第一章 深夜二時の不協和音
「……申し訳、ありません」
誰もいないフロアに、掠れた声が吸い込まれていく。
午前二時。
「YGSシステムズ」開発部のオフィス。
蛍光灯の白濁した光が、乾ききった眼球をジリジリと焼いていた。
鼻をつくのは、温くなったエナジードリンクの甘ったるい匂いと、蓄積された埃の臭い。
キーボードに置いた指先が、小刻みに痙攣している。
佐倉徹、三十二歳。
連勤日数は、もう忘れた。
手元には、一枚の紙切れ。
クシャクシャになった『残業手当申請書』だ。
「本日も、四時間のサービス残業、と……」
ボールペンを握りしめる。
ペン先を紙に押し当てた瞬間、胃の腑が焼けつくように熱くなった。
キリキリとした痛みではない。
もっと根源的な、熱い塊がへその下から逆流してくる感覚。
『受領。魔力変換プロセス、起動』
脳髄に直接、無機質なノイズが走る。
視界がグニャリと歪んだ。
見慣れたオフィスの白い壁が、コールタールのように溶け落ちていく。
代わりにせり出してくるのは、湿った苔と、冷たい石の感触。
ここから先は、私の「副業」の時間だ。
「……ログ・イン」
意識が反転する音を聞きながら、私は重たい瞼を閉じた。
第二章 最適化という名の暴力
瞼を開く。
腐葉土と鉄錆が混じった匂いが鼻腔を満たした。
薄暗い洞窟の天井には、青白く発光する鉱石が点在している。
それらが描く光のラインを、私は冷めた目で見上げた。
「F-7区画。魔素循環率、低下傾向」
声のトーンが落ちる。
現実世界での卑屈な震えは、もうない。
思考の全てが0と1のロジックに置換され、感情というノイズが排除されていく。
ここは私が管理するダンジョン。
現実で私が磨り減るほど、この世界のリソースは潤沢になる皮肉な箱庭。
「ギャッ、ギャウ!」
通路の奥から、土気色の肌をした小鬼(ゴブリン)たちが駆け寄ってきた。
ツルハシを担ぎ、右往左往している。
遅い。動線が重なりすぎている。
私は無言で右手を掲げた。
人差し指を、指揮者のようにわずかに弾く。
その動作一つで、空間のコードが書き換わる。
小鬼たちの足元に青いガイドラインが走った。
彼らは何かに弾かれたように動きを止め、次の瞬間には一糸乱れぬ隊列を組んでいた。
最短経路で採掘場へ向かうその背中には、一切の無駄がない。
「ボス……コレ、ホッタ……」
最後尾の一匹が、怯えた様子で立ち止まる。
泥だらけの手を、震えながら差し出してきた。
その掌には、不釣り合いなプラスチック片。
私が手を伸ばすと、小鬼は「ヒィッ」と短い悲鳴を上げて逃げ去った。
恐怖による統制。
私が望んだわけではないが、システムがそう最適化している。
受け取ったのは、泥にまみれたUSBメモリだった。
指先で泥を拭う。
露わになった側面には、見覚えのあるロゴマーク。
『Yomigaeri Solutions』
YGS……ヨミガエリ?
背筋に冷たいものが走る。
私は空中に指を滑らせ、半透明のコンソール画面を展開した。
USBを仮想ポートに突き刺す。
流れるバイナリデータ。
解読された文字列を目にした瞬間、私の呼吸が止まった。
第三章 絶望のサーバー・ルーム
『被験者No.4082 佐倉徹:適合率AA』
『負の感情エネルギー、回収率120%達成』
『魂魄リサイクル準備完了』
文字列が、網膜を焼き尽くす。
ログのタイムスタンプは、私が入社した日付と一致していた。
「……ふざけるな」
このダンジョンは、ゲームでも逃避場所でもない。
会社が……いや、この社会システムそのものが作り出した「社畜の処分場」。
現実のストレスを魔力という名のリソースに変え、吸い上げる。
私たちは乾電池だ。
中身が空っぽになるまで搾取され、最後はここで「モンスター」として再利用される。
私はダンジョンの最深部へと足を進めた。
「コアルーム」の扉を蹴り開ける。
そこにあったのは、巨大なクリスタルなどではない。
無数のサーバーラックだ。
唸りを上げる冷却ファンの轟音が、亡者たちの慟哭のように反響している。
サーバーのインジケーターが赤く明滅するたび、どす黒い感情が流れ込んできた。
『お前は使えないな』
『代わりなんていくらでもいるんだ』
『納期を守れ。死んでも守れ』
「う、あぁ……!」
頭を抱える。
それは、かつての上司の怒鳴り声。
辞めていった同期の、最期のすすり泣き。
耳元で、システムからの嘲笑が聞こえた気がした。
《抵抗ハ無意味デス。業務ニ戻リナサイ》
圧倒的な「管理」の圧力。
心臓が早鐘を打ち、条件反射で「すみません」と言いそうになる。
このまま従えば楽になれる。
思考を停止して、ただの歯車になれば、もう傷つくことはない。
ポケットの中で、紙切れが熱を帯びた。
『残業手当申請書』。
いつもなら、ただ愚痴を書き込むだけの紙。
だが、今の私にはわかる。
これは、管理者権限への「変更申請書(リクエスト)」だ。
私は震える手でペンを取り出した。
恐怖で指が動かない。
それでも、歯を食いしばってペン先を紙に突き立てる。
「……却下します」
私は申請書の裏面、『自由記入欄』に、殴り書きを始めた。
第四章 デバッグ完了
インクが紙に染み込むそばから、光るコマンドラインへと変換されていく。
『root権限、強制奪取』
『中央集権サーバー、停止(シャットダウン)』
空間が悲鳴を上げた。
サーバーラックが激しく振動し、警告のアラートが鼓膜をつんざく。
《警告! 警告! 重大なコンプライアンス違反デス!》
《懲戒処分対象! 即時中止セヨ!》
《オ前ニハ無理ダ! オ前ニハ無理ダ!》
視界を埋め尽くす真っ赤なエラーログ。
精神を直接削り取るような頭痛が襲う。
それは、徹夜明けの朝に浴びる罵倒よりも鋭く、重い。
膝が折れそうになる。
だが、私は倒れない。
「うるさいんだよ……!」
血の味がする口の中で叫ぶ。
理不尽な仕様変更?
終わらないデバッグ?
そんなものは、死ぬほど浴びてきた。
これくらいの精神負荷(プレッシャー)で、社畜(わたし)が折れると思ったか。
「私のリソース(人生)は、私が決める!」
ペン先が紙を裂く勢いで、最後のコードを刻み込む。
『システム構造変更。全オブジェクトへ、自律稼働権限を付与(マイグレーション)』
破壊ではない。解放だ。
ここに囚われた魂たちを、管理者の手から解き放つ。
《承認……デキマセ……》
断末魔と共に、サーバー群が光の粒子となって崩壊を始めた。
天井が割れる。
降り注ぐのは、見たこともないほど澄んだ金色の光。
怯えていたゴブリンたちが、光の中で立ち上がるのが見えた。
彼らの顔から恐怖が消え、呆然とした表情が、やがて穏やかなものへと変わっていく。
私の体も、光に溶けていく。
不思議と恐怖はなかった。
鉛のように重かった肩が、嘘のように軽い。
「定時退社だ。……お疲れ様」
私は誰にともなく告げ、光の中へダイブした。
最終章 名もなき創造主
「……佐倉さん、佐倉さん!」
肩を揺すられ、私はハッと顔を上げた。
窓の外は、目が痛くなるほどの青空だった。
「あ、おはようございます……」
「おはようございますじゃないですよ。もうお昼です。佐倉さん、珍しく熟睡してましたね」
同僚が呆れたように、けれど親しげに笑いかけてくる。
私は不思議な感覚に包まれていた。
体が軽い。
頭の中にかかっていた分厚い霧が、すっかり晴れている。
「ニュース見ました? あの『YGSシステムズ』、昨晩倒産したらしいですよ」
「……へえ、そうなんですか」
その社名を聞いても、何も感じない。
ただ、胸の奥にあった黒い澱が消え去ったような、清々しさだけがある。
私は今、小さなWeb制作会社で働いている。
給料はほどほどだが、人間関係は悪くない。
何かとても大きな仕事を終えた気がするが、それが何だったのか、どうしても思い出せなかった。
帰り道、いつもの公園を通りかかった。
砂場で、子供たちが遊んでいる。
「ここにトンネル掘ろうぜ!」
「えー、私はここにお城作るの!」
「じゃあ、トンネルとお城をつなげちゃおうよ!」
子供たちの声が弾む。
設計図もなければ、管理者もいない。
それぞれが自分の意思で、勝手気ままに、けれど楽しそうに一つの世界を作り上げている。
その光景を見た瞬間、私の足が止まった。
不意に、視界が滲む。
既視感。
そして、理由のわからない、けれど確かな「達成感」。
ああ、そうだ。
あれで、よかったんだ。
誰かに強いられた効率化ではなく、不格好でも自分たちの手で積み上げる自由。
それを、私は守れたのだから。
「……いい出来だ」
私はネクタイを緩め、深く息を吸い込んだ。
夕暮れの風が、どこか懐かしい土の匂いを運んでくる。
私は歩き出す。
私の知らないどこかの世界で、名もなき彼らが、今度こそ自分の物語を紡いでいることを信じて。
『』