無臭の咎(とが)

無臭の咎(とが)

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第一章 穢れた風

江戸の風は、鼻が曲がるほど饒舌だ。

裏路地を這う下水の湿り気。

河岸から流れる魚の脂と血の気配。

だが、俺――香月薫の鼻腔を真に犯すのは、そうした物理的な悪臭ではない。

「へへ、旦那。いい反物が入りましたぜ」

擦り寄ってきた商人の襟元から、ムワリと澱んだ甘ったるさが立ち上る。

砂糖を煮詰めて焦がしたような、胃の腑が縮み上がる粘り気。

こいつは嘘をついている。

その確信が偏頭痛となって俺の眉間を割った。

俺は無言で商人を避ける。

視界の端、町娘が足早に通り過ぎる。

彼女からは、雨曝しの古釘のような、ツンとくる鉄の匂い。

何かに怯えている。

世界は、吐き気を催す情報の濁流だ。

「……くそ」

俺は藍染の手拭いを強く引き絞り、鼻と口を覆った。

肺まで届く布の摩擦臭だけが、唯一の救いだった。

「おい浪人。そこで何をしている」

不意に、鼻先を安酒と古漬けの酸っぱさが掠めた。

同心の男だ。

日常に倦み、万事を諦めた男の体臭。

「……死体だ」

俺が顎でしゃくった先、豪奢な着物を纏った骸が泥に沈んでいる。

勘定奉行の重鎮だ。

同心は顔を顰め、死体に近寄った。

「奇妙な仏だ。外傷も毒の痕跡もねえ。ただ、顔だけが般若のように引き攣ってやがる」

俺は手拭い越しに、深く息を吸い込んだ。

「おかしいな」

「あ?」

「匂いが、しない」

俺の嗅覚は、畳の目の間に落ちた砂粒の産地さえ嗅ぎ分ける。

だが、この死体の周囲三尺。

そこだけが世界から切り取られている。

死臭がない。

脂の匂いもない。

人間が死の瞬間に漏らす、糞尿と恐怖の入り混じったあの生々しさがない。

完全なる『無臭』。

その瞬間、俺の背筋に冷たい汗が噴き出した。

心臓が早鐘を打ち、喉の奥で焦げた味がした。

――薫、助けて。

脳裏を掠める、五年前の記憶。

爆ぜる梁(はり)。焼ける肉。

俺は反射的に自身の鼻を押さえた。

「おい、顔色が悪いぞ」

同心の声を無視し、俺は震える足で死体へと踏み込んだ。

この『無臭』という空白こそが、何よりも雄弁な遺留品だ。

真空の如き無の空間。

その中心にある死体の懐から、糸のような芳香が漏れ出ている。

伽羅(きゃら)。

重厚で、どこか悲しげな香木の香りが、空白の中で唯一息づいていた。

「……匂い無き者、か」

俺の古傷が、ずきりと疼いた。

この無臭は、俺が最も憎み、そして最も恐れる「あの記憶」と同じ味がした。

第二章 伽羅の文

長屋の一室。

窓を目張りし、外気を完全に遮断した密室。

卓の上には、死体から抜き取った一巻の書状がある。

『伽羅の文』。

普通の墨ではない。

鼻を近づけると、鉄錆のような鋭さが鼻腔を刺し、その奥から伽羅の甘みがねっとりと絡みついてくる。

「……何を隠している」

俺は火鉢に赤熱した炭を積み上げた。

書状をかざすのではない。

懐から、和紙に包んだ乾いた葉を取り出し、炭の上に落とした。

ジッ、と音がして、どす黒い煙が立ち昇る。

曼陀羅華(まんだらげ)とトリカブトを調合した劇薬だ。

俺はその煙に顔を突っ込み、思い切り吸い込んだ。

「がっ……、ぐぅッ!」

肺が焼ける。

喉が糜爛(びらん)し、激痛が脳髄を駆け巡る。

涙と鼻水が溢れ出し、視界が白濁して消えていく。

視覚を殺せ。

聴覚を殺せ。

痛覚という代償を支払い、嗅覚のみを極限まで研ぎ澄ます。

闇の中で、俺の鼻は獣を超えた。

漂ってくる。

この書状に染み付いた、書き手の『執念』が。

文字ではない。匂いの粒子が、映像となって脳に焼き付く。

『穢れを喰らえ。我らは清浄なる虚無なり』

腐った百合の匂い。

自己陶酔と狂信が入り混じった、甘ったるく、それでいて冷え切った臭気。

上野の山。

廃寺の方角から、この書状と同じ匂いの筋が伸びている。

だが、その匂いの奔流の中に、俺は異質なものを感じ取った。

『無臭の真空』。

あの死体と同じ空白が、上野の山に漂っている。

その空白を感じた瞬間、俺の呼吸が止まった。

(嫌だ、嗅ぎたくない)

本能が拒絶する。

あの空白の向こうには、俺が直視できない「何か」がある。

だが、行かねばならない。

俺は血の混じった唾を吐き捨て、刀を掴んだ。

指先の感覚はない。

ただ、鉄と油の匂いだけが、そこに武器があることを教えていた。

第三章 香を焚く者たち

上野の山奥、朽ちかけた堂宇。

十数人の男女が、巨大な香炉を取り囲んでいた。

白装束に身を包み、能面のような無表情で、一定のリズムで呼吸を繰り返している。

彼らの瞳に光はない。

思考を放棄した者特有の、カビた匂いが充満している。

「……貴様か。鼻の利く野良犬というのは」

香炉の前で、一人の男が振り返った。

その男から放たれる腐った百合の匂いに、俺は思わず顔をしかめた。

言葉などいらない。

その体臭だけでわかる。

こいつは、己の正義を微塵も疑っていない。

「その香炉を消せ。その煙は人を狂わせる」

「狂う? 違うな。これは『救済』だ」

男が両手を広げると、周囲の信者たちが一斉に祝詞(のりと)のようなものを唱え始めた。

香炉から紫煙が溢れ出し、凝縮され、人の形を成していく。

「世の悪臭を消し去るには、大いなる犠牲が必要なのだ」

煙の怪物が、ゆらりと俺に向いた。

来る。

俺は刀を構えたが、標的が掴めない。

目には見える。

だが、俺の感覚の全てである嗅覚が、あいつを捉えられない。

『匂い無き者』。

そこにあるはずのものが、ない。

世界に空いた穴。

「消えろ!」

俺は勘を頼りに刃を振るった。

切っ先は虚空を裂き、逆に強烈な衝撃が俺の体を吹き飛ばした。

「がはっ!」

背中を柱に打ち付ける。

物理的な痛み以上に、精神が削られる感覚。

『無臭』が近づくたび、俺の心臓は早鐘を打ち、脂汗が止まらなくなる。

(怖い、怖い、怖い)

なぜだ。

なぜ俺は、匂いがないだけでこれほど怯える。

薄れゆく意識の中で、俺は五年前の炎を見ていた。

燃え落ちる屋敷。

取り残された妻。

『薫、逃げて!』

彼女の絶叫。

そして、炎が彼女を包んだ瞬間――俺は、鼻を閉じた。

愛する者が炭化していく匂いを。

肉が焼け、髪が焦げる、絶望の臭気を。

俺は嗅ぐことを拒絶した。

『無臭』の正体。

それは敵の術ではない。

俺自身の脳が作り出した、防衛本能という名の拒絶領域だったのだ。

第四章 赦しの薫り

「終わりだ。その穢れた鼻と共に朽ち果てろ」

男が嘲笑う。

煙の巨人が、俺を飲み込もうと迫る。

その『空白』は、俺のトラウマそのものだ。

俺は震える手で、顔を覆っていた手拭いを掴んだ。

逃げるな。

塞ぐな。

その向こう側にしか、真実は匂わない。

「……うおおおおッ!」

俺は手拭いを引きちぎり、眼前の『無臭』に向かって、限界まで息を吸い込んだ。

「馬鹿な! 瘴気を吸えば発狂するぞ!」

構うものか。

俺は肺の底まで、その空白を吸い込んだ。

途端、脳髄が焼き切れるほどの悪臭が炸裂した。

(熱い! 痛い! 苦しい!)

妻の断末魔。

焦げた肉の匂い。

見捨てた自分への嘔吐感。

それらが濁流となって俺を犯す。

胃の中のものをすべて吐き出したくなるほどの、強烈な死と後悔の臭気。

だが、俺は吸い続けた。

その腐臭の嵐の中を、血反吐を吐きながら這い進む。

まだだ。

この悪臭の奥に、何かがある。

あの日、炎の中で彼女が最期に残したものが。

意識が遠のく寸前。

焦げた匂いの核(コア)に、一筋の芳香を見つけた。

日向に干した着物の匂い。

朝餉の味噌汁の湯気。

安物の白粉と、彼女の髪からいつも漂っていた椿油の香り。

「……ああ」

涙が溢れた。

そうだ。死の瞬間まで、お前はこんなにも「生きて」いたのか。

悪臭が消えた。

いや、悪臭ごと、俺は彼女を受け入れたのだ。

世界が色を取り戻す。

『無臭』だった空間に、鮮明な匂いの輪郭が浮かび上がる。

怪物の正体は、行き場を失った悲嘆の煙。

その中心に、赤黒く脈打つ伽羅の塊が見えた。

「見えたぞ」

俺は地面を蹴った。

迷いはない。恐怖もない。

ただ、愛おしさだけが刃に乗る。

「眠れ」

一閃。

刀身が煙を切り裂き、核である伽羅を両断した。

悲鳴のような風切り音と共に、怪物が霧散していく。

腐った百合の匂いが消え、あたり一面に、雨上がりの土のような静謐な香りが満ちた。

それは、長い悪夢の終わりを告げる、赦(ゆる)しの匂いだった。

終章 風の行方

事件の後、香を焚く集団は奉行所に捕縛された。

連続変死事件は「流行り病による錯乱」として処理され、江戸の町はまた、騒がしい日常を取り戻しつつある。

長屋へ戻った俺は、固く閉ざしていた窓を全開にした。

どぶ川の腐臭。

隣家の煮炊きの匂い。

往来を行く人々の汗と埃の匂い。

かつては顔をしかめていたそれらが、今はどうしようもなく愛おしい。

清廉潔白な世界などない。

善も悪も、喜びも悲しみも、全てが入り混じって、この世界は回っている。

「……相変わらず、臭い町だ」

俺は苦笑し、深呼吸をした。

肺の奥には、まだあの日の焦げた匂いが微かに残っている。

だが、それでいい。

この痛みもまた、俺が生きていくためのよすがなのだから。

「さて、行くか」

俺は刀を佩き、外へと歩き出した。

風が吹いている。

次はどんな匂いが、俺を待っているのだろうか。

無臭の恐怖はもう、ない。

俺の鼻は今、世界の全てをあるがままに慈しんでいるのだから。

AIによる物語の考察

「無臭の咎」は、研ぎ澄まされた嗅覚を持つ男、香月薫が自身の魂の傷と向き合う物語です。

1. **登場人物の心理**:
薫が恐れる「無臭」は、彼自身の深いトラウマが生んだ拒絶領域でした。5年前、炎で妻を失い、その壮絶な死の匂いを嗅ぐことを拒絶した「咎」。脳は残酷な記憶から自身を守るため「無臭」の幻影を作り出し、世界の多様な匂い(現実)から彼を隔絶させていました。最終的に、過去の悲劇と妻の死の匂いを全て受け入れることで、薫は自己と世界を赦します。

2. **伏線の解説**:
冒頭、薫が「饒舌な江戸の風」や、物理的悪臭だけでなく商人の「嘘」の匂いを嫌悪する描写は、彼の嗅覚が心理的情報まで捉え、情報過多に苦しむことを示唆。最初の無臭の死体から「あの記憶と同じ味がした」と感じる感覚は、「無臭」が単なる現象でなく、薫自身のトラウマと深く結びついていることへの巧妙な伏線となっています。

3. **テーマ**:
本作は、人間が避けがちなトラウマとの徹底的な向き合い、そして世界のありのままの姿を受容することの重要性を問う作品です。清浄な無臭を理想とするカルト集団との対峙を通じ、薫は善悪美醜混ざり合う現実こそ「生きる」ことの真髄だと悟る。最後に感じる「赦しの匂い」は、過去の「咎」からの解放、自己と世界への和解、そして新たな再生を象徴しています。
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