第一章 狂った音階
「……ピッチが、ずれているな」
その男の声は、低く、腹の底に響くチェロの音色に似ていた。
防音室の重厚な扉が閉ざされると、世界は静寂に包まれる。
残されたのは、黒塗りのグランドピアノと、私、そして彼だけ。
天才ピアニスト、各務連(かがみ れん)。
彼が鍵盤を叩くたび、私の視界には鮮烈な「青」が走る。
私は音に色を見る共感覚を持っていた。
そして彼は、それを知る唯一の顧客。
「美月(みづき)、君自身の音が乱れている」
連が背後から近づく。
革靴が床を踏む音さえ、計算されたリズムのように聞こえた。
「そ、そんなことは……ピアノの調整は完璧です」
振り返ろうとした私の肩を、大きな手が掴む。
熱い。
服の上からでも火傷しそうなほどの体温。
「ピアノの話ではない」
耳元で囁かれた吐息が、鼓膜を震わせ、背筋を駆け下りる。
ぞくり、とした戦慄が下腹部で熱に変わった。
「君の心臓の音だ。……酷く高鳴っている」
逃げ場はない。
彼は既婚者だ。
クラシック界の重鎮の娘を妻に持ち、その地位を盤石にしている。
けれど、この密室で彼は、ただの「オス」に戻る。
「先生、いけません……」
「拒絶する口調と、身体の反応が不協和音(ディソナンス)を起こしているぞ」
彼の手が、私のブラウスの第一ボタンに触れた。
カチリ、という微かな音が、私の理性を取り外す音のように響く。
「調律(チューニング)が必要だな」
抵抗できない。
彼の手指は、鍵盤の上と同じように、私の身体の上でも魔法を使う。
鎖骨をなぞる指先。
たったそれだけで、私の視界は青から、情熱的な深紅へと染まっていく。
膝から力が抜けた。
私は崩れ落ちるように、ピアノの脚にしがみつく。
「いい音だ。その切迫した吐息……最高のアダージョだ」
彼は冷酷な指揮者の顔で、私を見下ろしていた。
第二章 振動する身体
冷たい床の感触と、彼から注がれる熱のコントラスト。
「足を開け」
命令は絶対だった。
逆らえば、この関係が終わってしまう。
それが何より恐ろしかった。
スカートの裾がたくし上げられる。
太ももの内側、柔らかな皮膚を、彼の手のひらが這い上がる。
「あっ……んぅ……」
「声を抑えるな。ここは防音だ。誰にも聞こえない」
嘘だ。
世界中に聞かれているような背徳感が、私を狂わせる。
彼の手つきは執拗だった。
焦らすように、円を描き、核心を避けて愛撫する。
「焦れているのか? 美月」
「せん、せい……お願い……」
「何をだ? 具体的に言わなければ、音は伝わらない」
意地悪な問いかけ。
でも、その指は確実に私の理性の堤防を崩しにかかっている。
蜜が溢れ、下着を濡らす感覚が生々しく伝わる。
恥ずかしさで顔が沸騰しそうだ。
「ここが、こんなに濡れている」
彼が指先を滑り込ませた瞬間。
「ひぁっ!」
脳髄が痺れるような電流が走った。
巧みすぎる。
彼は私の身体のどこを弾けば、どんな声が出るのかを熟知している。
粘膜を擦る音。
濡れた音が、静寂な防音室に反響する。
「いいぞ、その色だ。今の君の声は、最高の倍音を含んでいる」
彼は私をピアノ椅子に座らせると、自らのベルトを緩めた。
金属音が、とどめを刺す合図のように響く。
「こっちを向け。……全てを受け入れろ」
目の前にある、怒張した熱源。
私は震える手で、彼のワイシャツの裾を掴んだ。
もう、引き返せない。
第三章 共鳴の果て
貫かれた瞬間、視界が真っ白に弾けた。
「あ、あぁっ……! 凄い、先生、ふかいっ……!」
「美月、力を抜け。……俺を感じろ」
彼が動くたび、魂ごと溶かされるような感覚に襲われる。
ピアノ線がギリギリまで張り詰められ、今にも切れそうな緊張感と快楽。
重なり合う肉体の音。
乱れる呼吸。
汗ばんだ肌がぶつかり合う音さえ、彼にとっては音楽の一部なのだろうか。
「っ、く……! 締めるな、狂いそうだ」
彼もまた、余裕を失っていた。
整っていた髪が乱れ、苦悶と快楽が入り混じった表情で私を見つめる。
奥深くまで侵略される。
私の存在そのものが、彼によって塗り替えられていく。
「もっと……もっと壊して……」
自暴自棄な願いが口をつく。
痛みすら快楽に変換される、異常なトランス状態。
波が来る。
大きな、抗いようのない波が。
「いく、いっちゃう……!」
「一緒にこい! 美月!」
彼が最奥を穿つと同時に、私の内側で何かが決壊した。
視界に広がる極彩色の光。
身体の芯から熱い奔流が吹き出し、彼の熱い種を受け入れる。
意識が飛びそうなほどの絶頂。
私は彼の背中に爪を立て、獣のように鳴いた。
長い余韻。
重なり合ったまま、互いの鼓動だけが時を刻む。
これが愛でなくてもいい。
ただの音合わせの道具でもいい。
この瞬間だけ、私は彼の一部になれたのだから。
第四章 録音された罪
事後、けだるい体を整えていると、不意に彼のスマートフォンが振動した。
画面には『妻』の文字。
一気に現実に引き戻される。
息を止めて彼を見ると、彼は平然と通話ボタンを押した。
「……あぁ、今終わった」
スピーカーからではないのに、静かな室内では漏れ聞こえてしまう。
奥様の、鈴を転がすような上品な声。
『お疲れ様、あなた。……で、どうだったの?』
どうだった?
調律のことだろうか。
連は私を一瞥し、薄く笑った。
その笑顔に、背筋が凍る。
「最高だったよ。素晴らしい素材だ。おかげで、次のコンチェルトのイメージが完成した」
『よかったわ。……送ったレコーダー、ちゃんと回っていたかしら?』
え?
私の思考が停止する。
レコーダー?
連はピアノの譜面台の裏に手を伸ばし、小さな黒い端末を取り出した。
赤いランプが、まだ点滅している。
「ああ、バッチリだ。彼女の鳴き声、君の想像通り、いいサンプリング素材になったよ」
『ふふ、楽しみね。あなたが他の女で乱れる音……それを聴きながらだと、私、すごく筆が進むの』
奥様は、有名な作曲家だ。
「美月、挨拶するか?」
彼が端末を私に向ける。
「……え?」
嘘でしょう。
全部、知っていたの?
最初から、聞かせていたの?
『美月さん、いつも主人の世話をありがとう。あなたの悲痛な喘ぎ声、とても芸術的だったわ』
優雅な感謝の言葉。
それが死刑宣告のように響く。
私はただの道具。
彼ら夫婦の、歪んだ創作意欲を満たすための楽器。
絶望で目の前が暗くなるはずだった。
けれど。
(私の声が……彼の作品になる……?)
身体の奥底で、鎮火したはずの熱が、再び燻り始める。
この異常な関係の中でしか、私は存在価値を見出せない。
「……光栄、です……奥様」
震える声でそう答えると、連が満足げに目を細めた。
「いい子だ。……さあ、第二楽章を始めようか」
録音中の赤いランプが、闇の中で淫らに瞬いていた。