灰色の世界で、君と青を聴く

灰色の世界で、君と青を聴く

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第一章 錆びついたノクターン

グラスがカウンターに置かれる音は、濁った茶色の「ド」だった。

「……それで?」

私は杖の先で床を小突きながら、向かいの席に座る男の気配を探る。

男の匂いは、古い紙と湿った土。そして、彼が発する音色は、ひどく掠れたチェロのようだ。

「頼みたいのは、案内だ」

男の声が震えている。

「あんたが『音で色を見る』って噂は聞いてる。この灰色の世界で、唯一色彩を知る女だと」

「過大評価ね。私はただの盲目よ。世界が灰色になったことさえ、誰かに教わらなきゃ知らなかった」

嘘だ。

私の耳には、世界の全てが極彩色の音楽として響いている。

錆びた鉄扉の軋みは暴力的な赤。

雨の雫は冷徹な銀のピチカート。

そして、目の前の男の焦燥は……いまにも崩れ落ちそうな、くすんだ黄土色だ。

「どこへ行きたいの」

「『最果ての塔』だ」

酒場の空気が凍りついたのがわかった。誰かが息を呑む音が、鋭い不協和音となって耳を刺す。

「自殺志願者? あそこには『静寂』が巣食ってる。音を立てれば食われるわ」

「金なら払う」

男が革袋をテーブルに投げ出した。

重たい金属音。中身は旧時代の通貨か、それとも食料か。

「……金じゃ動かないわ」

「なら、これを」

男が何かを差し出した。

それは、小さな小瓶のようだった。男が栓を開けた瞬間。

――キィィィィン。

私の脳髄を、突き抜けるような高音が駆け巡った。

あまりの美しさに、私は思わずサングラスの下で目を見開く。

それは「碧(あお)」だった。

かつて空にあったという、透き通るような碧の旋律。

「これは……?」

「『空の記憶』だ。ほんの僅かだが、俺が持っている最後の色だ」

男のチェロのような声が、哀願の響きを帯びる。

「頼む。俺の命が尽きる前に、どうしてもあそこへ行かなきゃならないんだ」

私は唇を噛んだ。

この退屈で騒々しい灰色のノイズに満ちた世界で、その碧の音色はあまりにも甘美だった。

「……名前は?」

「ギルバートだ」

「いいわ、ギルバート。私があなたの目になりましょう。ただし、死んでも文句は言わないでね」

私は立ち上がる。

杖が床を叩く。

その音は、冒険の始まりを告げる、硬質なスネアドラムのように響いた。

第二章 静寂の森とノイズの獣

都市部を抜けると、世界から「旋律」が消えた。

静寂の森。

ここでは風さえも音を殺して吹く。

「足元、気をつけて。根が張り出してる」

私は小声で指示を出す。

ギルバートの足取りは重い。老体には堪える道程だ。

「……エララ、と言ったね」

「無駄口は叩かないで。奴らが来るわ」

「奴ら?」

「『ノイズ・イーター』よ」

直後、私の耳が微かな異変を捉えた。

色彩の欠落。

森の木々が発する緑の低音が、ある一点だけごっそりと消失している。

「右へ! 走って!」

私はギルバートの腕を引いた。

その瞬間、私たちがいた場所を、何かが音もなく薙ぎ払った。

「な、なんだ!?」

「声を出さないで!」

見えない敵。

だが、私には「聞こえる」。

奴らは「無音」という音を纏っている。

周囲の環境音が不自然に途切れる場所、それが奴らの居場所だ。

(3時の方向、黒い無音が迫ってくる……!)

私は懐から鉄球を取り出し、反対方向の岩場へ投げつけた。

ガァンッ!

甲高い衝突音が響く。

その瞬間、無音の塊が岩場へと殺到した。

「今よ、抜けるわ!」

私たちは泥にまみれながら斜面を滑り降りる。

心臓の鼓動が、早鐘のようなドラムソロを奏でていた。

安全な岩陰に隠れ、荒い息を整える。

ギルバートが苦しそうに咳き込んだ。

その咳の音に、不吉なノイズが混じっている。

壊れた蛇腹楽器のような、死の気配。

「……あんた、病気なの?」

「……ただの寿命さ。この世界と同じでね」

彼は自嘲気味に笑った。

「世界は死にかけている。色が失われたあの日から」

「『色彩喪失の日』ね。科学者たちが大気中の光の屈折率をいじって、失敗した」

私は学校で習った通説を口にする。

ギルバートは黙っていた。

その沈黙は、先ほどの森の静寂とは違う。

重く、粘り気のある、鉛色の沈黙だった。

「……ねえ、最果ての塔に何があるの?」

私は問いかける。

「色が戻る魔法でも隠されてるわけ?」

「償いがあるんだ」

「償い?」

「ああ。私が……置き忘れてきた、一番大切な色が」

彼の声色が僅かに変わった。

それは、後悔という名の、深く沈んだ藍色だった。

第三章 プリズムの塔

三日目の朝、私たちは塔の麓に辿り着いた。

かつて電波塔だったその場所は、錆と蔦に覆われ、巨大な墓標のように天を指していた。

「ここからは登りよ。心臓、保つ?」

「這ってでも登るさ」

螺旋階段を一歩踏みしめるたびに、塔全体が呻くような音を立てる。

風が強くなってきた。

鉄骨を吹き抜ける風が、まるでフルートのように高い音を奏で始める。

私の「視界」には、風が描く淡い水色の軌跡が舞っていた。

「綺麗……」

思わず呟く。

「何か、見えるのか?」

「風の色よ。ここは地上より音が澄んでいる。水色のリボンみたいに、風が踊ってる」

ギルバートは足を止めた。

「……君には、世界がそう見えているのか」

「ええ。皮肉なものでしょう? 目が見えない私だけが、この世界の美しさを知ってるなんて」

「いや……」

ギルバートの手が、私の肩に触れた。その手は温かく、そして震えていた。

「それは、君の心が美しいからだ。音を光に変える才能……『共感覚』の極致だ」

私たちはさらに登った。

頂上が近づくにつれ、ギルバートの息遣いは絶え絶えになっていく。

「置いていってくれ……とは言わない」

彼は歯を食いしばる。

「あと少しなんだ。あと少しで、空に手が届く」

ようやく辿り着いた展望台。

そこには、何もなかった。

ただ、灰色の雲が垂れ込める、無限の虚空が広がっているだけ。

「……何もないわよ、ギルバート」

私は落胆を隠せずに言った。

「いいや、ある」

ギルバートは展望台の中央にある、古びた装置の前に跪いた。

そして、懐からあの小瓶を取り出す。

「エララ、真実を話そう」

彼は装置に小瓶をセットした。

「世界の色を奪ったのは、私だ」

風の音が止んだ気がした。

「私は光子工学の研究者だった。永遠に色褪せない世界を作ろうとして……あの日、世界中の色素をこの装置に吸い込んでしまった」

「……なんてことを」

「色は消えたんじゃない。凝縮され、音の波形として大気中に霧散したんだ。だから君には聞こえる」

彼は装置のスイッチに手をかける。

「だが、解凍コードがわからなかった。特定の『周波数』が必要なんだ。世界を震わせ、色を呼び戻すための、魂の共鳴音が」

彼は私の方を向いた。

目が見えなくてもわかる。

彼が今、慈愛に満ちた眼差しを向けていることが。

「君の声だ、エララ。君が風を見て『綺麗』と呟いた、その魂の音色こそが、最後の鍵(キー)だった」

第四章 色彩のレクイエム

「私が……鍵?」

「この装置は、私の命をエネルギー源にして起動する。そして、君の歌声がトリガーとなって、世界に色を書き戻す」

「待って! 命をエネルギーにするって……死ぬ気なの!?」

私は彼に駆け寄ろうとした。

だが、見えない壁が私を弾き飛ばす。

装置が起動し始めていた。

ギルバートの体から、黄金色の光の粒子――いや、音が溢れ出している。

それは、荘厳なパイプオルガンのような、圧倒的な肯定の音色。

「エララ、歌ってくれ! 君が感じるままの、この世界の色を!」

「嫌よ! あんたが死ぬなら、世界なんて灰色のままでいい!」

「違うんだ、エララ」

光の中で、ギルバートの声が優しく響く。

「私は死ぬんじゃない。色になるんだ。君が見る世界の一部になれる。これ以上の幸福はない」

「ギルバート……!」

「頼む。私に、君の瞳の中に映る『青』を見せてくれ」

彼の命が、音となって昇っていく。

その旋律はあまりにも悲しく、そしてあまりにも温かかった。

私の胸の奥から、慟哭が込み上げる。

それが喉を通る時、言葉にならない歌となった。

――アァァァァァ……。

私の歌声が、ギルバートの黄金の音色と重なる。

共鳴。

世界が震えた。

灰色の空に、亀裂が入る。

その隙間から、奔流のような音が溢れ出した。

ラッパのような赤。

ハープのような緑。

バイオリンのような紫。

音が、光に変わる。

視神経が焼け付くような感覚。

「あ……」

私の目から、涙が溢れた。

サングラスが滑り落ちる。

閉ざされていた瞼が、熱に浮かされるように開かれた。

最終章 空の碧さを知る日

音が、消えた。

いや、違う。

「音」が「色」という本来の姿に戻ったのだ。

私の耳にはもう、あの極彩色のオーケストラは聞こえない。

代わりに、目の前に広がっていたのは。

「……これが、青……」

頭上いっぱいに広がる、吸い込まれそうな碧。

雲の白。

錆びた鉄塔の赤茶色。

足元に咲く、名もなき花の黄色。

情報の洪水が私を襲い、私は膝から崩れ落ちた。

目が見える。

世界は、こんなにも鮮やかで、静かだったのか。

装置の前には、もう誰もいなかった。

ただ、一着の古びたコートだけが残されていた。

私はコートを抱きしめる。

微かに、古い紙と湿った土の匂いがした。

「……聞こえるわ、ギルバート」

私は空を見上げる。

耳を澄ませても、もう何も聞こえない。

けれど、心臓の鼓動だけが、確かなリズムを刻んでいる。

風が吹き抜けた。

その風は、もう水色のリボンには見えない。

肌を撫でる、優しい透明な風だ。

「ありがとう」

私は涙を拭い、立ち上がった。

杖はもういらない。

極彩色の世界へ、私は最初の一歩を踏み出した。

空の青さが、痛いほどに美しかった。

AI物語分析

エララは、盲目であることを「欠落」ではなく「武器」として生きてきた。灰色の世界で唯一、音を通じて色彩を感じられる彼女は、ある種の優越感と孤独を抱えている。彼女がギルバートに対して最初は冷淡なのは、他者に期待することを諦めているからだ。しかし、ギルバートの「贖罪」という深い動機(彼自身の音色が悲痛な色をしていること)に触れ、徐々に心を開く。クライマックスで彼女が視力を得て共感覚を失うのは、「特異な才能の喪失」であるが、同時に「ギルバートの一部(色となった彼)」を直接目で見るための「新たな獲得」でもある。彼女にとっての「青」は、単なる色ではなく、ギルバートの愛そのものとなった。
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