第一章 硝子の指先
綿の飛び出した古びたテディベア。
その綻(ほころ)びを、カインの指先がなぞる。
老婆の目から溢れた涙が、熊の毛並みに落ちた瞬間だった。
カインの掌(てのひら)が、ぼんやりと熱を帯びる。
日向の匂い。
煮込みスープの湯気。
幼い子供の笑い声。
それらが光の粒子となって指先から流れ込み、破れた布地を縫い合わせていく。
針も糸もない。
ただ、老婆の想いだけが、形を取り戻す力となる。
「……あぁ、あの子が帰ってきたようだねぇ」
修復された人形を抱きしめ、老婆がくしゃりと顔を歪めた。
その涙が床に落ちるたび、部屋の空気が温かな黄金色に明滅する。
カインは報酬の銀貨を受け取り、短く一礼して屋敷を出た。
重厚な樫の扉が閉まる。
途端、指先に残っていた温もりは、嘘のように消え失せた。
「……寒いな」
カインは懐から銀時計を取り出した。
親指で蓋を弾く。
そこにあるのは、鏡のように磨かれた銀色の盤面だけ。
時を刻む針はあるが、持ち主を示す『紋章』がない。
誰の想いも、誰の記憶も宿っていない、空っぽの鏡。
「カイン、終わった?」
石畳の路地。
相棒の少女リアが、石段に座り込んでいた。
齧りかけの林檎を持っているが、その表情はどこか退屈そうだ。
「ああ。いい依頼だった。たっぷりの『愛情』が見えたよ」
「ふーん。で、あんた自身の空っぽは埋まった?」
リアの遠慮のない言葉が、カインの胸を突く。
カインは時計を握りしめ、首を横に振った。
「いいや。俺の過去は、今日も霧の中だ」
その時、石畳を駆ける足音が響いた。
郵便配達の少年が、息を切らしてカインの前で止まる。
「カインさん! これ、あんた宛てだ!」
手渡されたのは、雨風に晒されて変色した油紙の包み。
差出人の名はない。
封を開けると、一枚の肖像画と、炭で書かれたメモが滑り落ちた。
カインの息が止まる。
肖像画には、若い夫婦と、その間に立つ幼い少年。
少年の顔は、幼き日のカインそのものだった。
だが、夫婦の顔だけが、黒く塗りつぶされている。
インクではない。まるで、そこだけ世界から焼き切られたように、紙が焦げ付いていた。
『真実は、色のない谷に眠る』
メモを拾い上げたカインの指が、微かに震えた。
「色のない谷……『虚無の谷』か?」
リアが林檎を食べる手を止め、顔をしかめる。
地図の北端。
生命の源が枯れ果て、何人も立ち入らぬ禁忌の地。
「行くぞ、リア」
「はあ? 本気? あそこに行ったら、生きた心地なんてしないわよ」
「この時計が、今まで一度も熱を持ったことがない理由……それがそこにある」
カインは肖像画を強く握りしめた。
指先の感覚が、今まで感じたことのない疼きを訴えていた。
第二章 呼吸する廃墟
北へ進むにつれ、世界から色が剥落していった。
緑豊かだった木々は、灰色の骨のような枯れ木へと変わり、空は鉛色に淀んでいく。
生き物の気配はおろか、風の音さえもしない。
鼓膜を圧迫するような、重苦しい静寂。
「……っ、はぁ、はぁ」
リアの呼吸が荒い。
顔色は青白く、足取りがおぼつかない。
大気に満ちるはずの力が枯渇したこの場所は、彼女のように鋭敏な感覚を持つ者にとって、水のない水槽のようなものだ。
「リア、ここで待っていろ」
「馬鹿……言わないで。あんた一人にしたら……この灰色の景色に溶けて、消えちゃいそうだから」
リアは強がって笑うが、その手はカインのコートの裾を固く掴んでいた。
霧の向こうに、屋敷の影が浮かび上がる。
屋根は焼け落ち、壁は崩れているが、その骨組みだけが墓標のように立っていた。
肖像画の家だ。
カインは瓦礫の山となった玄関を跨いだ。
記憶の断片すら浮かばない。
あるのは、圧倒的な「不在」の感覚だけ。
床に散らばる割れた食器。
色褪せたカーテン。
それらに触れても、指先には何も伝わってこない。
喜びも、悲しみも、絶望すらも。
すべてが吸い尽くされている。
「普通、どんなに時間が経っても、人が住んでた場所には『残り香』があるはずでしょ?」
リアが寒さに腕をさすりながら呟く。
「まるで、世界そのものがここを『なかったこと』にしようとしてるみたい」
カインは、屋敷の奥へ進んだ。
一階の突き当たり。かつて書斎だったとおぼしき部屋。
本棚は朽ちていたが、床の一点だけ、埃の積もり方が不自然な場所があった。
カインはしゃがみ込み、床板を指で払う。
幾何学模様の溝が現れた。
「隠し通路……」
溝に指をかける。
爪が割れそうになるほど力を込めると、錆びついた金属音と共に床板がスライドした。
ぽっかりと口を開けた闇。
そこから、冷気とは異なる、肌を刺すようなプレッシャーが吹き上がってくる。
「カイン、なんか変よ。この感じ……」
リアが後ずさる。
カインは懐中時計を取り出した。
死んだように沈黙していた銀の盤面が、カチリ、と微かな音を立てた気がした。
「待ってろ」
カインは梯子(はしご)に足をかけた。
一段降りるたびに、心臓の鼓動が早鐘を打つ。
地下室の床に足がついた瞬間。
カッ!
暗闇の中で、足元の魔法陣が強烈な光を放った。
「うわあああっ!」
カインの意識が、光の渦へと飲み込まれていく。
第三章 忘却の代価
目を開けると、そこは崩壊前の屋敷だった。
だが、色彩がおかしい。
セピア色の世界。
記憶の残滓(ざんし)の中に、カインは立っていた。
「……もう、時間がない」
男の声が震えている。
窓際に立つ父だ。
その視線の先、窓の外の空が、ばっくりと裂けていた。
紫電を散らす亀裂が、世界の空を飲み込もうとしている。
終末の光景。
「防壁が破られる。このままでは、世界ごともっていかれるぞ」
「なら、私たちが『蓋』になるしかないわ」
母が、カインの眠る揺りかごを背にして立った。
その瞳に迷いはないが、唇は白く乾いている。
父が苦悶の表情で髪をかきむしる。
「だが、それには俺たちの全存在を……命だけじゃない、存在したという『事実』そのものを燃料にする必要がある。歴史からも、人々の記憶からも、俺たちは消滅するんだ!」
父は揺りかごに駆け寄り、眠る赤ん坊のカインを見下ろした。
その目から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
「カインの記憶からも、俺たちは消えるんだぞ! あの子は、愛された記憶すら持たずに、たった一人でこの世界に残されるんだ!」
カインの胸が締め付けられる。
見ていることしかできない。
声は届かない。
「それでも、あの子が生きていく世界が残るなら」
母が父の手を握りしめた。
震える二つの手が、強く絡み合う。
「ごめんね、カイン」
母が泣き笑いのような表情で、赤ん坊の頬に触れた。
「私たちはあなたに、温かい思い出を残してあげられない。パパとママがいたことさえ、あなたは忘れてしまう」
「だが、これだけは覚えていてくれ」
父がカインの小さな胸元に、あの銀時計を置いた。
今はまだ、誇らしげな家紋が刻まれている時計を。
「お前が孤独に凍える夜も、私たちは形を変えて、この世界の一部となってお前を包んでいる。風となって、光となって、お前を守っている」
空の亀裂が、屋敷の屋根を吹き飛ばした。
轟音。
迫り来る虚無。
「愛している」
「生きろ、カイン!」
二人が叫んだ瞬間。
二人の体から、眩いばかりの光が噴き出した。
それは命の輝きそのものだった。
光は柱となって天を突き、裂けた空を縫い合わせていく。
その輝きと引き換えに、父の体が、母の体が、透き通っていく。
指先から、砂のように崩れ、光の粒子となって空へ吸い上げられていく。
「いやだ……行かないでくれ!」
カインは叫び、手を伸ばした。
だが、その手は二人の体をすり抜けた。
屋敷のエテルも、庭の花々も、すべてが光となって昇華する。
世界を修復するための代価。
残されたのは、空っぽの部屋で泣く赤ん坊と、紋章の消え失せた銀の時計だけ。
カインは、その光景がホワイトアウトする最期まで、消えゆく両親の笑顔を目に焼き付けた。
第四章 銀の鼓動
「カイン! 息をして! カイン!」
リアの悲鳴のような声で、現実に引き戻された。
カインは地下室の冷たい床に大の字になっていた。
目尻から伝う涙だけが、火傷しそうなほど熱い。
「……見たよ、リア」
「え?」
「俺の家族は、捨てたんじゃなかった。全部、世界のために捧げてくれていたんだ」
カインは身を起こした。
地下室の空気は冷たい。
だが、カインの胸の奥、ずっと風が吹き抜けていた空洞には、確かな熱が宿っていた。
「記憶も、歴史も、もう戻らない。彼らは『いなかったこと』にされたままだ」
それは、あまりにも残酷な真実だった。
けれど、もう寒くはない。
カインは懐から時計を取り出した。
「あっ……カイン、それ」
リアが目を見開く。
埃まみれの懐中時計。
その空白だった銀色の盤面に、変化が起きていた。
中心から外側へと広がる、幾重もの波紋。
それは、かつての紋章ではない。
過去を受け継ぎ、未来へと広げていく『新たな始まり』の刻印。
時計の中で、カチリ、カチリと、力強い鼓動が聞こえ始めていた。
「行こう、リア」
カインは時計を胸ポケットにしまい、立ち上がった。
階段を登り、地上へ出る。
鉛色だった空の雲が切れ、薄日が差し始めていた。
瓦礫の隙間。
枯れ果てていた庭の片隅に、小さな双葉が芽吹いているのが見えた。
両親が残した最後の一滴、その名残が、ここで新たな命を育んでいたのだ。
「どこへ行くの?」
リアが涙を拭いながら尋ねる。
カインは、光の差す南の空を見つめ、静かに微笑んだ。
「みんなが待っている。俺たちが繋いでいくんだ。彼らが守り抜いた、この世界で」
カインの歩き出す足取りは軽い。
その背中を、見えない風が優しく押していた。