第1章: 違和感の連鎖
午前二時。青白いモニターの光だけが支配する密室。4Kディスプレイが放つ冷徹な輝きが、闇の中から男の青ざめた輪郭を削り出していた。
九条透(トオル)。鼻当ての跡が刻まれた鼻梁を、指先が押し上げる。ブルーライトカットのコーティングが施された分厚いレンズの奥、あからさまな不健康を示す赤黒いクマ。その瞳が、画面上のテキストを猛禽類のように走査する。季節感を無視した着古しの黒パーカー。袖口から覗く、骨張った手首。神経質なリズムで、中指が『Enter』キーを叩いた。
「論理的飛躍がありますね。幽霊ではなく、低周波音が原因でしょう」
彼が運営するオカルトフォーラム『真実の目』の管理画面。透にとって、世に蔓延る怪談など、まだ科学の光が届いていないだけの未開の荒野。今夜の標的は、SNSで急速に拡散されている『カガチ村』という架空の集落に関する噂話だ。
またひとつ、非科学的な妄言を論破し、スレッドを閉鎖しようとしたその時。画面の右下、DMの通知アイコンが音もなく点滅。
差出人不明。アイコンはノイズの走ったモノクロ写真。蠢く黒い塊。
透は眉間に皺を寄せ、躊躇いなくクリックした。
『昭和二十年八月十四日 カガチ村役場業務日誌 写シ』
添付されていたのは、黄ばみ、蟲喰いだらけになった和紙の画像。解像度は妙に高く、紙の繊維一本一本までが鮮明。墨書きの達筆な文字が、モニターの光を吸い込むように並ぶ。
『本日は雨天なり。村外よりの来訪者一名あり。黒き衣を纏い、両の眼(まなこ)に硝子の板を嵌めたる若者なり』
停止する指先。
窓の外を見る。雨。予報にはなかった激しい雨が、窓ガラスを叩きつけている。
黒き衣。硝子の板。
視線は自分の胸元へ。黒いパーカー。そして、鼻にかかった眼鏡。
「……馬鹿げている」
乾いた唇を歪め、浮かべようとした嘲笑。だが、指先が微かに痙攣し、マウスカーソルが大きく滑る。
偶然だ。質の悪い悪戯。誰かが俺の服装を知っていて、手の込んだコラージュ画像を送ってきたに過ぎない。
そう結論付けようとした瞬間、新たな画像の着信。
『若者、指先にて卓を叩く癖あり。これ、儀式の合図なり』
ハッとして見る右手。人差し指が、無意識にデスクの天板をコツ、コツ、と叩いていた。
背筋を撫で上げる、氷柱(つらら)のような悪寒。
モニターの中の文字が、ただのドットの集合体ではなく、意思を持った視線となってこちらを覗き込んでいる。そんな錯覚を振り払うべく、透は荒々しくブラウザのタブを開いた。
「IPアドレスを割る。ふざけた真似を」
第2章: 解像度の向上
深夜のコンビニエンスストアで買った強炭酸水。喉を焼きながら胃の腑へ。
透は複数のウィンドウを展開し、フォロワーである『特定班』たちが集めたデータを地図データと照合中。
「透さん、これマジでヤバくない? もうやめようよ」
通話アプリの向こうから響く、少女の震えた声。ミナミだ。
インナーカラーを派手なピンクに染めたボブカットの自撮りアイコン。常にスマホを握りしめ、世界の空気を吸うようにネットの海を泳ぐ現代っ子。だが今は、その声に滲む明らかな怯え。
「感情論は不要です、ミナミさん。座標の特定が先だ」
「だって、その村……ダムの底なんでしょ? じゃあ、なんで今、そこからDMが来るの?」
ミナミの訴えを無視し、古地図と現在の衛星写真を重ね合わせる透。
ビンゴ。
ダム湖の中央、水深八十メートルの底にかつて存在した『カガチ村』。水没したのは昭和二十年代後半。DMの『業務日誌』の日付と符合。
「アーカイブ」と名乗るアカウントから、五通目の画像。
『贄(にえ)の選定、完了せり。贄は四角き箱の中にあり。青き光に照らされ、無数の文字を操る者なり』
四角き箱。
見回す室内。六畳一間のコンクリート打ちっ放しのワンルーム。
青き光。
目の前の巨大なモニター。
無数の文字。
キーボードと、そこに表示された膨大なログ。
早鐘を打つ心臓。肋骨を内側から激しく叩く鼓動。呼吸が浅くなり、酸素が脳に行き渡らない。
これは、過去の記録ではない。
今、この瞬間、水底にあるはずの村役場で、何者かが筆を走らせている。
「透」という男を、生贄として台帳に書き込みながら。
『次ナル手順ハ、拡散ナリ』
無機質なテキストメッセージと共に、勝手に操作され始めるアカウント。リツイート、シェア、拡散。制御不能のプログラムが、カガチ村の情報を世界中へばら撒いていく。
「な、なんだこれ……操作できない!」
叫んだ瞬間、部屋の照明が明滅。
バチッ、という不快な音と共に焼き切れる蛍光灯。
残されたのは、モニターの青白い光だけ。
その光の中で、透の影が不自然に長く伸び、壁のシミと混ざり合う。人の形をした何か別のモノへの変貌を、彼は見た。
第3章: 逆転する視座
「透さん、聞こえる? ねえ、変な音がするの。水が流れるような……」
スピーカーから漏れるミナミの声。ノイズ混じりの歪み。
透はキーボードを叩く手を止められない。いや、止めようとしても指が勝手に動くのだ。
画面上の『カガチ村』に関する考察記事は、既に十万プレビューを超えていた。
その数字が増えるたび、湿り気を帯びていく部屋の空気。
床板の隙間から立ち上る、ドブ川のような腐臭。
壁紙の裏から聞こえる、ブヨブヨとした何かが這い回る音。
透の脳裏を走る、稲妻のような閃き。
「場所」じゃない。
カガチ村は、物理的な土地に縛られた幽霊屋敷などではない。
この『情報』そのものが、村。
『業務日誌』という断片的な情報を閲覧し、それを脳内で組み立て、考察し、想像した人間の意識の中に、カガチ村は再構築される。
そして、オカルトフォーラムの管理人として、誰よりも詳しく、論理的に、その村の構造を分析し、拡散してしまった自分は――。
「俺は……傍観者じゃなかった」
透の口から漏れる乾いた笑い。
自分は安全圏から怪異を覗き見る観客だと思っていた。
だが、断じて否。
俺は、この儀式を執り行う『神主』そのものだったんだ。
俺が考察を深めるほど、村の解像度は上がり、実体化する。俺が情報を拡散するほど、増え続ける生贄候補。
『儀式ノ執行、感謝ス』
モニターに表示された文字。垂れる赤黒い液体。
スピーカーを突き破るミナミの絶叫。
「いや! 来ないで! 足が、足が冷たい!! 水が!!!」
ガガガ、プツン。
切断。
透が見た足元。
消失したフローリングの床。揺らめく暗く濁った水面。
水面に映っているのは、透の顔ではない。
目も鼻もなく、ただ巨大な口だけが裂けた、名もなき村人の顔。
第4章: 悪意への反逆
「ふざけんな……ふざけんなよ……!」
ガタガタと震える手でマウスを握りしめる透。
恐怖で胃液が逆流し、喉が焼けるように熱い。だが、それ以上に血管を駆け巡る煮えたぎるような怒り。
特権階級気取りで安全圏にいた自分への怒り。
そして、何の罪もないミナミを、あの子の純粋な好奇心を利用し、食い物にしようとする古臭い因習への激しい憎悪。
「アカウント削除……削除……!」
設定画面を開く。しかし、『アカウント削除』のボタンがあったはずの場所に広がる空白。
画面の向こうで気配を感じる。何百、何千という『村人』たちが、にたにたと笑っている気配。
『逃ゲラレル、ト思ッタカ?』
モニターに浮かび上がる文字。
透は立ち上がり、モニターを掴んで揺さぶった。
「俺を誰だと思ってる……! 俺は九条透だ! テメェらみたいなカビの生えた幽霊ごときに、マウント取られてたまるかぁぁぁ!!」
脱ぎ捨てられるパーカーのフード。鷲掴みにされる乱れ髪。
論理だ。論理で殴れ。
怪異にもルールがある。観測者がいて初めて成立する『概念』ならば、その観測のされ方を書き換えればいいのだ。
「恐怖は、笑いに弱い」
血走った目で向かうキーボード。
指先から血が滲むのも構わず、凄まじい速度でタイピングを開始。
目指すのは、削除ではない。上書き。
この儀式の『解釈』を、根本からハッキングする。
第5章: 圧倒的優越と代償
開ききった瞳孔。口元に張り付く狂気的な笑み。
透は『カガチ村』の画像を編集ソフトに放り込んだ。
厳粛な業務日誌の画像に、極彩色のフィルターをかけ、挑発的なフォントで文字を打ち込む。
『【悲報】カガチ村の村長、踊ってみた動画で腰をやるwww』
『生贄儀式とか言ってるけど、これただの村おこしフェスじゃね?ww』
不謹慎極まりないコラージュ画像の数々。
透はそれを、自身が持つすべてのアカウント、裏垢、コネクションを使って一斉投下。
さらに、呪いの言葉とされていた文言をサンプリングし、安っぽいEDMにリミックス。
「拡散しろ! 怖がるな、笑え! こいつらはただのピエロだ!!」
SNSの反応は劇的だった。
恐怖の対象だった『カガチ村』は、瞬く間に「ネタ画像」として消費され、おもちゃにされていく。
『村長かわいいw』
『儀式なうに使っていいよ』
『カガチ村行ってきた(大嘘)』
大量の「草(w)」という文字が、断ち切っていく呪いの連鎖。
モニターから聞こえていた水音が、悲鳴へと変わる。
『ヤメロ……崇メヨ……恐レヨ……!』
「恐れる? お前らなんか、もう誰も見てねえよ! フリー素材がお似合いだッ!!」
最後の仕上げ。Enterキーを拳ごと叩き割る勢いで押し込む。
「死ね! 陳腐化して、忘れ去られて、データの藻屑になって消え失せろぉぉぉ!!!」
放たれる閃光。
膨張し、部屋全体を飲み込む青白い光。
ガラスが割れる音。水が蒸発する音。そして、耳をつんざくような高周波となって炸裂する、何千もの怨念の断末魔。
視界が真っ白に染まり、暗転。
鳥のさえずり。
椅子の背もたれに深く沈み込む身体。
モニターは黒く沈黙している。部屋の床は乾いており、あの腐臭も消失していた。
スマホの震動。ミナミからだ。
「……透さん? なんか私、急に寝落ちしちゃって。変な夢見てたかも。透さんがDJやってる夢」
屈託のない、いつもの声。
透は小さく息を吐き、口角を上げた。
「……そうですか。それは悪夢ですね」
立ち上がり、洗面所の鏡の前で対峙する。
そこに映る男は、変わらず黒いパーカーを着て、疲れ切った顔。
だが、ひとつだけ違っていた。
左目が、白く濁っていた。
光を失い、焦点の合わない硝子玉のような瞳。
視界の半分を閉ざす、永遠の闇。
これが、深淵を覗き込み、それを汚泥の中で踏み躙った代償。
神聖な儀式をミーム汚染させた報い。
透は鏡の中の自分に向かって、ニヤリと不敵に笑いかけた。
白濁した左目が、異界を見据えたまま、告げる勝利。
「代償は払った。だが――俺の勝ちだ」
眼鏡をかけ直し、再び暗い部屋へと戻っていく。
キーボードを叩く音だけが、高らかに響き始めた。