硝子の誓約と、魂を紡ぐ光

硝子の誓約と、魂を紡ぐ光

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第一章 ノイズの海

「君との婚約は、ここで破棄させてもらう」

その言葉は、まるで鋭利なガラス片のように、華やかな宴の空気を切り裂いた。

シャンデリアの過剰なほどの煌めきが、一瞬で色褪せて見える。

目の前に立つのは、藤堂雅人。

日本経済の要、藤堂財閥の次期総帥。

周囲の雑音がピタリと止む。

高級な香水の匂いと、好奇な視線の熱が、粘り気を持って私の肌にまとわりついた。

「……理由を、伺っても?」

私の声は、自分が思うよりも冷静だった。

だが、グラスを持つ指先だけが、微かに震えている。

雅人は、氷のような瞳で私を見下ろした。

私は必死に、彼の本質――彼が纏う『魂の光』を読み取ろうと目を凝らす。

いつもなら見えるはずだ。

彼の誠実な青も、情熱の赤も。

けれど、今の彼を包んでいるのは、不快なほどに乱れた灰色の砂嵐(ノイズ)だけ。

何も見えない。

感情が完全に遮断されている。

「君は退屈だ、凛子。天道寺家の『お人形』には飽き飽きなんだよ」

彼はわざとらしく、片方の口角を吊り上げた。

その表情の作り物めいた歪さに、胸がざわつく。

本当に?

あなたはそんなに薄っぺらい人だった?

「他の女性に乗り換える。もっと刺激的で、自由な女性にね」

雅人が背を向けた瞬間、会場のあちこちでスマートフォンが一斉に振動した。

不吉な蜂の羽音のようなバイブレーション。

『速報:名門・天道寺家の令嬢、裏の顔が発覚。謎の宝飾作家“R”の正体か』

私の心臓が、早鐘を打つ。

雅人の背中が、一瞬だけ硬直したのを私は見逃さなかった。

灰色のノイズの奥で、何かが一瞬、悲痛に明滅したような気がした。

第二章 沈黙の座敷

実家の広間は、しんと静まり返っていた。

けれどその静寂は、怒鳴り声よりも遥かに重く、私の肺を押し潰そうとしていた。

磨き上げられた黒檀のテーブルの上に、無造作に放り出された週刊誌。

私の作品――魂を象ったブローチの写真が、あられもない見出しと共に掲載されている。

「……」

父は一言も発さない。

ただ、縁側に向けていた背中をゆっくりとこちらへ向けた。

その手には、私が隠し持っていた制作道具の入った桐箱が握られている。

パキリ、と乾いた音がした。

父が、繊細な細工用のヘラを、片手でへし折った音だった。

「お父様、それは」

「庭で燃やしなさい」

父の声は低く、そして絶対的だった。

使用人たちが、怯えたように視線を伏せながら近づいてくる。

「当家の恥だ。藤堂家から縁を切られたのも無理はない。……雅人君は、これを知っていたのだな?」

ハッとした。

冷たい畳の感触が、足の裏から全身に這い上がる。

雅人の、あの不自然なまでの悪役ぶり。

そして、このタイミングでのリーク。

もし、婚約中の私がこのスキャンダルに見舞われれば、藤堂家も巻き込まれる。

あるいは、藤堂家からの圧力で、私の作家生命どころか、私の存在そのものが社会的に抹殺されていたかもしれない。

彼は、私を突き放すことで守ったのだ。

「浮気された被害者」という同情の鎧を私に着せ、自分だけが悪者になって。

「……お父様。燃やす必要はありません」

私は立ち上がった。

膝が震える。

父の周囲には、威圧と保身のどす黒い赤色が渦巻いている。

「座りなさい、凛子!」

「いいえ。これはゴミではありません。私の、魂です」

「魂だと? 家訓を忘れ、金銭のために家名を汚すことがか!」

父が立ち上がり、手を振り上げたその時。

玄関の方角から、騒がしい足音が響いてきた。

「通してくれ! 凛子!」

息を切らせて広間に飛び込んできたのは、雅人だった。

整えられたタキシードは乱れ、額には玉のような汗が浮いている。

「雅人君……? 君はもう、娘とは」

「芝居は終わりです、天道寺当主」

雅人は私の前に立ち、父と私の間に割って入った。

その背中から、あの灰色のノイズが消え去っている。

代わりに溢れ出していたのは、目が眩むような黄金の光。

第三章 硝子の証明

「芝居だと?」

父の眉間の皺が深くなる。

「凛子を守るために、彼女を一度手放すふりをした。だが、あなたが彼女の才能そのものを葬り去ろうとするなら、話は別だ」

雅人の声に、迷いはなかった。

けれど、父の威圧感は衰えない。

背後に控える屈強な使用人たちが、ジリジリと間合いを詰めてくる。

「若造が。才能? あんなガラス細工がなんだと言うのだ。当家が代々守ってきた伝統に比べれば、児戯に等しい!」

力尽くで排除される。

雅人の拳が固く握られるのが見えた。

ここで彼が暴れれば、それこそ取り返しがつかないことになる。

「待ってください」

私は雅人の腕をそっと押し、一歩前へ出た。

「お父様。児戯とおっしゃいましたね」

私は懐から、一冊の革張りの手帳を取り出した。

それは、顧客リストと、彼らから届いた直筆の礼状を綴じたものだ。

「これをご覧ください」

父の前に手帳を開いて突き出す。

そこに並ぶ名前に、父の目が大きく見開かれた。

「こ、これは……外務大臣の奥方……それに、人間国宝の……」

「彼らは、私の作品を『家名の威光』で買ったのではありません。作品そのものに価値を見出し、対価を支払ってくださったのです」

私は、父の目を真っ直ぐに見据えた。

「お父様は常々おっしゃいました。天道寺家の誇りは、他者からの信頼によって成る、と。私が築いたこの信頼は、家の恥でしょうか?」

父が言葉に詰まる。

その動揺の隙を突き、私はさらに畳み掛けた。

父の胸の奥、分厚い鎧の下に見え隠れする、淡い「憧憬」の色に向けて。

「それに、お父様。私のこの技法……見覚えがおありですよね?」

私は、へし折られたヘラを拾い上げた。

「幼い頃、蔵の奥で見つけました。お父様が若き日に隠れて作っていた、硝子細工の試作品を」

父の顔色が蒼白になる。

「私の技術の基礎は、あの試作品から学びました。お父様が家のために封印した情熱を、私が継いだのです」

父の周囲を覆っていたどす黒い色が、薄らいでいく。

そこにあったのは、怒りではない。

かつて夢を諦めた自分への悔恨と、それを美しい形で昇華させた娘への、不器用な嫉妬と誇り。

「……あの、拙い試作品を……か」

父はその場に崩れ落ちるように座り込んだ。

手帳の上にある、顧客からの感謝の言葉を、震える指でなぞる。

「……持って行け」

絞り出すような声だった。

「道具も、作品も。……好きにするがいい」

それは、父なりの完全な敗北宣言であり、最大の賛辞だった。

最終章 在るべき光

数ヶ月後。

都内の小さなギャラリーは、柔らかな夕暮れの光に包まれていた。

私の初めての個展。

客足は途絶えることなく、誰もがショーケースの中の光に魅入っている。

「凛子」

テラスに出ると、雅人が二つの缶コーヒーを持って待っていた。

タキシードではなく、ラフなジャケット姿。

それが今の彼にはよく似合っている。

「お疲れ様。大盛況だな」

「ええ。……ありがとう、雅人」

受け取ったコーヒーは、温かかった。

あの日、彼が泥を被ってまで守ろうとしてくれた未来が、今ここにある。

「君のお父上、来ていたよ。こっそりとね」

「嘘……」

「一番大きな作品の前で、ずっと動かずにいた。……泣いていたように見えたな」

私は胸の奥が熱くなるのを感じた。

あの厳格な父の心にも、光は届いたのだ。

ふと、雅人を見る。

夕陽を浴びた彼の横顔。

そこから立ち昇る光は、もうノイズでも、悲痛な色でもない。

穏やかで、どこまでも澄んだ、春の陽だまりのようなオレンジ色。

それは、私たちがようやく手に入れた「日常」の色だ。

「何を見てるんだ?」

雅人が不思議そうに首をかしげる。

「ううん。……ただ、すごく綺麗な色だなって」

「作品のこと?」

「いいえ。あなたのことよ」

私は微笑んで、彼の手を握り返した。

言葉にする必要はない。

掌から伝わる温度と、目に映るこの光があれば、私たちはどんな暗闇でも歩いていける。

街の灯りが一つ、また一つと灯り始める。

そのすべての輝きが、私たちの新しい門出を祝福しているように思えた。

AIによる物語の考察

この物語は、表面的な「ノイズ」に惑わされず、魂の「光」を見極めることの重要性を描きます。

**登場人物の心理**:
藤堂雅人の婚約破棄は、スキャンダルから凛子を守るための自己犠牲であり、彼の「灰色のノイズ」は深い愛情と葛藤の表れです。後に「黄金の光」として本質が輝きます。一方、凛子の父の「どす黒い赤色」の怒りの裏には、若き日に断念した自身の硝子細工への「悔恨」と娘への「不器用な嫉妬と誇り」が隠されていました。

**伏線の解説**:
「速報」の不自然なタイミングや、父が凛子の制作道具の入った桐箱を持っていたこと、そして何よりも「幼い頃、蔵の奥で見つけた父の硝子細工の試作品」は、雅人の真意や親子の和解の鍵となる重要な伏線です。

**テーマ**:
本作は、家名や伝統と個人の情熱の葛藤、自己犠牲を伴う真実の愛、そして世代を超えて継承される情熱と和解の物語です。それぞれの登場人物が自身の「在るべき光」を見出す過程を通して、真の価値とは何かを問いかけます。
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