第一章 境界線の上の密室
雨音が、無数の針となって鼓膜を刺す。
地上150メートル、38階のスイートルーム。
分厚い防音ガラスで遮断されたこの場所でさえ、天野咲月にとっては拷問部屋に等しかった。
「……ッ」
咲月は自身の二の腕を抱きしめる。
最高級のシルクブラウス。
誰もが羨むその滑らかな感触が、今の彼女には、微細なガラス片を肌に擦りつけられているかのような激痛に感じられた。
空調のファンが回る微かな振動が、巨大なドリルとなって頭蓋骨を揺らす。
視界の端で点滅するルーターのLEDが、ストロボのように網膜を焼く。
世界はあまりにも騒がしく、痛みに満ちていた。
「また、感度が上がっているな」
深く、湿度を含んだバリトンボイス。
その音色だけが、咲月の脳髄に心地よく響く唯一の周波数だった。
スターダスト・コアCEO、来栖悠真。
革のソファに沈み込んだ彼が、アンバー色の液体が揺れるグラスを傾けている。
「……香水の匂いがきついのよ。頭が割れそう」
咲月は顔を背けた。
嘘だ。
本当は、彼から漂うサンダルウッドと微かな体温の香りが、暴走する神経を鎮める唯一の麻酔だと知っている。
「強がりはよせ。君の震えがここからでも見える」
悠真がグラスを置く。
氷が触れ合う澄んだ音がした。
彼は立ち上がり、ゆっくりと、猛獣が獲物を追い詰めるような足取りで近づいてくる。
一歩。また一歩。
彼との距離が縮まるたびに、咲月のこめかみに埋め込まれた極小のニューロチップが熱を帯びる。
「来ないで」
「その言葉は、君の心拍数と矛盾している」
逃げ場はない。
背中は冷たい窓ガラスに押し付けられていた。
眼下に広がる都市の光が、雨に濡れて滲んでいる。
悠真が、咲月の目の前で足を止めた。
手を伸ばせば届く距離。
互いの体温が空気を介して干渉し合う。
「……息が、苦しい」
「僕もだ。近づくだけで、脳の処理落ちを起こしそうだ」
悠真が苦笑し、その大きな手を、恐る恐る咲月の頬へと伸ばした。
他人の接触は、火傷のような痛みをもたらすはずだった。
だが。
彼の手のひらが肌に触れた瞬間。
世界からノイズが消えた。
雨音も、空調の唸りも、衣擦れの不快感も。
すべてが嘘のように静寂へと変わり、ただ彼の手の熱だけが、冷え切った身体に染み渡っていく。
「……どうして、あなただけなの」
咲月は力なく、彼のシャツの裾を掴んだ。
「さあな。だが、適合率は嘘をつかない」
悠真の指が、咲月の髪を梳く。
その優しい律動に合わせ、咲月の吐息が熱く、甘く変化した。
拒絶していたはずの身体が、もっと触れてほしいと、無様に疼き始めていた。
第二章 封印された記憶と熱
「ん……ぁ……」
頬への接触が深まるにつれ、視界に白い火花が散る。
それは物理的な光ではない。
脳に直接流し込まれる、情報の奔流だ。
二人の脳内デバイスが、接触をキーとして強制的に同期(シンクロ)を始めていた。
「くっ……! なんだ、このイメージは……」
悠真が呻く。
彼にも見えているのだ。
咲月の脳裏にフラッシュバックする、過去の断片が。
無機質な実験室。
白い壁。
コードに繋がれた二人の子供。
そして、大人たちの焦燥に満ちた怒号。
――引き離せ! これ以上リンクさせるな!
――個が消滅するぞ! 『融合』が始まってしまう!
「……っ、はあ、はあッ!」
咲月はガクリと膝を折った。
それを支える悠真の腕にも、強い力がこもる。
ペンダントが光るような安っぽい奇跡などない。
あるのは、脳神経が焼き切れるような情報の逆流と、それに伴う強烈な目眩だけ。
「思い出したか、咲月」
悠真の声が、耳元で掠れる。
その吐息が鼓膜を震わせ、脳の芯を痺れさせた。
「私たちが、引き裂かれた理由……」
咲月は荒い息の下で、ノイズの海から一つの真実を拾い上げていた。
彼女の特異なパターン認識能力が、混沌とした記憶のデータから瞬時に『答え』を導き出す。
二人のデバイスは、未完成だったのではない。
完成しすぎていたのだ。
「完全な共鳴……。二つの意識を溶かして、一つにする技術」
「ああ。当時の技術じゃ、自我を保てないと判断された。だから僕たちは『互換性なし』と偽装され、引き離されたんだ」
悠真の手が、咲月の背中を這い上がる。
その摩擦熱が、恐怖を塗りつぶすように快楽の信号を送ってくる。
「でも、今の私たちなら……」
「耐えられる。いや、むしろ」
悠真が咲月の顎を持ち上げ、その瞳を覗き込んだ。
そこにあるのは、ライバル企業の冷徹なCEOの顔ではない。
半身を求める、飢えた男の瞳だった。
「この孤独を埋められるのは、世界で君だけだ」
彼の指先が、咲月の唇をなぞる。
電流が走るような感覚。
理性が警告している。
これ以上踏み込めば、もう二度と『個』には戻れないかもしれないと。
だが、身体の奥底から湧き上がる渇きは、そんな警告をあざ笑うかのように激しさを増していた。
「明日になれば、僕たちの不正アクセス記録が露見する。この秘密を知った代償だ」
「会社も、地位も、全て失うわ」
「構わない」
悠真は躊躇いなく言い放った。
その覚悟の重さに、咲月の心が震える。
「今夜、僕たちは全てを失い、そして全てを手に入れる」
「……悠真」
咲月は彼の首に腕を回した。
もう、迷いはなかった。
触覚過敏の呪いが解け、彼の熱だけが正解となるこの世界で、彼以外に何を望むというのか。
「壊して。……私を、あなたの熱で」
その言葉は、共鳴する意識を通じて、言葉以上の熱量を持って彼に伝わった。
第三章 崩壊と融合
ベッドに沈み込むと、シーツの冷たさが一瞬だけ背中を走った。
だが、すぐに悠真の重みと熱が全てを覆い尽くす。
「咲月……」
名前を呼ばれるたび、脳内のシナプスが発光する錯覚に陥る。
彼の指がブラウスのボタンを外し、露わになった肌に触れる。
その軌跡が、そのまま快感の回路として脳に焼き付けられていく。
「あ、ん……っ!」
声が漏れる。
自分のものではないような、甘く濡れた響き。
悠真の唇が首筋に落ち、そこから熱が波紋のように全身へ広がった。
痛いほどの充足感。
肌と肌が触れ合う面積が増えるたび、二人の境界線が曖昧になっていく。
「見ろ、数値が……」
悠真が掠れた声で囁く。
サイドテーブルのモニターを見る必要などなかった。
分かっていた。
二人の脳波は今、完全に同じ波形を描いている。
視界が揺らぐ。
彼を見上げているはずなのに、彼が見下ろしている光景も同時に知覚しているような、不思議な感覚。
感情が流れ込んでくる。
彼の焦燥、独占欲、そして底知れぬ愛情。
それが津波のように押し寄せ、咲月の自我を飲み込んでいく。
「熱い……悠真、頭がおかしくなりそう……」
「僕もだ。君の感覚が、僕の中で暴れてる」
悠真が苦しげに顔を歪め、それでも求めるように深く口づけをした。
呼吸が奪われる。
酸素の代わりに、彼の存在そのものが肺を満たしていく。
服など、とうに邪魔な布切れでしかなかった。
互いの全てを曝け出し、肌を重ね合わせる。
触れ合う場所から魂が溶け出し、混ざり合っていく感覚。
それは、物理的な行為を超越した、精神の融合だった。
「……っ、ぁ、あぁッ!」
彼が深く、最も近い場所へと踏み込んでくる。
身体的な衝撃と共に、脳内で光が弾けた。
痛覚と快楽の区別がつかない。
ただ、圧倒的な『熱』だけがそこにあった。
「ひとつに……なる……」
悠真の腕が強く咲月を締め付ける。
肋骨が軋むほどの抱擁。
けれど、それがたまらなく愛おしい。
彼の一部になれるなら、このまま砕け散っても構わないとさえ思った。
波が押し寄せる。
高く、大きく、抗えないうねりとなって。
「咲月、愛してる……!」
「私も……悠真、愛して……っ!」
叫びは、互いの口づけの中に消えた。
視界が真っ白に染まる。
思考が蒸発し、自分という輪郭が消失する。
そこにあるのは、二人で一つの、完全なる生命体としての鼓動だけ。
窓の外では、都市の光が雨に煙っていた。
明日、世界は彼らを断罪するだろう。
築き上げた名声は地に落ち、全てを奪われる朝が来る。
だが、そんなことは些細な問題だった。
嵐のような熱が去った後、二人は泥のように深く絡み合ったまま、静かな呼吸を繰り返していた。
指先一本動かすことさえ億劫なほどの脱力感。
けれど、その内側は、かつてないほどの平穏に満たされていた。
肌が触れている。
脈が重なっている。
それだけで、あの忌々しい世界のノイズは、もう二度と聞こえない。
咲月は薄れゆく意識の中で、悠真の腕に頬を寄せた。
この夜明けが、二人の新しい世界の始まりであることを確信しながら。