第一章 世界は騒音と極彩色の絵の具でできている
キーン、コーン、カーン、コーン。
チャイムの音が、俺の視界に暴力的な紫色の飛沫(しぶき)を撒き散らす。
「うっ……」
眉間を押さえ、俺――瀬戸口湊(せとぐちみなと)は机に突っ伏した。
視界がチカチカする。頭痛が痛い、なんて馬鹿な表現があるが、今の俺はまさに「音が痛い」状態だ。
俺には、音に色が見える。
共感覚、というらしい。詳しいことは知らないし、知ったところでこの不快な極彩色の世界が変わるわけでもない。
クラスメイトの話し声は濁った黄土色の煙。
先生のチョークが黒板を叩く音は、神経を逆撫でする蛍光イエローの刺。
俺はカバンからノイズキャンセリングのヘッドホンを取り出し、耳を塞いだ。
ふう、と息を吐く。
静寂と共に、視界から色が引いていく。世界がようやく、平穏なモノクロームに戻る瞬間だ。
「ねえ、そこの君」
不意に、ヘッドホンの隙間から澄んだ水色が流れ込んできた。
驚いて顔を上げる。
そこに立っていたのは、透き通るような肌をした女子生徒だった。長い黒髪が、窓から吹き込む風に揺れている。
彼女の声は、俺がこれまで聞いたどんな音よりも美しかった。
まるで夏の朝の海のような、透明に近い水色。
「……俺?」
ヘッドホンをずらして聞き返す。
「そう、君。瀬戸口くんだよね? 2年B組の」
彼女は悪戯っぽく微笑んだ。
「私、3年の真白(ましろ)エマ。ちょっと手伝ってほしいことがあるの」
「手伝い?」
関わりたくない。俺はすぐに拒絶の言葉を探した。
だが、彼女は俺の机に両手をつき、顔を近づけてくる。
「君、音が見えるんでしょ?」
心臓が跳ねた。
誰にも言っていないはずの秘密。
「……何の話ですか」
「隠さなくていいよ。君、いつも大きな音がすると目を瞑るし、高い音がすると眩しそうにする。観察してれば分かる」
エマ先輩は、ポケットから古ぼけたICレコーダーを取り出した。
「私ね、この学校の『音』を集めてるの。もうすぐ取り壊されちゃうでしょ、ここ」
確かに、少子化の影響でこの高校は来年度で廃校が決まっている。
「で、なんで俺が」
「私が録った音が、どんな『色』なのか教えてほしいの」
彼女は強引に俺の手を取り、レコーダーを握らせた。
その手は、驚くほど冷たかった。
「拒否権はないよ。もし断ったら、君が『音色オタク』だって全校生徒に言いふらす」
「それは……意味が違う気がしますけど」
「放課後、放送室で待ってるから!」
水色の余韻を残して、彼女は教室から去っていった。
残された俺は、手の中に残る冷たさと、微かな柑橘系の香りに戸惑っていた。
これが、俺と彼女の、期限付きの奇妙な関係の始まりだった。
第二章 ノイズキャンセリング・ラブソング
放課後の放送室は、埃と古い機材の匂いがした。
「遅いよ、瀬戸口くん」
エマ先輩は回転椅子に座り、くるくると回っていた。
「来ないかと思った」
「……脅されたんで」
「人聞きが悪いなあ。交渉、って言ってよ」
彼女は笑いながら、マイクのスイッチを入れた。
「じゃあ、早速始めようか。今日のターゲットは『屋上の風』」
「屋上は立ち入り禁止ですよ」
「だからこそ、だよ。誰も知らない音がそこにあるの」
俺たちは教師の目を盗み、非常階段を登った。
錆びついたドアを押し開けると、夕焼けに染まった街が一望できた。
ビューッ、と風が吹き抜ける。
「わあ……」
先輩は目を細め、レコーダーを空に向けた。
「どう? 瀬戸口くん。今の風、何色?」
俺は目を凝らす。
風の音は、普段ならただの雑音だ。でも、彼女の隣で聞く風の音は違って見えた。
「……薄い、茜色ですね。夕焼けが混ざってるみたいに、グラデーションになってる」
「へえ、素敵だね。茜色の風、か」
彼女は嬉しそうにレコーダーに吹き込む。
『ファイルナンバー1、茜色の風。瀬戸口くんの解説付き』
それから数週間、俺たちは校内のあらゆる音を収集した。
体育館でバスケットボールが弾む音は、鮮やかなオレンジ色の波紋。
図書室でページをめくる音は、乾いた白い羽根。
理科室の水道から落ちる水滴は、銀色の小さなビーズ。
俺が色を告げるたび、先輩は子供のように目を輝かせた。
「すごいなあ。世界って、そんなに綺麗なんだ」
「……俺にとっては、ただの騒音ですよ。色が多すぎて疲れるんです」
「贅沢な悩みだね。私には、全部同じ『暗闇』に聞こえるのに」
ふと、彼女の声のトーンが落ちた。
「え?」
「あ、なんでもない! 次は音楽室行こう、音楽室!」
彼女は明るく振る舞ったが、その時の水色の声には、微かに灰色のノイズが混じっていた。
ある雨の日。
俺たちは昇降口で雨宿りをしていた。
ザーザーと降る雨音は、俺には無数の青い針が地面に突き刺さるように見える。
「ねえ、瀬戸口くん」
先輩がぽつりと呟いた。
「私ね、もうすぐ音が聞こえなくなるんだ」
心臓が止まるかと思った。
「……え?」
「病気なんだ。少しずつ、聴力が落ちててね。来年の春には、多分、完全に無音の世界になる」
彼女は自分の耳をそっと触れた。
「だから、集めておきたかったの。この世界の音を。そして、その音がどんな色をしているのか、君の言葉で保存しておきたかった」
俺は言葉を失った。
彼女がなぜ、あんなに必死に音を追い求めていたのか。
なぜ、俺の「共感覚」に執着したのか。
「君の声はね、すごく綺麗な色をしてると思うんだ。自分じゃ見えないでしょ?」
彼女は微笑んだが、その瞳はどこか遠くを見ていた。
「……どんな色ですか、俺の声」
「うーん、秘密。いつか教えてあげる」
俺は拳を握りしめた。
音が聞こえなくなる恐怖なんて、想像もつかない。
俺は音が「見える」ことを疎ましく思っていた。
でも、彼女はその音さえも失おうとしている。
「……全部、記録しましょう」
俺は彼女の目を見て言った。
「この学校の音も、街の音も、全部。俺が色を解説します。先輩がいつか音を忘れても、俺の言葉で思い出せるように」
先輩は驚いたように目を見開き、やがて涙ぐんだような笑顔を見せた。
「……うん。頼りにしてるよ、パートナー」
第三章 空白のファイルと最後の嘘
季節は巡り、冬が来た。
廃校の日が近づくと同時に、先輩の聴力は目に見えて低下していた。
会話をする時、俺は彼女の顔を真っ直ぐ見て、ゆっくりと話さなければならなくなった。
「今日は、雪が降ってるね」
放送室の窓際で、先輩が言った。
「……ええ。静かですね」
「瀬戸口くんの声、もうあんまり聞こえないや」
彼女は寂しそうに笑う。
「でも、色は見えるよ。君が喋ると、空気がふわっと温かくなるのが分かる」
レコーダーの容量はもう限界に近かった。
「最後にさ、一つだけ録りたい音があるの」
「なんですか?」
「『サヨナラの音』」
「……そんな音、どこにあるんですか」
「卒業式のあと。誰もいなくなった教室で。それが最後のミッション」
そして、卒業式の日。
式が終わると、校舎は嘘のように静まり返った。
俺たちは3年B組の教室――先輩の教室に入った。
夕陽が差し込み、教室全体を茜色に染めている。
「ここでいいよ」
先輩はレコーダーを机の上に置いた。
「瀬戸口くん、あっち向いてて。黒板の方」
「え? なんでですか」
「いいから。恥ずかしいんだもん」
言われるがまま、俺は背を向けた。
カチッ。
録音ボタンが押される音がした。
しばらくの沈黙。
衣擦れの音。息を吸う音。それらは、淡いピンク色の粒子となって俺の背中に降り注ぐ。
「……はい、おしまい!」
カチッ。
「もういいよ」
振り返ると、先輩はレコーダーを大切そうに胸に抱えていた。
「これで、私のコレクションは完成。ありがとう、瀬戸口くん」
「……中身、聞かせてくれないんですか?」
「だーめ。これは私が持っていくの。君にはあげない」
彼女はレコーダーを鞄にしまった。
「じゃあね。元気でね」
「先輩」
呼び止めようとしたが、声が出なかった。
彼女の背中があまりにも小さく、そして決然としていたからだ。
彼女は一度だけ振り返り、音のない口パクで何かを言った。
俺には読唇術の心得はなかったが、その時に見えた「色」で分かった。
それは、今までで一番鮮烈な、泣きたくなるような「桜色」だった。
それ以来、俺は真白エマに会っていない。
彼女は卒業後、治療のために海外の施設へ移ったと風の噂で聞いた。
第四章 共鳴する未来への周波数
あれから五年が経った。
俺は大学で音響工学を専攻し、今はサウンドデザイナーとして働いている。
音を「見る」能力は相変わらずだが、今はそれを仕事に活かしている。
ある日、実家に小包が届いた。
差出人の名前はない。けれど、見覚えのある癖字で『瀬戸口湊 様』と書かれている。
中に入っていたのは、あの古ぼけたICレコーダーだった。
手紙は入っていなかった。
震える手で、電源を入れる。
液晶画面には『Last File』の文字。
俺は深呼吸をして、再生ボタンを押した。
『……あー、あー。聞こえてるかな』
懐かしい、水色の声。
時を超えて、あの日の教室の空気が蘇る。
『瀬戸口くん。これを君が聞いているってことは、私はもう、音を完全に忘れてしまった頃だと思う』
ノイズ混じりの音声。でも、俺には彼女の表情まではっきりと見えるようだ。
『君は、私の集めた音がどんな色か、一生懸命教えてくれたよね。でもね、ごめん。私、実は嘘をついてたの』
嘘?
『私が本当に集めたかったのは、風の音でも、雨の音でもないの』
レコーダーから流れる声が、震え始める。
『私が録りたかったのは、世界の色を説明してくれる、君の声だったんだよ』
息が止まった。
『君は自分の声が嫌いだって言ってたけど、私にとって君の声は、どんな音楽よりも安心できる、優しい色をしてた。……君が「茜色だ」って言えば、私には夕焼けが見えた。「青い針だ」って言えば、冷たい雨を感じられた』
視界が滲む。
極彩色の涙が、頬を伝う。
『耳が聞こえなくなるのは怖かった。でも、君の声という道しるべがあったから、私は今日まで歩いてこられた』
『最後の録音。これは、君へのプレゼント』
一瞬の空白。
そして、あの日、俺が背を向けている間に彼女が吹き込んだ「音」が流れた。
『……好きだよ、湊くん。世界で一番、君の声が大好き』
それは、言葉ではなかった。
いや、言葉だったのかもしれない。
でも俺の耳には、そして俺の目には、それが圧倒的な「光」として届いた。
五年前、教室で彼女が口パクで伝えた桜色。
それが今、音声となって、五年の時を超えて、俺の鼓膜を震わせ、心を塗り替えていく。
『……だから、泣かないで。君の世界が、これからも美しい色で溢れていますように』
プツン、と再生が止まった。
静寂が戻った部屋。
でも、そこはもうモノクロームではなかった。
彼女が残してくれた「声」の余韻が、部屋中を温かい桜色で満たしていた。
俺はヘッドホンを外した。
窓を開ける。
街の喧騒が飛び込んでくる。
車のクラクション、遠くの工事の音、誰かの笑い声。
かつては騒音でしかなかったそれらが、今は、誰かが誰かに想いを伝えるための、愛おしい色彩のパレットに見えた。
「……ありがとう、エマ」
俺は呟いた。
俺の声は、彼女が言った通り、少しだけ優しく、温かい色をして空に溶けていった。