第一章 欠落する色彩
「レン、後ろ!」
悲鳴のような少女の声が、鼓膜を劈(つんざ)く。
俺は反射的に地面を蹴った。頭上を巨大な石棍が通過し、風圧だけで頬が切れる。
目の前には、迷宮の主であるミノタウロス。その圧倒的な質量の前に、俺の剣など爪楊枝に等しい。
「クソッ……これじゃジリ貧だ」
息が上がる。肺が焼けるように熱い。
帰らなきゃいけないんだ。元の世界へ。日本へ。
あそこで俺を待っている、大切な人がいる。
「『等価交換』発動――対価、俺の『高校時代の記憶』」
心の中で詠唱すると、フッと脳裏が白く染まる。
教室の風景、友人の笑い声、放課後のチャイム。それらが砂のように崩れ去り、力の奔流へと変わる。
全身に蒼い稲妻が走った。
「はあああっ!」
踏み込み一閃。
加速した斬撃は、巨獣の首を容易く跳ね飛ばした。
ドズン、と地響きを立てて巨体が沈む。
「はぁ、はぁ……やったか」
剣を納め、汗を拭う。
ふと、違和感を覚えた。
俺は高校で、何部に入っていたんだっけ?
思い出そうとしても、そこには黒い穴が開いているだけだった。
第二章 残された温もり
焚き火の爆ぜる音が、静寂を際立たせる。
「レン、大丈夫? 顔色が悪いわ」
向かいに座るエルフの少女、フィーナが心配そうに覗き込んでくる。
透き通るような金色の髪。長い旅路、彼女の魔術と優しさにどれだけ救われたかわからない。
「ああ、平気だ。ただ、少し……忘れ物が増えただけさ」
強がって笑うと、フィーナは悲しげに眉を寄せた。
「もう止めない? このままこの世界で暮らしたって……」
「だめだ」
俺は懐からロケットペンダントを取り出した。
中には、一人の女性の写真。
黒髪の、優しい笑顔。
「俺は、この人に会うために生きている。絶対に帰ると約束したんだ」
名前は……優子だ。そう、優子。
指先で写真をなぞる。
温かいスープの匂い。柔らかな日差し。彼女と過ごした日々だけが、今の俺を繋ぎ止めている。
フィーナは膝を抱え、炎を見つめたまま呟いた。
「そうね。レンのその一途なところ、私、嫌いじゃないよ」
その声が、どこか泣いているように聞こえた。
第三章 最後の関門
ついに、「帰還の門」へと辿り着いた。
だが、そこには門番が立ちはだかっていた。
黒い鎧に身を包んだ騎士。放たれる威圧感は、これまでの魔物とは次元が違う。
「通るならば、汝の全てを賭けよ」
戦闘が始まった瞬間に悟った。
勝てない。
今の俺に残された魔力も、捧げられる記憶も、もうほとんど残っていない。
『大学時代の記憶』――対価に捧げる。
攻撃を弾くので精一杯。
『就職後の記憶』――対価に捧げる。
鎧にヒビを入れるのがやっと。
「ぐあっ……!」
黒騎士の剣が、俺の脇腹を深々と抉る。
熱い血が溢れ出し、視界が霞む。
「レン!」
フィーナが飛び出し、障壁を展開する。だが、黒騎士の大剣はその障壁ごと彼女を吹き飛ばそうとしていた。
このままでは、二人とも死ぬ。
俺に残された「対価」は、もう一つしかない。
それを失えば、俺は俺でなくなる。
帰る理由さえも、失うことになる。
だけど。
目の前で、フィーナが血を流している。
今、この瞬間に隣にいてくれる彼女を見殺しになんて、できるわけがない。
俺はロケットを握りしめた。
第四章 空白の先に
「持ってけよ……! 俺の、『一番大切な人の記憶』!!」
叫んだ瞬間、世界が光に包まれた。
胸が張り裂けるような喪失感。
愛しさも、切なさも、約束も。
全てが光の粒子となって、俺の剣に宿る。
「うおおおおおっ!」
涙が止まらなかった。
なぜ泣いているのかも分からずに、俺は剣を振り下ろした。
黒騎士の鎧が砕け散り、光の中に消滅していく。
同時に、重厚な音を立てて「帰還の門」が開いた。
門の向こうには、懐かしいアスファルトの匂いと、青い空が見える。
あそこに行けば、元の世界に帰れる。
俺はふらつく足で、門の前まで歩み寄った。
そして、立ち止まる。
「……あれ?」
どうして俺は、ここにいるんだ?
門の向こうの景色を見ても、何の感情も湧いてこない。
ただの、知らない世界だ。
「レン……?」
背後から、怯えるような声がした。
振り返ると、ボロボロになった金髪の少女が立っていた。
涙を一杯に溜めて、俺を見ている。
俺は彼女を知っている。
ずっと一緒に旅をしてきた、大切な仲間だ。
俺は門に背を向け、彼女の方へと歩き出した。
「怪我はないか、フィーナ」
彼女の頬についた泥を、指で拭う。
フィーナは目を見開き、そして崩れ落ちるように俺の胸に飛び込んできた。
「うわああああん! バカ! レン、バカぁ……ッ!」
「ごめんな。なんか俺、大事なことを忘れてる気がするんだけどさ」
俺は彼女の背中を優しく撫でた。
足元には、古びたロケットペンダントが落ちている。
蓋が開いていて、中の写真は真っ白に消えていた。
なぜだか分からないけれど、今の俺には、腕の中にあるこの温もりだけで十分な気がした。
背後で、帰還の門が静かに閉じていく。
二度と戻れない故郷を拒絶するように。