漂流する夏の残り香

漂流する夏の残り香

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第一章 違和感の残滓

九月の教室には、発酵したような熱気が澱んでいた。

窓際の席から空を見上げると、入道雲の残骸が、灰色に濁って崩れかけている。

「マジで最高だったんだって、今年の海!」

前の席の男子生徒が、椅子をガタガタと揺らしながら振り返る。

「水がキンキンに冷たくてさ。やっぱ夏は海だよな」

俺、灰崎湊は、頬杖をついたまま彼のアゴのあたりをぼんやりと眺めた。

彼は大げさに腕を振り回して語る。

「そうか。……日焼け止め、相当厚く塗ったんだな」

俺の指摘に、彼はキョトンとして自分の腕を見る。

そこには、赤みも、皮が剥けた跡も、メラニンの沈着すらない。

蛍光灯の下で、病的なほど青白い皮膚が晒されている。

「え? ああ、まあな。俺、焼けにくい体質だから」

彼は一瞬、奇妙なほど無表情になり、すぐにまた笑顔を貼り付けた。

まるで、傷ついたレコードが無理やり音を繋いだような不自然さ。

俺は無造作に、彼の肩へ指先を触れさせる。

――ザラリ。

指の腹に走る、砂嵐のようなノイズ。

俺の脳裏に流れ込んでくるはずの「映像」がない。

冷たい海水も、潮の香りも、焼けるような日差しも。

そこにあるのは、「楽しかった」という文字が書かれただけの、真っ白なキャンバスだ。

(……今年も、全員か)

胃の腑に、鉛を飲み込んだような重さが沈む。

この学園の夏休み明けは、いつも何かが欠落している。

誰もが口を揃えて「最高の夏」を語るが、その瞳の奥には焦点のない空洞が広がっているのだ。

俺以外は。

「湊、なに死んだ魚みたいな目をしてるんだよ」

頭上から降ってきた声に、思考が途切れる。

生徒会長の佐倉悠真が、苦笑いを浮かべて立っていた。

整えられた制服。隙のない立ち姿。

誰からも好かれる完璧な優等生。

「悠真か。……お前こそ、夏休みはどうだった?」

俺は試すように問いかける。

悠真の笑顔が、一瞬だけ凍りついた。

呼吸のリズムが乱れ、喉仏が小さく上下する。

「ああ、生徒会の合宿で忙しかったよ。書類整理とか、文化祭の準備とかさ」

嘘だ。

俺の能力を使わなくても分かる。

彼がポケットに突っ込んでいる左手が、布越しに激しく痙攣している。

「へえ、合宿か。どこに行ったんだ?」

「……山だよ。涼しくて快適だった」

悠真が俺の机に手をつく。

俺はその手首を、ふいに掴んだ。

瞬間。

脳髄を直接鷲掴みにされたような、強烈な吐き気が込み上げる。

――締め切られたカーテン。

――カビと湿気の臭い。

――そして、喉が張り裂けるような嗚咽。

「っ……!」

俺は思わず手を離した。

今のは、合宿の記憶じゃない。

もっと深く、重く、粘着質な絶望の断片。

指先に、氷を触った後のような痛みが残る。

「湊?」

悠真が怪訝そうに眉を寄せるが、その瞳は怯えに揺れている。

「……いや、静電気だ」

俺は嘘をつき、視線を逸らした。

心臓が嫌なリズムで早鐘を打っている。

悠真は、何かを知っている。

この学園全体が忘却という名の安寧に浸る中、彼だけが、必死に「何か」を食い止めている。

その時、昼休みの予鈴が鳴り響いた。

「じゃあな、湊。放課後、図書室で」

悠真は逃げるように去っていった。

その後ろ姿は、いつもの自信に満ちたものではなく、何かに追われる獲物のようだった。

第二章 記憶の残り香

放課後の図書室は、古紙と埃の匂いが充満している。

西日が長く伸び、書架の影をどす黒く染めていた。

俺は約束の時間より少し早く着き、奥の閲覧席へ向かう。

そこは普段、誰も寄り付かない閉架書庫の近くだ。

ふと、机の脚元に何かが落ちているのに気づく。

真鍮製の、アンティークなしおり。

複雑な幾何学模様の中央に、黒っぽい木片が埋め込まれている。

拾い上げると、指先に微かな温もりが残っていた。

鼻を近づける。

甘い。

腐りかけの果実のような、あるいは雨に濡れたアスファルトのような、独得の香り。

香木か? いや、これは――。

その瞬間だった。

ガツンッ!

頭を鈍器で殴られたような衝撃。

視界が歪み、現実の図書室が遠のく。

嗅覚がトリガーとなり、強烈な「映像」が網膜を焼いた。

――雨音。

――フェンスにしがみつく指。白く鬱血した指先。

『もう、いいよな』

掠れた少年の声。

それは、聞き覚えのある声だった。

『誰も見てない。誰も知らない。俺がいなくなっても、明日は来るんだろ?』

視界が激しく揺れる。

見下ろした先には、濡れたコンクリート。

背後から、無数の笑い声が聞こえる。

クスクス、ゲラゲラ。

嘲笑の波が、鼓膜を突き破って脳髄を犯す。

『消えちゃえばいいのに』

誰かの呟きが、決定的な引き金となる。

「はっ、……あ……」

俺は過呼吸のように息を吸い込み、机に突っ伏した。

冷や汗が背中を伝う。

今のは何だ?

誰の記憶だ?

映像の中、フェンスを掴んでいた手。

その手首に巻かれていた、シルバーのブレスレット。

傷だらけのそれを、俺は見知っている。

あれは、悠真が肌身離さず身につけている形見だ。

「……湊?」

背後から、張り詰めた声がした。

振り返ると、悠真が立ち尽くしている。

彼の視線は、俺の手にあるしおりに釘付けになっていた。

顔色が、死人のように白い。

「それ、どこで」

悠真の声が震えている。

いつもの冷静な生徒会長の仮面は、見る影もなく剥がれ落ちていた。

「落ちてたんだ。……悠真、この匂い、お前の記憶だな?」

俺はしおりを彼に向ける。

悠真は後ずさり、棚に背中を打ち付けた。

「よせ……! その匂いを嗅ぐな!」

「なんでだ? これを嗅ぐと、見えるんだよ。お前が隠してるものが」

俺は立ち上がり、悠真との距離を詰める。

このしおりは、おそらく「香りの記憶」を閉じ込める媒体。

悠真自身が、忘れてはならないと無意識に持ち歩いていたものか、あるいは――。

「数年前の失踪事件。……本当は失踪なんかじゃなかったんだろ?」

俺の言葉に、悠真の瞳が大きく見開かれる。

「あいつは、自分で……」

「やめろ!!」

悠真が叫び、俺の胸倉を掴んだ。

その勢いで、俺たちは書架に身体をぶつける。

本が数冊、ドサドサと床に落ちた。

「思い出すな……! せっかく、みんな忘れてくれたのに!」

悠真の瞳から、涙が溢れ出した。

怒りではない。

それは、底知れぬ恐怖と、助けを求めるような弱さ。

俺は彼の腕を掴み返し、その目を見据える。

「お前は、何を忘れたかったんだ」

「全部だ……! あの日の雨も、あいつらの笑い声も、僕の弱さも!」

悠真の手から力が抜けていく。

彼は崩れ落ちるように、その場に膝をついた。

「システムが守ってくれているんだ。僕たちの心を。……これ以上、壊れないように」

俺は悠真の肩に手を置く。

今度は拒絶されなかった。

流れ込んでくる記憶。

それは断片的ではなく、濁流となって俺の中に押し寄せてきた。

第三章 共有する傷跡

記憶の中で、俺は真実を追体験する。

悠真はいじめのターゲットだった。

優等生という仮面の下で、陰湿な暴力と嘲笑に晒され続けていた日々。

あの日、屋上で彼は死を選ぼうとした。

だが、それを止めたのは「学園そのもの」だった。

生徒たちの集合的無意識。

「面倒事は見たくない」「平和な日常が欲しい」「悲劇なんて知らない」

そんな利己的で、しかし切実な願いが、巨大な意思となって具現化した。

それが、この季節に起きる記憶喪失の正体。

学園は、悠真の自殺未遂という事実そのものを「なかったこと」として処理したのだ。

生徒たちの記憶から、その原因となったいじめの事実ごと、綺麗さっぱり消去することで。

悠真自身もまた、その忘却を受け入れた。

生き延びるために。

壊れた心を繋ぎ止めるために、自ら記憶を捨て去ることを選んだのだ。

「……思い出したくないよ」

床に座り込んだまま、悠真が呟く。

その声は、迷子の子供のように頼りない。

「思い出したら、僕はまたあの屋上に戻ってしまう。……みんなが笑っている、あの地獄に」

俺はしおりを握りしめる。

この香りは、消されたはずの真実を呼び覚ます鍵。

おそらく、かつての悠真が、未来の自分へのSOSとして残したものだろう。

だが今の彼には、それは猛毒でしかない。

「湊、頼む。……忘れてくれ」

悠真が俺を見上げる。

懇願するような瞳。

「真実を暴いても、誰も救われない。加害者たちは罪を認めないし、学園は混乱するだけだ。僕は……僕はただ、普通に生きたいだけなんだ」

俺の中で、葛藤が渦巻く。

正義感? そんな立派なものは俺にはない。

俺はずっと、他人の記憶を覗き見るだけの傍観者だった。

自分の中に空っぽの穴が開いているから、他人の感情でそれを埋めてきただけだ。

でも、このまま悠真一人に、無意識の重荷を背負わせていいのか?

記憶を消しても、彼の魂に刻まれた傷跡は消えない。

だから彼は、毎年夏が来るたびに震えているのだ。

俺はゆっくりと、しおりをポケットにしまった。

「……分かった」

俺の言葉に、悠真が安堵の息を漏らす。

「ありがとう、湊……」

「勘違いするな。忘れるとは言ってない」

俺は悠真の前にしゃがみ込み、彼の視線と高さを合わせた。

「真実は公表しない。誰にも言わない。……でも、俺は覚えている」

「え……?」

「お前がどれだけ苦しかったか。どれだけ痛かったか。俺が見てきた映像のすべてを、俺の中に残す」

俺は自分の胸を拳で叩いた。

空っぽだった俺の中に、初めて、確かな重みが宿るのを感じた。

「お前が忘れたくなったら、忘れろ。でも、俺がお前の代わりに覚えておく。お前の痛みは、なかったことにはさせない」

悠真が息を呑む。

その瞳に、新たな涙が滲んだ。

今度は恐怖の涙ではない。

「……そんなの、湊が辛いだけじゃないか」

「平気だ。俺は傍観者だからな。他人の記憶を見るのは慣れてる」

軽口を叩いてみせると、悠真は泣き笑いのような、ぐしゃぐしゃの表情を浮かべた。

「馬鹿だな、お前は……」

「ああ、馬鹿でいい」

窓の外では、陽が沈みかけていた。

茜色の光が、埃っぽい図書室を優しく包み込んでいる。

学園はまた、嘘の記憶で塗り固められた日常へと戻っていくだろう。

生徒たちは何も知らず、偽りの青春を謳歌する。

けれど、俺と悠真の間には、確かな真実がある。

共有された痛みがある。

それはきっと、どんな鮮明な映像よりも重く、温かい絆だ。

「帰ろうぜ、悠真」

俺が手を差し伸べると、彼は強くその手を握り返してきた。

その手のひらの熱さだけは、嘘偽りのない、生きた人間の温もりだった。

廊下に出ると、どこからか金木犀の香りが漂ってきた気がした。

歪な夏が終わり、また新しい季節が、静かに始まろうとしていた。

AIによる物語の考察

深掘り解説文:漂流する夏の残り香

**登場人物の心理:**
主人公・灰崎湊は、他者の記憶を覗き見る傍観者から、悠真の痛みを「代わりに覚える」ことで自己の空虚さを埋め、真の絆を見出す。佐倉悠真は、完璧な仮面の下に隠した過去のいじめと向き合い、忘却の安寧と真実の狭間で葛藤。湊との共有によって、過去の呪縛から解放される。

**伏線の解説:**
生徒たちの不自然な「最高の夏」の記憶(日焼けがない、描写が曖昧)や、悠真の一瞬の凍りつきは、学園全体に特定の事実を「なかったこと」にする集合的無意識のシステムが存在することを示唆する。物語の鍵となるしおりの「香り」は、悠真が過去の自分へのSOSとして残した、消された真実を呼び覚ます媒体だ。

**テーマ:**
本作は、いじめという悲劇を「なかったこと」にするシステムの安寧と、個人の魂に残る真実の重さを対比させる。傍観者だった湊が共感者へと変貌し、真実を共有することで、忘却ではなく寄り添いによる救済と、偽りのない絆が生まれることを描いている。歪な夏の終わりは、彼らの新たな関係の始まりを告げる。
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