第一章 バグった配信、現れたのは
湿った空気が、六畳一間のアパートに澱んでいる。
モニターの青白い光だけが、私の世界の全て。
コンビニ弁当の空き容器と、飲みかけのエナドリ。
「あ……う、えと……」
声が出ない。
大学の学食でトレイをぶちまけた時の、あの視線。嘲笑。
喉がひきつり、指先が冷たくなる。
私は天宮響。
リアルじゃ誰とも目を合わせられない、ただのコミュ障。
でも。
『待機所1万人超え!』
『ディアシン様、降臨まだ!?』
コメントの奔流が、私の背中を叩く。
Vtuber。
それは虚構を現実に変える、現代の魔法。
皮を被れば、私は「私」じゃなくなる。
スイッチ、オン。
「愚民ども、待たせたわね! 今宵も世界の終焉まで付き合ってもらうわよ!」
マイクに向かう声は、自分でも驚くほど艶やかで、傲慢だ。
画面の中の『ディストピア★シンフォニア』が、不敵に笑う。
今日のセットリストは、最高難易度のロックバラード。
現実の惨めさを叩き潰すように。
誰にも届かない叫びを、旋律に乗せて。
喉が熱い。
胸元のペンダントが、チリチリと肌を焦がす。
最高音。
私の声が、デジタルの波形を超えて空気を震わせた、その時。
ブツンッ。
ザザザッ……!
「な、なに……?」
部屋の空間が、水面のようにぐにゃりと歪んだ。
漆黒の風が吹き荒れ、モニターが明滅する。
歪みの中心から、その男は現れた。
天井に届きそうな長身。
闇を凝縮したような黒衣。
そして、見る者を射抜く黄金の瞳。
「……ここが、深淵の果てか」
男は私を見下ろした。
リアルな恐怖に、喉から悲鳴が漏れる。
「ひっ……!」
「ほう。この声……間違いない」
男は怯えなど意に介さず、ズカズカと歩み寄る。
そして、その場に片膝をつき、私の手を取った。
「素晴らしい。その魂を削るような咆哮……我が枯渇した魔力に、これほど響くとは」
整いすぎた顔立ちが迫る。
心臓が破裂しそうだ。
「我は魔王ヴェルザード。……貴様、名を何と言う?」
「あ、あま……あまみや……」
「ヒビキか。よい名だ」
魔王はニヤリと笑うと、私のヘッドセットを指さした。
「して、その箱の中で輝く貴様の姿……我は猛烈に感動している」
は?
「これこそが、我の求めていた『覇気』だ! これより我は、貴様の『推し』となることを誓おう!」
「……はぁ!?」
私の絶叫が、六畳間に虚しく響いた。
第二章 魔王、バズる
「……うっ」
コメント欄の一行を見て、私は凍り付いた。
『調子乗んな。歌い方がキモい』
たった一件のアンチコメント。
膨大な称賛の中に混じったその棘が、私の喉を塞ぐ。
過去の嘲笑がフラッシュバックし、呼吸が浅くなる。
その時だ。
「……何だ、このふざけた記述は」
背後から伸びた大きな手が、私の肩に置かれた。
魔王ヴェルザードだ。
彼は画面を睨みつけ、私のマイクに向かって低く、重く囁いた。
「貴様ら、耳が腐っているのか? この歌声は、荒れ果てた我の故郷ですら癒やす『光』だぞ」
一瞬の静寂。
そして。
『!?』
『誰このイケボ!?』
『ディアシンちゃんを守った!?』
『てぇてぇ……!』
コメント欄が、虹色のスーパーチャットで埋め尽くされた。
「ふん、供物か。悪くない」
配信を終え、私はへたり込む。
心臓がまだバクバクしている。でも、不思議と怖くない。
「……ありがと」
「礼には及ばん。我の歌姫が穢されるのは不愉快なだけだ」
彼は冷蔵庫から勝手にコーラを取り出し、プシュッと開けた。
炭酸の泡を見つめる黄金の瞳が、ふと遠く、寂しげな色を帯びる。
「……我の世界には、もう音がない。風の音も、鳥の声も」
彼はそれ以上語らなかった。
ただ、私の歌が必要な理由だけが、痛いほど伝わってくる。
この人は、ただの居候じゃない。
私の孤独を埋めてくれる、唯一の理解者。
「……また、歌うよ」
「ああ。頼む」
彼が微かに笑った気がした。
第三章 共鳴する未来
その日、世界は歪みに耐えきれなくなった。
配信中、最高音を叩き出した瞬間、部屋全体が異空間のような紫色の霧に包まれる。
「ぐっ……! 時空の裂け目が……限界か!」
魔王が膝をつく。
彼の体が、ノイズのように点滅し始めた。
「ヴェルザード!?」
「ヒビキ! 歌え! 今こそ『修復の歌』を!」
彼の声が反響する。
「貴様の声で、我を元の世界へ送り返せ! そうすれば、この世界の歪みも消える!」
「そ、そんなことしたら……あんたは!」
「我は魔王だ! 孤独に朽ちるのが宿命!」
彼の体が透けていく。
向こう側に、荒廃した灰色の荒野が見えた。
あんな寂しい場所に、一人で?
「嫌だ……!」
マイクを握りしめる。
Vtuberは、嘘を真実に変える魔法だ。
なりたい自分になれる魔法だ。
なら、私の「推し」の運命だって、変えられるはずだ!
「誰が……誰があんたを返すもんか!」
私は叫んだ。
別れのための歌じゃない。
私のワガママを、欲望を、ありったけの想いを込めた、最強のロックを。
「私の推しは! 私が決めるんだよおおおっ!!」
ペンダントが砕け散る。
マイクがハウリングを起こし、空間の歪みを強引に縫い合わせていく。
「な、何を……! これでは貴様の世界の理が壊れる!」
「壊れない! 私が、あんたを『人間』として上書き保存するから!」
私の歌声は、魔王の概念を書き換える。
『異世界の支配者』から、『私のパートナー』へ。
光が弾け、視界が真っ白に染まった。
エピローグ 瞳の奥の野望
「はいカット! オッケーです、響さん!」
スタッフの声で、現実に引き戻される。
都内のスタジオ。新曲のMV撮影が終わったところだ。
「お疲れ。水だ」
差し出されたボトルを受け取る。
スーツ姿の長身の男。
黒髪を整え、敏腕プロデューサーの風格を漂わせる彼——ヴェルザード。
「ありがとう、ヴェル」
彼はあの日、魔力を失った。
異世界へ帰る道も閉ざされ、今は私のマネージャーとして働いている。
私のコミュ障は相変わらず。
でも、彼が隣にいるだけで、不思議と前を向ける。
「今回の新曲もバズるぞ。再生数の伸びが異常だ」
彼はタブレットを見ながら、満足げに口角を上げる。
「よかった。……ねえ、後悔してない? 魔王じゃなくなって」
ふと、聞いてしまった。
彼は手を止め、サングラスを少しずらす。
「後悔? まさか」
彼は私の髪をそっと撫でた。
「我は今、かつてないほど満たされている。武力で民をひれ伏させるより、貴様の歌で数百万の人間を熱狂させる方が、遥かに……ゾクゾクする」
その瞬間。
人間らしい瞳の奥底に、一瞬だけ、ゾッとするような黄金の光が煌めいた。
「それに、世界征服の形は一つではない。……そうだろ?」
甘く、逆らえない魔力を帯びた囁き。
私は背筋が震えるのを感じながら、嬉しくて、小さく頷く。
魔王は推しになり、そして私という歌姫を使って、この世界をもっと深く支配し始めたのかもしれない。
「さあ、次の現場だ。行くぞ、ヒビキ」
「うん、魔王さま」
二人の共犯関係は、まだ始まったばかりだ。