覚ます。
この世界は消滅し、セフィも消える。だが、律は助かる。
それが、最も効率的で、合理的な判断だ。
(感情はバグだ。他者はコストだ。俺の人生は、俺のものだ)
律の指が『Yes』に向かう。
だが、脳裏に浮かぶのは。
泥だらけで水を運ぶセフィの姿。
不味いスープの温かさ。
「味わうための時間」という言葉。
(……ああ、くそ)
律は奥歯を噛み砕くほど食いしばった。
「効率しか能がない男だと思っていたか? 舐めるなよ」
彼は『No』を叩きつけ、コンソールへと走った。
「律! ダメ、逃げて!」
「逃げる? 俺の辞書に『納期遅れ』の文字はない!」
律は砂時計を掲げた。
溜まりに溜まった金色の砂――セフィと過ごした『無駄な時間』が、眩い光を放ち始める。
「全リソース、投入! 俺の『未来』も『記憶』も、全部くれてやる!」
ガシャァァンッ!
律は砂時計をクリスタルに叩きつけて砕いた。
溢れ出した光が、黒い闇を侵食していく。
律の両手が、目に見えないキーボードを叩く。
神速のタイピング。指先から血が噴き出す。
神経が焼き切れ、視界が赤く染まる。
それでも止めない。
「律……あなたが、消えちゃう……!」
「勘違いするな。これは、未来への投資だ」
律の身体が、徐々に光の粒子となってクリスタルに吸い込まれていく。
足が消え、胴が消え、感覚がシステムと同化していく。
彼は最後に、泣きじゃくるセフィを見た。
不器用で、ひきつった、しかし初めて見せる心からの笑顔で。
「いい『無駄』な時間だったよ。……あとは、任せろ」
最後のエンターキー。
強烈な光が世界を包み込み、時野律という個体は、永遠の演算流へと溶けていった。
最終章 No Nameからの依頼
カチャッ、タターン。
静寂な空間に、タイピング音が響く。
そこは、時計塔の最上階であり、同時に世界のどこでもない場所。
無数のモニターが浮遊する暗闇の中、一人の男が座っていた。
身体は半透明で、青白い光を帯びている。
時野律は、もはや人ではない。この世界を維持するための『管理者(システム)』そのものだ。
「……気象制御、正常。魔力循環、安定。セフィの……生存確認」
モニターの一つに、元気に畑を耕すセフィの姿が映る。
彼女の髪は鮮やかな赤茶色に戻り、隣には新しい仲間たちがいる。
そこに、律の姿はない。
彼女が律のことを覚えているかどうかも、定かではない。
律は、自らの存在に関するメモリすらも、世界の修復リソースに充てたのだから。
「……これでいい」
律は、手元の仮想キーボードに指を走らせる。
胸の奥にあるのは、かつてのような空虚さではない。
失ったものは大きい。二度とコーヒーの苦味を感じることも、誰かの肌に触れることもできない。
だが、この孤独は、彼が選び取った誇り高い代償だった。
「さて、次のタスクだ」
律は、時空を超えた通信プロトコルを開いた。
宛先は、並行世界の『過去の地球』。
受信者は、まだ何も知らず、退屈と絶望の中でモニターを見つめる『時野律』。
彼が動かなければ、この世界線はいずれまた崩壊する。
この円環構造こそが、世界を救う唯一の解(アルゴリズム)。
依頼タイトル:
『世界崩壊における時間的リソースの再配分について』
添付ファイルには、彼がこの身をもって計測した、愛すべき世界の全データ。
そして、律は依頼文の最後に、かつての自分への皮肉を込めてこう追記した。
『追記:この仕事は極めて非効率的であり、報酬は割に合わない。だが――君の人生において、最も美しいバグになることを保証する』
送信ボタンに指をかける。
依頼主名は、デフォルトのまま。
『No Name』。
「頼んだぞ。俺(パートナー)」
エンターキーを叩く音が、永遠の時の中に響き渡った。
画面の向こう、遠い時空の彼方で、誰かがその依頼を開く瞬間を夢見て。