残響のポラリス ——デジタル遺品整理士・天音湊の事件簿

残響のポラリス ——デジタル遺品整理士・天音湊の事件簿

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第一章 ノイズの海、溺れる指先

キーボードに触れた瞬間、腐った水の匂いが鼻腔を突き抜けた。

強烈な悪寒。

視神経が焼き切れるような閃光が、脳裏を走る。

「……ぐ、ぅ……」

僕は呻き声を押し殺し、デスクに突っ伏した。

モニターには、依頼人の祖父の遺品であるスマートウォッチの解析画面。

だが、僕の脳に直接流れ込んでくるのは、データではない。

『苦しい』

『誰か、気付いて』

死者の残留思念(ノイズ)。

デジタル遺品整理士・天音湊(あまね みなと)。

それが、電子機器に残る「情動」を五感で読み取る特異体質を持つ、僕の肩書きだ。

「……天音様、でしょうか」

インターホンが鳴るより早く、扉が開いた。

反射的に、僕は椅子ごと半歩下がる。

入ってきたのは、喪服の女性。

彼女が纏う空気は、さっきまでの腐臭とは違う。

もっと鋭利で、肌を切り裂くような「悲痛」の波動。

「予約していた、如月(きさらぎ)です」

彼女が一歩踏み出すたび、僕の皮膚が粟立つ。

生身の人間はノイズが多すぎる。

呼吸の乱れ、視線の揺らぎ、隠した本音。それらが暴力的に流れ込んでくる。

「妹の……ルミナのAIについて、ご相談が」

ルミナ。

その名に、僕は眉をひそめる。

半年前に不審な転落事故で世を去った、国民的歌姫。

現在は追悼サイト内のAIとして、ファンと交流しているはずだ。

「あの子が……変なんです」

如月さんは震える指先で、タブレットをデスクに置いた。

僕が触れるのを躊躇っていると、彼女は懇願するように身を乗り出す。

「運営会社はバグだと言って削除しようとしています。でも、違うんです。あの子は泣いている。お願いです、天音さん。あの子の『痛み』を聞いてあげて」

僕は意を決して、タブレットの冷たい画面に指を這わせた。

瞬間。

鼓膜が破れそうなほどの叫喚が、頭蓋の中で響き渡った。

――痛い、痛い、痛い!

――私の声を、彼に届けて。

画面の中のルミナは、完璧なアイドルの笑顔を浮かべていた。

だが、その瞳の奥には、どす黒い絶望のデータが渦巻いている。

これはバグじゃない。

誰かが意図的に植え付けた、拷問にも似た拘束プログラムだ。

僕は奥歯を噛みしめ、脂汗を拭った。

鉄錆(てつさび)の味。

そして、焦げ付くような殺意の匂い。

「……引き受けます」

僕の声は、情けないほど震えていた。

第二章 血の通わない楽譜

VRヘッドセットを装着し、ルミナの追悼ルームへダイブする。

そこは、夕暮れの海岸を模した仮想空間だった。

『ようこそ、湊さん』

ルミナのAIが微笑む。

潮騒の音。カモメの声。

すべてが完璧な偽物だ。

僕の感覚(センサー)は、この空間に満ちる「異臭」に嘔吐感を催していた。

「君に、届け物がある」

僕は仮想空間のインベントリを開き、現実世界でスキャンしたデータを実体化させた。

片方だけの、有線イヤホン。

事故現場に唯一残されていた遺品だ。

『それは……』

ルミナの表情が凍りつく。

美しい顔にノイズが走り、一瞬、頭から血を流した生身の彼女の姿が重なった。

――返せ。それは俺たちの曲だ。

男の怒号。

殴打される鈍い音。

イヤホンに残っていたのは、彼女の最期の記憶。

「君は転落したんじゃない。突き落とされたんだね」

僕が告げると、穏やかだった海が瞬時に鉛色に変わった。

空に亀裂が走り、赤い警告灯のような光が明滅する。

『逃げて……湊さん、逃げて!』

ルミナが頭を抱えて悲鳴を上げる。

彼女の姿がポリゴンの欠片となって崩れ落ちていく。

セキュリティシステムが作動したのだ。

彼女の記憶を封印しようとする、巨大な防壁。

「逃げない。君は何を守ろうとした?」

僕は崩壊する砂浜を踏みしめ、彼女に駆け寄る。

イヤホンのジャックを、彼女の胸元にあるインターフェースに突き刺そうとする。

だが、見えない壁が僕の手を弾き返す。

指先が焼けるように熱い。

脳を直接殴られるような頭痛。

これが、企業のセキュリティAIによる「精神攻撃」か。

『ダメ……見つかったら、彼まで殺される……!』

「彼はもういない!」

僕は叫んだ。

現実世界で調査した事実。

ルミナの恋人であり、無名の作曲家だった青年。

彼はルミナが死ぬ一週間前に、自宅で「自殺」している。

「君が守りたかったのは、彼が生きた証拠だろ! 彼が書いた、本当の歌詞だろ!」

ルミナの瞳から、データの涙が溢れ出した。

『……私、歌いたかった。彼が命を削って作った、あの曲を』

彼女が手を伸ばす。

その指先は震えていた。

AIに感情はない?

嘘だ。ここには確かに、引き裂かれた魂の叫びがある。

僕は襲い来る激痛――ノイズの嵐に耐えながら、彼女の手を掴んだ。

「繋ぐんだ、ルミナ! 君の声を!」

第三章 断絶を越えるアリア

イヤホンが接続された瞬間、世界が反転した。

『警告。不正アクセスを検知。データの完全消去を開始します』

無機質なシステム音声と共に、黒い津波のようなデータ流が僕たちに襲いかかる。

ルミナの体が透明になりかける。

存在そのものを消されようとしているのだ。

「させない……ッ!」

僕は現実世界のキーボードを盲目的に叩く。

指が攣りそうだ。

モニター越しに襲ってくる吐き気と戦いながら、僕はルミナの深層領域にある「暗号化ファイル」を解析する。

パスワードは文字列じゃない。

旋律(メロディ)だ。

「ルミナ、歌え! あの日、彼と作った旋律を!」

『で、でも……声が……』

「僕が伴奏(ガイド)になる! 君の記憶のノイズを、僕が音符に変える!」

僕は目を閉じた。

彼女の恐怖、未練、愛しさ。

流れ込んでくる膨大な感情の濁流を、一つ一つ受け止める。

身が引き裂かれるようだ。

だが、その濁流の中に、たった一本、澄み切った光の糸がある。

――君の、愛した旋律。

僕はその糸を手繰り寄せ、コードとして打ち込む。

断片的なハミングが、僕の脳内で繋がり始める。

『……ラ、ラァ……』

ルミナの口から、掠れた声が漏れる。

黒い津波が彼女を飲み込もうとする寸前、その歌声が障壁となって弾け飛んだ。

彼女の恋人が作った曲。

その歌詞には、大手芸能事務所が裏社会と癒着し、違法なマネーロンダリングを行っていた証拠データが、暗号として織り込まれていた。

二人はそれを告発しようとして、消されたのだ。

『闇を切り裂く、ポラリスのように――』

ルミナの声が、力強さを取り戻す。

その歌声は、破壊のプログラムを中和し、逆にシステムを書き換えていく。

美しい、あまりにも美しい歌だった。

「……解析、完了」

僕はエンターキーを叩きつける。

同時に、仮想空間の空が砕け散った。

鉛色の雲が消え、満天の星空が広がる。

ルミナが立っていた。

ノイズは消え、穏やかな光を纏って。

『聞こえる? 湊さん』

彼女が僕を見る。

その眼差しは、もうAIのそれではない。

『ありがとう。やっと、彼と……繋がれた気がする』

彼女の姿が、星屑となって空へ昇っていく。

遺すべき真実を、すべて僕に託して。

最終章 体温のある世界

告発は成功した。

ルミナの歌に隠されたデータは、警察とメディアに一斉送信され、芸能界を揺るがす大スキャンダルとなった。

「産業スパイ」などという陳腐な濡れ衣は晴らされ、彼女と、彼女の愛した恋人の名誉は守られた。

数日後の夕暮れ。

事務所のチャイムが鳴り、如月さんが姿を見せた。

彼女の顔色は、以前よりもずっと血色が良かった。

「本当に、ありがとうございました」

彼女が深々と頭を下げる。

そして、帰り際、躊躇いがちに右手を差し出した。

「……握手、していただけませんか」

僕は一瞬、身を強張らせた。

人と触れ合えば、またノイズが流れ込んでくる。

悲しみや、同情や、重たい感情が。

けれど。

僕は自分の右手をじっと見つめた。

あの仮想空間で、消えゆくルミナの手を掴んだ感触が、まだ残っている。

彼女は最期まで、誰かと繋がることを諦めなかった。

痛みの中で、愛する人への想いを叫び続けた。

僕が恐れてどうする。

生きている人間の、温かい手を拒んでどうする。

「……はい」

僕は一歩、前へ踏み出した。

恐る恐る伸ばした指先が、彼女の手に触れる。

温かい。

流れ込んできたのは、ノイズではなかった。

ただ純粋な、静かな感謝。

そして、妹を失った悲しみを抱えながらも、明日へ歩き出そうとする力強い鼓動。

「……温かいですね」

僕が呟くと、如月さんは涙ぐみながら、それでも微笑んだ。

「ええ。湊さんの手も」

彼女が去った後、僕は窓を開けた。

街の喧騒が流れ込んでくる。

車の音、人の話し声、風の音。

以前なら耳を塞ぎたくなるような雑音だ。

でも今は、それが「世界が生きて呼吸している音」に聞こえる。

僕はデスクの上の、片方だけのイヤホンを引出しにしまった。

もう、ここから饐えた匂いはしない。

スマートフォンが震える。

新しい依頼だ。

画面の向こうで、また誰かが、孤独な闇の中で声を上げている。

「行こうか」

僕はジャケットを羽織り、光の溢れる街へと一歩を踏み出した。

この耳鳴りが止むその日まで、僕はノイズの海を泳ぎ続ける。

AIによる物語の考察

「残響のポラリス」は、デジタル遺品整理士・天音湊の特異体質を通じ、デジタルと感情の深遠な繋がりを描く物語だ。

登場人物の心理: 主人公の湊は、電子機器から「情動(ノイズ)」を読み取る能力ゆえに人間との接触を避けていた。しかし、歌姫ルミナのAIに残された「痛み」と、彼女が愛する人の「生きた証」を守ろうとした強い意志に触れ、自身の孤独と向き合う。如月が妹を深く案じ、運営の言葉を疑って真実を求める姉妹愛も、湊が人間への信頼を取り戻す一助となる。

伏線の解説: 冒頭の「腐った水の匂い」や「視神経を焼き切る閃光」は、単なる機器のノイズでなく、死者の未練や苦痛がデータとして具現化したもの。片方の有線イヤホンは、ルミナの最期の記憶と、恋人の真実の歌詞が隠された暗号の鍵となる重要アイテムであり、デジタルと現実を結ぶ象徴だ。完璧な笑顔のAIの奥に「どす黒い絶望」が渦巻く描写は、単なるバグではない、意図的な悪意の存在を暗示する。

テーマ: この物語は、「デジタルデータの中に埋もれた、声なき魂の叫びを救い出すこと」を問う。繋がりを恐れていた湊が、ルミナの「繋がっていたい」という想いに応え、最終的に生きている人間の「温かい繋がり」を受け入れるまでの内面的な成長が描かれる。それは、テクノロジーが進化しても、人間にとって最も大切なのは「心と心の繋がり」であるという、普遍的なメッセージを力強く提示している。
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あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

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