第一章 凍てつく指先と硝子の靴
シャンパングラスが触れ合う硬質な音が、不快なほど鮮明に鼓膜を叩く。
むせ返るような香水の甘ったるさと、脂の乗った肉料理の匂い。
王宮の舞踏会場は、私にとって処刑台よりも居心地が悪かった。
「……ご覧になって、ラドクリフ家の」
「ああ、“八百長男爵”の娘か」
「よくもまあ、ぬけぬけと」
扇子の隙間から漏れる嘲笑。視線の雨。
私は、セレスティーナ・エルメス・ラドクリフ。
かつての名門、今は泥にまみれた没落貴族の娘。
背筋をピンと伸ばし、顎を引く。
表情筋を漆喰で塗り固めたように動かさない。これが、私が身につけた唯一の鎧だった。
(大丈夫。あと二時間。二時間耐えれば、家に帰れる)
ドレスの裾を掴む指先が、白くなるほど力を込めていることに誰も気づかない。
心臓が早鐘を打ち、胃の腑が締め付けられるような吐き気を催していることも。
私は「氷の悪役令嬢」ではない。
ただの、対人恐怖症で引きこもりの、惨めな娘だ。
その時、会場の照明が落ちた。
「静粛に。宰相、グロスター公爵閣下より重大な発表がある」
重厚な静寂の中、壇上に立った男――グロスター公爵が、鷹のような鋭い眼光で会場を一巡した。
父を破滅に追いやった男。
彼が口角を上げると、貴族たちが波のように畏縮する。
「諸君。時代は変わった。血統だけの無能が国を食い潰す時代は終わりだ」
よく通る、しかし温度のない声。
「陛下は新たな『力』の定義をお求めだ。来月、王室主催の選抜戦を行う。種目は――『クロノス・レガシー』」
会場がどよめいた。
eスポーツ。貴族が「下賤な電子遊戯」と蔑むもの。
「優勝者には爵位の復活、そして国政への『拒否権』を与える」
拒否権。
それは実質、法をも超える特権。
「ただし、このゲームはただの反射神経テストではない。情報処理、戦術眼、そして……冷徹な判断力。真の支配者に必要な資質を測るものだ」
公爵の視線が、ふと私の方を向いた気がした。
背筋に冷たいものが走る。
「参加は全貴族の義務とする。無様を晒す者は、その家名ごと消え去るがいい」
『クロノス・レガシー』。
それは父が開発に携わり、そして葬られたはずの未発表タイトル。
私は無意識に、胸元のペンダントを握りしめた。
懐中時計ではない。中に入っているのは、父が遺した一枚のメモリーチップ。
『セレス。このゲームには、裏口(バックドア)なんてない。あるのは、極限まで研ぎ澄まされた“正解”だけだ』
魔法のようなハッキングツールなんて存在しない。
父は言った。
システムの隙間を突くには、人間業を超えた入力精度(プレイスキル)が必要だと。
周囲の貴族たちが「たかがゲーム」と安堵の息を漏らす中、私だけが震えを止めた。
(これは、チャンスじゃない)
公爵の笑みが、獲物を狙う蛇のように見える。
(これは、私たちを合法的に抹殺するための処刑場だ)
第二章 0.01秒の聖域
自室に戻り、重たいドレスを脱ぎ捨てた瞬間、私は床に崩れ落ちた。
「はぁ、はぁ、っ……」
過呼吸気味に息を吸う。
手が震えて、ミネラルウォーターのボトルが開けられない。
人が怖い。視線が怖い。悪意が怖い。
けれど。
私は這うようにしてデスクに向かい、旧式のゲーミングPCの電源を入れた。
冷却ファンの低い唸り声だけが、私の味方だった。
『User: CELESTINA > Login』
モニターに青白い光が灯る。
キーボードに指を置いた瞬間、震えがピタリと止まった。
ここには、嘲笑も偏見もない。
あるのは、純粋な論理と数字の世界。
『対戦相手(マッチング):子爵家嫡男、ベルンハルト』
予選第一回戦。
画面越しに、相手のボイスチャットが聞こえてくる。
「おいおい、相手はあのラドクリフの娘か? 悪いが、最新鋭の軍用デバイスを使わせてもらってるんだ。反応速度が違うぜ」
画面に現れた敵機は、課金アイテムでガチガチに固めた重装甲モデル。
対する私の機体は、父が遺した設計図を元にした、装甲の薄い初期型だ。
「さっさと終わらせてやるよ! 貧乏人は退場だ!」
敵機が猛スピードで突っ込んでくる。
直線的な動き。性能に任せたゴリ押し。
私はマウスを握る手に力を込めた。
(……見えてる)
彼の動きではない。
彼を動かしている「ゲームエンジン」の呼吸が見える。
右ストレートの予備動作、12フレーム。
着弾までのラグ、0.03秒。
今の彼が踏んでいる床のポリゴンは、処理落ちしやすい「魔の座標」。
父の言葉が蘇る。
『セレス。システムを騙すな。システムと踊るんだ』
私の指が鍵盤を叩くピアニストのように跳ねる。
通常の操作ではない。
攻撃、キャンセル、ダッシュ、キャンセル、視点変更。
一秒間に数十回の入力を叩き込むことで、サーバーに過負荷をかけ、意図的に「処理遅延」を生み出す高等技術。
通称――『幽霊の足音(ファントム・ステップ)』。
画面上の私の機体が、敵の目の前でブレて消えた。
「は!? 消え……!?」
ベルンハルトが混乱してカメラを回す。
その背後、死角(ブラインドスポット)に、私はすでに滑り込んでいた。
トリガーを引くのではない。
特定の順序でコマンドを入力する。
それは攻撃であると同時に、隠されたデータ領域へのアクセスコード。
『Hit Count: 64... Access Granted.』
敵機の装甲を貫くエフェクトと共に、私の画面の隅に小さなウィンドウが開く。
解凍されていくテキストデータ。
それは、数年前の父の不正疑惑に関する、送金ログの一部だった。
(やっぱり……このゲームの演算の中に、真実が隠されている)
ただ勝つだけではダメだ。
最高難易度のコンボを決め続け、システムリソースを限界まで使い切った時だけ、"彼ら"が隠した汚職の証拠が顔を出す。
「な、なんだこの動きは! バグだ! 卑怯だぞ!」
喚くベルンハルト。
私はマイクのスイッチを入れた。
現実では掠れて出ない声が、ここでは冷たく、鮮明に響く。
「バグではありません。……物理演算の、極致です」
最後の弾丸を撃ち込む。
敵機が爆散する光の中で、私は初めて、自分の意思で口角を上げた。
第三章 蜘蛛の糸
『WINNER: CELESTINA』
画面に表示された文字を見つめながら、私は深く息を吐いた。
一つ目の鍵が開いた。
けれど、これはまだ膨大な暗号の断片に過ぎない。
「……見事だな」
不意に、プライベートチャンネルに通信が割り込んできた。
心臓が跳ねる。
この回線は管理者権限がないと入れないはずだ。
モニターに映し出されたアイコンはない。
ただ、冷徹な男の声だけが響く。
「その入力速度。そして、サーバーの負荷を利用したメモリのスキミング。……まるで、亡きラドクリフ男爵を見ているようだ」
グロスター公爵。
私はとっさにマイクを切ろうとしたが、指が動かない。
恐怖で、身体が竦んでいる。
「誤解しないでほしい。私は君を賞賛しているのだよ。あの凡俗な貴族たちの中で、君だけが『本質』を理解している」
彼の声には、嘲りではなく、もっと粘着質な興味が含まれていた。
「だが、知りすぎたネズミがどうなるか。……賢い君ならわかるね?」
脅しだ。
私がデータを掘り起こしていることに、彼は気づいている。
気づいた上で、泳がせているのだ。
「次の試合、楽しみにしているよ。セレスティーナ嬢」
通信が切れる。
ブツン、という音と共に、静寂が戻る。
私の手は、また震え始めていた。
怖い。逃げ出したい。
布団を被って、世界の全てをシャットアウトしたい。
公爵は、私のすべてを把握している。
次に私が「勝てば」、もっと直接的な妨害に出るだろう。
社会的な抹殺か、それとも物理的な事故か。
でも。
私は視線をデスクの端に向けた。
写真立ての中の父が、優しく微笑んでいる。
『お前は不器用だけど、誰よりも諦めが悪い。それがお前の才能だ』
震える手で、私はもう一度マウスを握った。
冷たいプラスチックの感触が、熱を持った手のひらに吸い付く。
逃げれば、私は一生「八百長男爵の娘」で、ただの無力な被害者だ。
ここで戦えば、何かが変わるかもしれない。
画面の中のアバターが、私を見返している。
現実の私よりも強く、美しく、そして何より自由な「私」。
「……上等よ」
誰もいない部屋で、私は呟いた。
声は震えていたけれど、言葉ははっきりとしていた。
「私のプレイスキルで、その腐った玉座(サーバー)を焼き尽くしてあげる」
懐中時計の魔法も、奇跡もいらない。
必要なのは、0.1秒を削り出す指先と、折れない心だけ。
革命のファンファーレは、まだ鳴らない。
これは、孤独な少女が、世界に対して初めて牙を剥いた、静かな宣戦布告。
夜明け前の暗闇の中、再び冷却ファンが唸りを上げ始めた。
『Next Match: Loading...』