第一章 三千年の倦怠と雨の匂い
雨の日は、古いインクの匂いが濃くなる。
東京の路地裏。看板のない古道具屋『アイオーン』のカウンターで、僕は頬杖をついていた。
「いらっしゃいませ」
自動ドアが開く音に合わせて、口先だけで挨拶をする。視線は手元の文庫本から動かさない。
人間の一生なんて、この文庫本の数ページにも満たない。三千年生きている僕にとって、彼らは瞬きする間に消えるカゲロウだ。
「……暗い店」
少女の声がした。
顔を上げる。濡れた制服。黒髪のボブカット。ずぶ濡れのローファー。
そこには、不機嫌そうな女子高生が立っていた。
「電気代をケチってるわけじゃない。紫外線は骨董品の大敵だからね」
「あんたのことよ」
彼女は躊躇なく店内に踏み込み、雨水を滴らせながらカウンターに近づいてきた。
「あんたの顔、死ぬ直前の野良猫みたい」
「失礼だな。これでも地域の自治会長には『若々しい好青年』って評判なんだ」
僕は営業用の微笑みを貼り付ける。
「それで? 雨宿りなら他を当たってくれ。ここは商売の場だ」
「買い物に来たの」
少女はブレザーのポケットから、握りしめた拳を取り出した。
ごとり、とカウンターに置かれたのは、ひどく歪な形をした「懐中時計」だった。
ガラスは割れ、針は折れ、錆びついている。
だが、それを見た瞬間、僕の心臓が不快な音を立てて跳ねた。
「……どこでこれを?」
「私の心臓」
彼女は真顔で言った。
「これを直して。動かないと、私が終わっちゃうから」
僕は三千年の記憶の引き出しをひっくり返す。
見覚えがある。これはただの時計じゃない。
一五〇〇年前、僕が唯一愛した人間のために作り、彼女の臨終と共に棺に入れたはずの『命の器』だ。
「君、名前は?」
「ミナト。……あんたが、これを直せる唯一の時計技師だって聞いたわ」
ミナトと名乗った少女の瞳は、底が見えないほど深く、暗い。
それは人間の瞳ではなかった。
長命種の僕を、捕食者を見るような目で見つめる「何か」だった。
第二章 バグだらけの観測対象
「修理代は高いよ」
僕は震える指を隠すように、カウンターの下で拳を握った。
「金ならある」
ミナトは財布からしわくちゃの千円札を三枚出した。
「足りないな。僕の技術料は、君の『時間』だ」
「時間?」
「君が過ごすこれからの人生。その記憶を僕によこせと言ってるんだ」
これは常套句だ。大抵の人間はこれで気味悪がって逃げ出す。
だが、ミナトは無表情のまま頷いた。
「いいよ。どうせ、ろくな人生じゃないし」
あっさりと契約が成立してしまった。
僕はため息をつき、錆びついた懐中時計を手に取る。
触れた瞬間、指先から強烈なノイズが流れ込んできた。
──炎上する城。悲鳴。そして、僕自身の泣き顔。
(なんだ、これは……)
この時計には、僕の記憶が記録されている?
いや、違う。これは「僕が見た景色」ではない。「僕を見ていた誰かの視点」だ。
「ねえ、店主」
作業台に向かおうとする僕の背中に、ミナトが声をかけた。
「あんた、なんでそんなに寂しそうなの?」
「寂しい? 僕が?」
振り返ると、彼女は商品棚のガラスケースを指先でなぞっていた。
「この店にあるもの、全部『誰かが手放したかったもの』でしょう。未練とか、後悔とか、そういうベタついた感情がこびりついてる」
「骨董屋とはそういうものさ」
「違うわ。あんたが『そういうもの』しか集めてないだけ」
ミナトは僕の方を向き、残酷なほど真っ直ぐに言った。
「自分が忘れたいから、他人の忘れたいものを集めて、安心してるだけでしょ」
図星だった。
長命種(エルフ)である僕は、人間と関わるたびに別れを経験する。
その苦痛に耐えられなくなり、五〇〇年前から他人と深く関わるのをやめた。
ただの観測者(オブザーバー)として、彼らの愚かさを嘲笑うことで、自分の孤独をごまかしていたのだ。
「……修理には時間がかかる。今日は帰ってくれ」
僕は逃げるように奥の作業部屋へと入った。
背後で自動ドアが開く音がした。
だが、気配は消えない。まるで、彼女の影が店内に焼き付いたかのように。
第三章 錆びついた鼓動の正体
それから一ヶ月。
ミナトは毎日店にやってきた。
学校帰りなのか、いつも制服姿だ。コンビニのおにぎりを食べながら、僕が時計を修理するのを黙って見ている。
「進捗は?」
「一ミリも進んでない。この歯車、今の技術じゃ再現不可能なんだ」
嘘だ。直そうと思えばすぐに直せる。
だが、直してしまえば彼女はここに来なくなる。
その事実が、なぜか怖かった。
「ふうん。無能な時計技師ね」
「うるさいな。そもそも、この時計は何なんだ? 君は何者だ?」
僕が問い詰めると、ミナトは窓の外の雨を見つめたまま呟いた。
「私は、あんたが捨てた『祈り』の残骸よ」
「は?」
「一五〇〇年前。あんたは恋人が死んだ時、神様に祈るのをやめた。その時、切り離されたあんたの一部が、ずっと彷徨ってたの」
彼女は視線を僕に戻す。
「この時計が止まったら、私も消える。そういう仕組み」
心臓が凍りついた。
彼女は人間じゃなかった。僕自身の「絶望」が生み出した、幻影。
いや、もっとタチが悪い。
彼女は僕が「死にたい」と願った無意識が具現化した、僕自身を殺すための装置(死神)だ。
「直して」
ミナトが僕の手を掴んだ。その手は氷のように冷たい。
「私が消える前に、この時計を直して。そうすれば、あんたは解放される」
「解放……?」
「永遠の孤独から。この時計が動き出せば、あんたの時間は人と同じ速度で進み始める。そして、ちゃんと死ねるようになる」
それは、僕が何百年も渇望していたことだった。
老いること。忘れること。そして、終わること。
彼女は僕に「死」をプレゼントしに来たのだ。
「……そうか。君は、僕を殺しに来たのか」
「そうよ。感謝してよね」
ミナトは悪戯っぽく笑った。その笑顔が、かつての恋人と重なって見えた。
第四章 最後の選択、最初の涙
最後の歯車を嵌め込む瞬間、手が震えた。
これを回せば、ミナトは消滅し、僕は人間になる。
三千年の旅が終わる。
「迷ってるの?」
作業台の向こうから、ミナトが覗き込んでくる。
「……君は、消えてもいいのか?」
「私はあんたの『未練』だから。あんたが前に進むなら、私は役目を終える。ハッピーエンドでしょ」
彼女は透け始めていた。
指先が粒子になって、店内の薄暗い空気に溶けていく。
「早く。ゼンマイを巻いて」
急かされるまま、僕は竜頭(りゅうず)を回した。
カチ、カチ、カチ。
乾いた音が響く。
その瞬間、僕の体に重力がのしかかった。
視界が霞む。関節が痛む。息が苦しい。
これが「老い」か。
これが「生きる」という重さか。
「……っ、あぁ……」
涙が溢れて止まらなかった。
悲しいからじゃない。三千年分の「生の実感」が一気に押し寄せてきたからだ。
「おめでとう。人間になれたね」
ミナトの声が遠くなる。
顔を上げると、彼女の姿はもう半分以上消えていた。
だが、最後に彼女は、今までで一番美しい笑顔を見せた。
「ねえ、管理人さん」
「……なんだ」
「人間の一生って、短いでしょ? だから、ぼやっとしてたらすぐ終わっちゃうよ」
「ああ、そうだな」
「私のこと、忘れてもいいよ」
「……バカ言うな」
僕は霞む目で、消えゆく彼女を睨みつけた。
「人間は、忘れる生き物かもしれない。でも、僕は元・長命種だ。君のことくらい、死ぬまで覚えててやる」
ミナトは満足そうに目を細め、
「そっか。……じゃあ、またね」
そう言い残して、光の粒になって弾けた。
後に残されたのは、秒針が動き出した懐中時計と、三千歳にして初めて「若者」になった僕だけ。
最終章 有限の明日へ
雨が止んだ。
雲の切れ間から夕日が差し込み、店内の埃を黄金色に染めている。
僕は立ち上がろうとして、よろけた。
膝が重い。腹も減った。喉も乾いた。
なんて不便な体だろう。
でも、この不便さが愛おしい。
カウンターの上の懐中時計をポケットにしまう。
カチコチと鳴るその音は、僕の心臓の音とシンクロしていた。
「さて」
僕は店の表札を『準備中』から『営業中』にひっくり返した。
これからは、過去の遺物を売るだけの店じゃない。
限りある時間を、誰かと分かち合うための場所にしよう。
自動ドアが開く。
新しい客が、あるいは新しい物語が、飛び込んでくる予感がした。
「いらっしゃいませ」
初めて、心からの言葉が出た気がした。